(26)出発
午前八時。
玄関先で魔木炭を入れた籠を“モンキー”の荷台にくくりつけると、儀一はヘルメットを被った。
空を見上げる。
晴天とは言い難いが、薄い緑色の空が少し見えている。
風はない。
それでも、身体の芯まで凍えるほど寒い。
「夕方までには戻る予定です」
往路は平均時速三十キロで走行して、三時間ちょっと。復路は平均時速四十キロで二時間半。
ポルカの町に滞在する時間は、三時間以内とする。
「ですが、これはあくまでも暫定です。ポルカの町での滞在が長引いた場合、一泊する可能性もありますので」
「はい」
ねねは笑顔で答えた。
「ご無理を、なさらないでください」
どこかぎこちない、不自然な笑顔だった。
本当は不安で仕方がないのだろう。しかし子供たちがいる前で取り乱すわけにはいかない。
そんな彼女の心情を、儀一は察していた。
無言のまま頷いて、ねねの頭を撫でる。
「さくらも、なでなでして!」
こういうところには目ざとい少女、さくらがおねだりした。
よしよしと撫でると、隣の結愛がじっと見上げてくる。
「結愛君も、頼んだよ」
「うん、まかせて」
結愛の頭も撫でてやる。
「おっちゃん、お土産ある?」
蓮の第一声に呆れたのは、蒼空だ。
「おじさんは仕事に行くんだ。初めての町だし、そんな余裕ないよ。それよりも、ポルカの町のことを教えてください。春になったら、僕もお手伝いしますから」
「うん」
儀一は蓮と蒼空の頭をくしゃりと撫でた。
グローブをはめて“モンキー”に跨る。
「ねねさん、子供たちをお願いします」
「はい」
「みんなもねね先生のこと、頼んだよ」
子供たちもそろって頷く。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃーい」
儀一は慎重に、“モンキー”をスタートさせた。
ギュルルルという、唸るようなエンジン音を立てながら、快調に進んでいく。
ギアはサード。舗装されていない土と砂利のでこぼこ道なので、トップギアは必要ない。
ガラガラガラ……。
時速三十キロをキープする。
東の太陽と西の月の位置は、雲がかかかってぼんやりとしている。
だが、おおよその位置は分かる。
カロン村から北に三キロほど進むと、東西に分かれる丁字路に突き当たった。
東に向かえばポルカの町、西に向えばウィージ村。
北側にはアズール川が流れていて、魚を捕まえる時には、ここでバイクを降りて徒歩で川へと向かう。
東へ向かう道は初めてだ。
儀一はバイクが示す走行距離とともに、周囲の景色や特徴のある草木、岩などを記憶していた。
カミ子によると、“ミルナーゼ”は平面世界だという。
ゆえに、丸い地平線や水平線は存在しない。
障害物がない限り、視界はかなり遠くまで届くはず。
ガラガラガラ……。
後方から聞こえてくるこの雑音は、暖炉で使う火かき棒だ。
火かき棒はバイクのマフラーの部分に取り付けられており、地面に接地している。
これで地面に印をつけ、目印にしようという作戦だった。
左手にはアズール川と“オークの森”。
右手には荒涼とした大地。枯れ草とこぶし大ほどの岩で覆われている。これでは麦など育たないだろう。荒野鼠がいるらしいが、どのようにして狩るのだろうか。
街道の部分には雑草が少ない。よく見れば、轍のような跡もかすかに残っている。
地面の凹凸や障害物にも気を配らなくてはならない。
“モンキー”のタイヤは太く、ハンドルを取られやすい。転倒して怪我でもしたら、引き返すことになるだろう。
慎重に、一定速度をキープして。
旅行というにはほど遠い気分で、儀一は全神経を集中させていた。
途中、地面の色が変わり、轍の跡も消えた。
おそらく“オークの森”を脱出した際にムンクが起こした洪水のせいだろう。
大地と道の境目が消えてしまったが、アズール川に沿って走る限り、道を大きく外れることはない。
洪水の跡はそれほど続かなかった。すぐに道が現れる。
ほっとしたのも束の間、アズール川と街道が少しずつ離れていった。
洪水が発生する河川のそばを街道が走るのは、危険ということだろうか。カロン村でも、洪水対策として高台の上に食料庫が設置されていた。
地形と人々の生活には、密接なつながりがある。逆算すれば、様々なことが見えてくるものだ。
やがて、右も左も目印となるものがなくなった。
雑草の少ない道だけが頼りである。
「GPSがあればなぁ」
儀一はぼやかずにはいられなかった。
街道と集落の位置、そして現在位置さえ把握できれば、たとえ道を見失ったとしても、たどりつくことができるだろう。
現代日本で生きていた自分が、科学技術によっていかに安心と利便性を享受していたのか、身にしみて分かった。
失ってから初めて、便利さに気づくことは多い。
一時間後、一回目の休憩をとった。
集中力を持続させるために、五分ほど。
水筒の中のウーロン茶を飲んでひと息つき、おもむろにラジオ体操を開始する。
寒さで強張った身体をほぐすための運動だ。
周囲には誰もいない。
荒野鼠の姿さえない。
広大な大地で実施するひとりラジオ体操は、自然と一体化する儀式のような、荘厳な趣があった。
「さて、出発だ」
一時間走って、五分休憩を繰り返す。
それと気づかないくらい大きな曲線を描きながら走ってきたようで、いつの間にか南側を向いて走っていた。
三回目の休憩までに、約九十キロを走破した。
進行方向の先、空と大地の境目に、青っぽい色が混じっていることに儀一は気づいた。
あれは、水平線だろうか。
時刻は午前十一時過ぎ。
ひらけた大地の中、ぽつねんと佇む低木を見つけたので、そこで食事をとる。
ねねが早起きして作ってくれたのは、三種類のサンドイッチだった。
ピコピコ鳥の肉と卵、そしてマヨネーズであえたジュキラ芋。
パンはガラ麦を焼いたもの。
鶏肉も卵も貴重品。手間もかかっている。
カロン村では贅沢なお弁当であった。
――うまい。
ねねは料理が得意だ。
美味しい料理は元気の源。モチベーションを高めるための重要な要素といえるだろう。娯楽の少ない世界ではなおさらだ。
“オークの森”でも、どれだけ助かったことか。
「みんなにも、食べさせたいなぁ」
食べ盛りの子供たちが見たら、羨ましがっただろう。
こんな食事を、毎日食べさせてやりたい。
そんなことを考えている自分に気づいて、儀一は苦笑した。
サンドイッチを食べて感傷的な気分になったのは初めてだ。
ひょっとすると、戦後の日本の父親たちも、こんな気持ちを胸に秘めつつ、明日に向かってがむしゃらに働いていたのだろうか。
食事を終えると、すぐに出発する。
少しずつ樹木も増えて、道も分かりやすくなった。
そして、午前十一時四十分。
ついに、ポルカの町が見えてきた。
灰色の石壁である。
入口らしき門も確認した。
儀一は街道から外れた場所に“モンキー”を隠すと、魔木炭が入った籠を背中に担いで、徒歩で向かった。
門の前は半円状の石畳の広場になっていた。
荷馬車や儀一のように荷物を背負った人々の姿もある。
大きな問題もなく、無事にたどり着くことができた。
とりあえずは、ひと安心だ。
ここからは元営業マンの腕の見せ所。
だが、とっかかりのない飛び込み営業というわけではない。ドワーフのランボがくれた紹介状という心強い味方がある。
取引が終われば、あとは薬の調合の依頼のみ。
それは、ただのお使いと同じだ。
「――よし!」
ひとつ気合いを入れると、儀一は入口らしき場所に立っている門番らしき人物のところに、真っ直ぐ向かっていった。