(11)嫉妬
おにぎりを乗せた盆の隣に木製の看板を立て掛けると、ねねはいつもより早く寄り合い所をあとにした。
そして家に帰ると、洗濯物を干しながら儀一の帰りを待ち続けた。
子供たちが手伝ってくれたので、すぐに手持ち無沙汰になってしまう。
「ねね先生、ジブリ見ていい?」
「いいわよ」
蓮に許可を出したものの、
「ねね先生もいっしょに見よ」
さくらの誘いには笑顔で首を振った。
「私はいいわ。もう少しここにいるから、みんなで見てらっしゃい」
何を見ようかと楽しそうに相談しながら、子供たちがマンション内に入っていく。
ねねはふっと息をついた。
目を閉じ、唇を軽く噛む。
彼女は必死に耐えていた。
儀一が戻ってこないかもしれないという恐怖に、である。
昨日の夜、儀一はこれからの予定をねねに説明した。
“オークの森”に入って、ジュエマラスキノコを探すのだという。
ねねは自分の耳を疑った。
“オークの森”は、何度も死を覚悟し、絶望した場所だ。
実際、儀一と出会っていなければ、自分と子供たちは何もできずに殺されていただろう。
かろうじて、本当にかろうじて、全員が無事に生き残ることができたのである。
カロン村にたどりついてからは、“オークの森”での出来事を思い返そうとはしなかったし、必要がなければあえて話題に出すこともなかった。
それは子供たちも同じである。
しかし儀一は、雨漏りする天井は直さなくてはならない、という感じで、さらりとねねに伝えてきたのである。
もちろん理由も説明された。
生活の安定を確保するためには、この世界のお金が必要であること。オークたちが全滅した今がもっとも安全な時期であること。水属性魔法を使えるカミ子と水の精霊ムンクがいれば、大抵のことは切り抜けられること。少人数の方が動きやすいこと。
だから、カミ子と二人で“オークの森”に入るのだという。
儀一に何かあったら、それこそ取り返しがつかない。
生きているだけで、今のままで十分だ。
あえて危険を冒す必要などない。
次々と儀一を引き止める言葉が浮かんだが、ねねは口に出すことができなかった。
儀一は自分など考えも及ばない先のことまで視野に入れている。その上で方針を立てたのだろうし、実際そうやって“オークの森”でも生き残ってきた。
いつだって儀一は正しかった。
自分の心配事など、すでに想定済みだろう。
だから今回も問題はないはず。
しかし、今になって――
誰もいない庭でひとり、ねねは立ちすくんでいた。しゃがみ込んで泣き出しそうになるのを、必死で堪えていた。
とにかく無事でいて欲しい。
怪我をせず、戻ってきて欲しい。
もし儀一の身に何かあれば……。
暗い思考に捕らわれながら、どれくらい時間が過ぎただろうか。
唸るようなエンジン音が聞こえた。
「儀一さんっ!」
ねねは弾かれたように駆け出して、門の外に出た。
小さなバイクに無理やり二人乗りしている。
儀一とカミ子だ。
「おうい、二宮さ~ん!」
カミ子は後ろの荷台に立って、儀一の肩につかまっていた。
片手で手を振ったせいでバランスを崩したのだろう。慌てたように儀一の首にしがみつく。
「おわっ! 山田さん、落ちる、落ちる!」
「ですから、立ったら危ないと――」
「ぎゃぁああ、あっはっは!」
“モンキー”はふらふらになりながら、門の前に到着した。
大きく息をつき、儀一がスタンドを立てる。
「おかえりなさい、儀一さん、カミ子さん」
「ただいま――」
「とうっ!」
儀一を押しのけるようにして、カミ子が飛び降りた。
「ちょっと聞いてよ、二宮さん! 芋虫を見つけたんだけど、めちゃくちゃ苦くってさ。やっぱり生はだめだね。一匹だけ持って帰ってきたから、料理してくれない? 油で揚げたらきっとうまいと思うんだ」
困ったような顔で受け答えしながらも、自分の心の中に儀一の無事を喜ぶ以外の感情が混じっていることに気づき、ねねは愕然とした。
「わぁ!」
儀一がつかんでいるものを見て、子供たちは目を丸くした。
それは、体長五十センチはあろうかという魚だった。
色は桃色で、鼻の先が豚のように突き出ている。
「これはね、ムンクが捕まえたんだよ」
儀一が鑑定しねねが解読したところ、オークフィッシュという魚らしい。
もちろん食べることができる。
“オークの森”での作業を終えて、水舟でアズール川を渡っている途中、儀一は水の中を滑るように移動する魚影を何度も見かけた。カミ子に確認したが、やはり水操では捕まえられないという。
アズール川の水深は、深いところで三メートルくらいある。流れも速いので、釣りや投網も難しそうだ。
この世界に来てから、儀一は魚を食べていなかった。
油の乗った切り身の塩焼き。大根おろしに醤油。
そして、炊きたてのご飯と味噌汁。
そんな食卓の光景を思い浮かべていると、頭の上に乗っていたムンクがぷるりと震えて、触手を川の中に伸ばした。
ピチャン、ビチビチ。
そして驚くほどあっさりと、オークフィッシュを捕まえてきたのである。
オークが近づいてきた時の対策として、ムンクには探知機の役割をお願いしていたのだが、これは思わぬ収獲だった。
『ありがとう、ムンク。さくら君もきっと喜ぶよ』
焼き魚を前にさくらがばんざいしている姿を思い浮かべると、ムンクは興奮したように触手をうねらせて、立て続けに十匹ほど捕獲してきた。舟の中が魚で一杯になり、運べない分はリリースすることになったのである。
儀一の予想通り、食べることが大好きなさくらは、大喜びでムンクに抱きついた。他の子供たちも次々とムンクを褒め称える。照れているのか、ムンクの触手が複雑に動き回り、がんじがらめになった。
ただひとり、面白くなかったのはカミ子である。
「ふ、ふんっ! そんなものはおまけさ。さあ、山田さん。ボクの素晴らしい活躍の成果を、子供たちに見せてあげたまえ」
儀一がテーブルの上に置いたのは、ガラ麦の藁で作った細長い入れ物だった。ちょうど納豆を包む藁のような形をしている。
「なにこれ?」
蓮が藁を開いて、出てきた白い球体のひとつを摘み上げた。
匂いを嗅いでみると、
「うわ、くっさ!」
「あー、“臭キノコ”ですね」
ずっと四次元収納袋に収納していた蒼空は、すぐに気づいたようだ。
結愛とさくらが少し身を引く。
その様子を見て、蓮がにやりと笑った。ジュエマラスキノコを持ったままにじり寄る。
「ちょっと、こっちこないでよ」
「れん君、くさーい」
結愛とさくらが逃げ出して、蓮が追いかける。蓮の暴挙を止めようと、蒼空も追いかける。きゃーきゃー叫びながら、子供たちはテーブルの周囲をぐるぐる駆け回った。
「みんな、食べ物で遊んではだめよ。でないと――」
穏やかな笑顔のねねに、しかし有無を言わせない迫力で説得されて、一気に収束する。
独特の香りがするジュエマラスキノコは、子供たちに“臭キノコ”と呼ばれ、嫌われていた。しかも“オークの森”ではごろごろ採れたので、ありがたみも薄い。
「さくら、ムンクちゃんの魚がいい」
サクラの言葉に、蓮、蒼空、結愛の三人も次々と賛同する。
「ふ~ん。あ、そう」
子供たちの評価にぶちキレたカミ子は、もうひとつの成果物を披露することにした。
それは、丸々と太った乳白色の芋虫だった。
まだ生きていて、カミ子の手の中でうにうにと動いている。
「ほらほら、君たち。もっとよく見せてあげるよ~」
子供たちは悲鳴を上げて、本気で逃げ出した。
翌日から、食卓の主役として魚が登場するようになった。
焼き魚、煮魚、スープ、鍋……。
良質なたんぱく質である魚は、朝市でも人気の商品だ。
野菜、卵、ミルクなどの食材と交換することにより、子供が成長する上での必要な栄養を確保することができた。
ちなみにカミ子が捕まえてきた芋虫は、ねねが恐る恐る素揚げにしたのだが、
「う~ん。まあ、う~ん」
以降、カミ子が持ち帰ることはなかったので、おそらくまずかったのだろう。
ねねはマンション内の料理機材――ガスコンロや電子レンジなどを使わずに料理を作り始めた。
まずは火である。
火おこしセットで種火を作り、枯葉や藁で包むようにして息を吹きかける。火がついたら竃に移して、乾燥させた枝とともに薪を投入する。
これがコンロの代わりとなる。
弱火と強火を切り替える場合、薪を崩したり追加したりする必要があるので、かなり手間がかかる。
調理場にはフライパンや鍋を使う丸型の竃の他に、四角い石焼き竃もあった。これはパンを焼くためのオーブンだ。魔木炭を壁際に散らして、
にパン生地を置いてじっくりと焼く。
パン生地の作り方や竃の使い方は、タチアナとトゥーリに教えてもらった。
手間はかかるが、炎で直接炙った魚や焼きたてのパンは美味しい。
子供たちにも大好評だ。
マンション内の設備に頼らず生活すること。
それは儀一の指示だった。
「何らかの事情でマンションが使えなかった場合、食事もできなくなるようでは困りますので」
もっともな理由ではあるが、儀一が頻繁にカロン村を離れるようになったことも、無関係ではないだろう。
儀一はカミ子とムンクを連れ立って、危険な“オークの森”に通うようになった。
五日に一度は“シェモンの森”で木こりの仕事もするが、それ以外は毎日だ。
ねねの心境は複雑だった。
寄り合い所のおにぎり屋については、ねねと子供たちが担当することになり、さらにもうひとつ悩ましい問題が発生した。
「よう、ネネ」
ドランである。
初対面の時から嫌われているのではないかと感じていたが、カミ子の食料窃盗疑惑の直後から風向きが変わったようで、頻繁に声をかけてくるようになったのだ。
「ほらよ」
その日ドランは、毛むくじゃらの塊を放り投げてきた。
それは荒野鼠の屍骸だった。
「きゃっ!」
ドランたちはカロン村の周囲に広がっている荒地に出向き、荒野鼠の狩りをしていた。
この鼠の毛皮はとても丈夫だが、毛が短く黒灰色で光沢もない。毛皮としては売り物にはならないらしい。
餌の少ない土地に住むので、肉付きも悪く筋張っている。
しかし村では贅沢品だった。
ねねを怖がらせたドランは、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「泥棒猫の仲間じゃあ肩身も狭いだろう? 朝市でも相手にされないはずだ。腹をすかせたガキどもに食わせてやりな」
「い、いえ。あの――」
ムンクが食べきれないほどの魚を捕ってきてくれるので、必要はない。
そう言おうとしたのだが、
「ふっ、じゃあな」
さっと手を上げると、ドランは踵を返して去っていった。




