(25)
醤油せんべいが、ぽろりと口から落ちた。
「な、なんじゃこりゃあ!」
天地も定かでない灰色の空間。
金髪碧眼の美男子――神様は、画面盤を両手でつかみながら怒鳴りつけた。
水の精霊が、大河を割った。
千年に一度、いや、それ以上に希少な、まさに神話級の事象である。
「ろ、六歳の子供が?」
ありえない。
「精霊魔法を、使って?」
不可能だ。
精霊魔法は確かに強力だが、それでも自然界を動かすほどの力はない。
そのような力を、人間が制御できるはずがないのだ。
精霊魔法は、気高き心と強い精神力をもって精霊たちと契約し、命令する。
大自然の力をほんの少しだけ、精霊を介して使役するのである。
精霊魔法の強さに関しては、精霊の術者に対する忠誠度で決定される。
「今の値は?」
神様は七番――さくらの状態盤を操作して、すべての隠しパラメーターを表示させた。
水の精霊ムンクの、さくらに対する忠誠度は……。
「ゼ、ゼロ?」
なんど見直しても、ゼロ。
この数字で精霊たちの力を引き出すことは、できないはずだ。
「この子、どうやって精霊を使ってるのさ。そもそも、契約してる?」
神様は他のパラメータをチェックしていく。
そしてひとつだけ。
ごく浅い位置にある情報に目をつけた。
――友好度。
協定により、神様はミルナーゼにいる異世界転生者に対して、直接力を行使することを禁じられている。
よって、その心情を把握することができない。
だから神様は、異世界転生者たちの精神状態や対人関係等を数値で表示させる機能を、特殊能力システム内に組み込んでいたのである。
忠誠度や友好度のパラメーターも、そのひとつだった。
何故このような機能を実装したのかというと、ドキュメンタリー番組を作成する際に、異世界転生者たちの内面描写を、ナレーションとして入ようと考えたからである。
ややイレギュラーな使い方になるが、神様はさくらとムンクの友好度を調べてみた。
「……ら」
“ラブラブ”。
そんなふざけた表記は――
「あっ」
思い出した。
ひょっとするとサバイバル中のつり橋効果から、異世界転生者同士に恋が芽生え、そこからラブストーリーにつながるかもしれない。
これは、ドキュメンタリー番組的にもおいしいのではないか。
そう考えた神様は、友好度の数字が最高値に達したときに“ラブラブ”と表示されるように、設定していたのである。
つまりは、友好度――百。
「精霊が自分から、動いている?」
だとするならば、これはもう精霊魔法などではない。
そう、ただの――とてつもなく歪な、ただの自然現象である。
「いやいやいや。これまで、そんな事例はなかったはず」
またしても神様は気づいた。
六歳の子供が精霊と触れ合うという状況自体が、そもそもありえないのだ。
ミルナーゼで生まれた人間や亜人間たちは、特殊能力システムを使えない。
魔法にしろスキルにしろ、地道な訓練を通じて少しずつ身につけていく。
精霊魔法を使って精霊たちを呼び出すのは、必然的にある程度の経験と年齢を経てからになるわけで、人間の場合、老人になってから初めて精霊魔法に挑戦するという事例も少なくないのだ。
水の精霊が、純真無垢な子供を気に入ってしまった。
呼び出されて使役されるばかりの存在が、“護る”喜びを知ってしまった。
だとするならば。
「あ、やば……」
神様は青ざめた。
驚愕のあまり思考が停止したのは、わずか約二秒。
反射的に儀一は叫んでいた。
「みんな、川底へ! 早く!」
蓮と蒼空とねねをつれて斜面を滑り降り、川底に着地。
「ステータス、オープン」
地面は固い。ぬかるんでもいない。
ところどころ凹凸はあるものの、岩や石は散らばっていないようだ。
「さくら君も、こっちに降りてきて」
「う、うん。グーちゃんごー」
さくらと結愛はまだグーの両肩に乗っている。
こわごわといった感じでグーの頭部にしがみつきながらも、なめらかな動きで斜面を降りてきた。
「ねねさんはグーに乗って、向こう岸に渡ってください。全速力で。七十秒以内です!」
「――は、はい!」
「蓮君と蒼空君は僕が連れて行きます。先に行ってください!」
グーの最高速度は、時速約二十キロ。
川幅が三百メートルとするならば、一分以内に渡りきれる。
しかし、子供の足では無理だ。
「召喚。ベラ・ルーチェ東山一〇二号室」
儀一はマンションを召喚すると、土足のまま中に入った。
リビングの壁にかかっていた鍵を手に取る。
そして儀一は小さなバイクを引きながら玄関を出てきた。
名前は、“ホンダ・モンキー”。
カラーリングは赤と黒と、銀。チェックのシートが特徴的な、原動機付自転車――小型レジャーバイクだ。
今から十一年前、前の会社を退職した際に支給された退職金で、儀一はこのミニバイクを購入していた。いわゆる限定モデルであり、また手ごろな大きさや派手な見かけから、盗難に遭うことが多い。
よって、玄関の中に保管していたのである。
「蓮君、蒼空君! こっちへ」
蓮を抱きかかえるようにして燃料タンクのところに、蒼空を背負うようにして、後ろの荷台に乗せる。
状態盤内、さくらの特殊能力ウィンドウに表示されているムンクの活動時間は、残り五十五秒。数字の色は赤。
五十四秒、五十三秒……。
キック一発でエンジン始動。
クラッチを切って、ギアを一速に入れる。
「いくよ!」
クラッチを繋ぐと同時に、儀一はアクセルを全開にした。
そして、儀一たちに遅れること数秒。
赤目狼に乗ったオークキングが川べりに到着し、そのまま立ち止まった。
目の前の川が、二つに割れていた。
何が起きたのか、分からない。
視界の先――自分が捜し求めていた人間たちが、川底を走って向こう岸へと逃げていた。
ここで逃がしたら、王としての立場は終わる。
それは、死ぬことと同義だ。
追いかけて、捕まえなければならない。
『全員、オレ様に――このギガブラスに続けっ!』
後方に続く四百体ものオークたちに号令を発すると、オークキングと赤目狼は川底へと降り立った。




