(24)
森が切れると、なだらかな平原に出た。
その先には幅三百メートルはあろうかという巨大な川があり、勇壮な景色を見せていた。
儀一たちがたどってきた小川は支流であり、大河との合流を果たしたのだ。
「すげぇ」
「わぁ」
蓮と蒼空が感嘆の声を上げ、川べりまで駆け寄っていく。
平原には樹木の数が少なく、身を隠すところがない。
周囲を警戒しつつ、儀一も子供たちを追いかけた。
「さくら、あたしたちもいこっ」
「うん。グーちゃんごー」
「――きゃっ」
先を行く男の子二人を追いかけるように、突然グーがスピードを上げて、その背中におんぶされていたねねが悲鳴を上げた。
これほどの大河だというのに、信じられないくらい水が澄んでいる。
太陽の光を存分に浴びて、水面がきらきらと光り輝いていた。
「あっ、魚だ。魚がいた!」
「え、どこ?」
「ほら、あそこ。でっけー」
「あたしも見たい!」
「ぐーちゃん、ごー」
蓮が目ざとく魚らしき影を見つけ、子供たちが集まる。
ねねはグーから降りると、儀一のそばに歩み寄った。
「儀一さん……」
「どうやら、“オークの森”を抜けたようですね」
儀一は川の向こう岸を指差した。
向こう側も平原になっているようだ。
そして、視界の中に小さなものが動いていた。
馬のような動物に引かれた、荷台のようなもの。
「……馬車?」
「そのようです」
人がいる――
ねねは立ちつくした。
さまざまなことを思い返したのだろう。
口元に手を当てて、嗚咽を漏らす。
「儀一さん……。人、です……」
「ええ」
子供たちも気づいたようだ。
大声を出して両手を振るが、向こう側の馬車は気づかない。
大河の水の音で、こちらの声が届かないのだろう。
馬車が動いているということは、街道があるということだ。
そしてそれは、人間たちの領域であることを意味する。
「川の向こう側に渡れば、助かるよ」
ねねと子供たちを元気づけるように、儀一は断言した。
子供たちも興奮したようにはしゃぎ合った。
さて問題は、川を渡る方法である。
この水量と流れの速さでは、泳ぐという選択肢はない。
川上へ向かうか、川下へ向かうか。
橋を探すのであれば、川上だろう。川幅が狭くなれば、橋を架ける可能性が高くなる。もちろん、現地の住民たちがだ。
海へ向かうのであれば、川下だろう。大河が海へ流れ出る場所には肥沃な土地――三角州が形成され、人が集まる。
漁村や港町が見つかるかもしれない。
また、いかだを作るという方法もあった。
一度森へと戻り、蒼空のポケットに入るくらいの太さの木を、蓮の光刃剣で伐採する。
それをマンション内にある備品で繋げ、いかだを作るのだ。
具体的に検討しようと森の方を振り返った儀一は、愕然とした。
森と平原の境目の辺りに、無数の影が蠢いていた。
灰色っぽい肌、寸胴がに股の四頭身。斧のような武器を手にしている。
それは、オークたちの群れだった。
先頭には、巨大な狼にまたがったひと際大きなオークがいた。
黒っぽい毛皮のようなものを身に着けており、他のオークたちとは明らかに様相が異なる。
おそらくオークキングだと、儀一は直感した。
オークたちの集団は、こちらの姿を完全に捉えていた。
全員が両手を突き上げるようにして、一斉に雄たけびを上げる。
その声に、ねねと子供たちが驚いた。
「みんな、こっちに集まって」
オークたちの数を、儀一は正確に把握しようと努めた。
二百、三百……いや、四百はいるだろうか。
「ぎ、儀一さん」
怯えたようなねねの声に、儀一は応えない。
さらに、自分たちとオークの群れとの距離を目測する。
約、五百メートル。
二分から三分でこちらにたどり着くだろう。
儀一は背後を振り返る。
流れの速い大河。逃げ場はない。
周囲を見渡す。
樹木、岩、草――全員が身を隠せるような場所もない。
瞬間的に、儀一は後悔の念に捕らわれた。
森の中で、隠れているべきだった?
そこでオークたちの大群をやり過ごすべきだった?
判断ミス?
いや、違う。
相手は狼を連れている。
匂いを追跡されていたはずだ。
どちらにしろ同じ。
この場で――
仮定することに意味がない。
そんな思考は――
後回しだ。
ほんの一瞬で、儀一は思考を凍結させた。
やがて、オークたちの雄たけびが止んだ。
不気味なくらいの静寂が漂う。
狼に乗った先頭のオークが、巨大な斧のようなものを高く掲げる。
それが振り下ろされると同時に、オークたちが突進してきた。
「おっちゃんっ! おっちゃんっ!」
蓮が混乱したように儀一の服を引っ張り、
「だ、だめだ。もう……」
蒼空が絶望の呟きを漏らした。
グーの右肩に乗っていたさくらが声もなく震え、同じく左肩に乗っていた結愛が、グーの頭ごとさくらを抱きしめた。
「みんな、落ち着いて!」
儀一は叫んだ。
平地では、乱戦になる。
属性魔法では防ぐことはできないだろう。
手持ちの札は、三枚。
水の精霊、ムンク。
土の精霊、グー。
そして、儀一が召喚できるマンションだ。
八十秒の活動時間中に、ムンクはどれだけのオークを倒せるだろうか。
おそらく、百体。
八十秒の活動時間中に、グーはどれだけのオークを倒せるだろうか。
おそらく、三十体前後。
とても足りない。
だが、時間稼ぎはできるだろう。
精霊たちを一体ずつ戦わせ、百六十秒間の時間を得る。
その間にこの場を離れ、隠れる場所を探す。
一瞬だけでいい。
岩陰でもいい。草陰でもいい。
そこでマンションを召喚し、退避するのだ。
今は正午を過ぎている。
マンション内で十二時間を過ごせば、日付が変わる。
日付が変われば、精霊魔法が使えるようになる。
次に玄関を出るのは、深夜。
間髪いれずにムンクとグーを呼び出し、オークたちの数を減らす。
そして、残りの敵を属性魔法で片付けるのだ。
生き残る可能性は低いが、不可能ではない。
問題は、高確率でオークたちにマンションの扉を発見されてしまうことだった。
マンション内にはパーティメンバーしか立ち入ることはできない。そういう条件が後付されている。しかし、この条件が適用されるのは、自分たちと同じ異世界転生者だけなのかもしれない。魔物たちの場合はどうだろうか。そこまでは神様に確認していない。
もしドアを破られ、乱入されたら――
マンション内では魔法は使えない。
こちらは完全に攻撃手段を失うことになる。
扉を発見させないようにするには――
ここにきて、儀一は苦肉の策を捻り出した。
川の中はどうか。
入水したと見せかけて、水面直下にマンションを召喚する。
さくらの鳩爆弾を使い、オークたちの目を眩ませ、その隙にマンション内に退避するのだ。
岸辺に近すぎると、扉を発見される危険性がある。
だが、水の流れは速く、冷たい。
子供たちを連れて、どこまで入り込むことができるか。
それに、深すぎる位置に召喚すると、水圧で扉が開かない可能性もある。
もちろん練習ができない一発勝負だ。
「さくら君。ムンクを呼んで」
可能な限り穏やかな口調で、儀一はお願いした。
「う、うん」
「ほら、川に向かって。だいじょうぶだよ」
「うんでぃーね!」
水面が盛り上がり、楕円体の水の塊が現れた。
「ムンクちゃん……」
さくらはオークたちに勝てるとは思わなかった。
ムンクが飛び立った後、オークたちを倒し続けていたことを、彼女は知らなかったのだ。
ただただ、逃げたい。
さくらがすがったのは、先ほどの儀一の言葉だった。
「川の向こう側に渡れば、助かるよ」
だからさくらは、ムンクにお願いした。
「うん、そうなの。さくら、向こうにいきたい」
――こぽり。
ムンクの身体が振動した。
楕円体の身体が、触手が、青白く発光する。
その光は一気に強さを増し、まるで太陽のような閃光となった。
びりびりと、空気が震える。
強大な力に恐れおののくかのように、グーが頭をごりごりと回転させる。
ゴゴゴゴゴ……。
例えるならば、巨大な滝の音。
河川の水面が乱れ、荒れ狂う。
水しぶきとともに、白い筋が入っていく。
こちらから向こう岸へ、一直線に。
その筋が、左右に広がっていく。
ゴゴゴゴゴ……。
大河が、切り裂かれた。




