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 峡谷きょうこくを渡ってオークたちを振り切った後、さくらにグーを呼び出してもらい、さらに先へ進むことになった。

 どこか別の場所に峡谷を渡る手段はあるのだろうか。

 あったとしても近くにはないはず。しばらくはオークたちも追ってはこないだろう。

 とりあえず今は、この場を離れることが先決だ。

 儀一はそう考え、蒼空の四次元収納袋フォーディメンションパックから、木の枝を加工して作ったほうきを取り出してもらった。

 グーの移動速度はなかなかに速い。

 最大で時速二十キロメートルくらい出せるようだし、振動も少ない。

 搭乗可能な人数は、三人。

 ねねと子供たちをローテーションさせ、儀一は箒でグーの“足跡”を消していく。

 峡谷の先も同じような森だったが、やや地面が傾斜し、下りになった。地面に降り積もった落ち葉をかけるだけなので、“足跡”を消すのはそれほど手間ではない。

 途中、ねねが交代を申し出たが、儀一は子供たちを休ませることを優先させた。

 子供たちは信じられないくらい元気で無駄な動きをするが、ある一定量のエネルギーを使い果たすと、すぐに疲れ果て、眠ってしまう。

 長時間の移動には、向いていないのだ。

 三十分ごとに少し休憩。これを淡々と繰り返していく。

 幸いなことにオークの追っ手は迫ってきていないようだ。

 やがて東の太陽が暗くなり、西の月が明るくなった。

 空の色は薄い緑色から濃い紫へと変わる。

 何日経っても見慣れない奇妙な世界だった。

 八時間経過したところでグーが消え、木々が密集している場所に身を隠す。

 それから約二時間の待機。

 ようやくマンションを召喚することができた。






「た、だいまぁ~」


 ほとんど倒れ込むようにして、結愛はマンション内に入った。

 助かった。何とか、逃げ切った。


「う~」

 

 さくらはもう限界のようで、放っておいたらすぐ寝てしまいそうだ。

 

「お疲れ様。とりあえず、水分補給をしよう」


 儀一がキッチンへ向かい、戸棚からお盆を取り出す。


「結愛君、手伝ってくれるかい?」

「はい、おじさ……」


 お盆を受け取った瞬間、結愛の身体が硬直した。

 コップを乗せようとした儀一が、結愛の様子に気づいてその手を止める。


「あ……」


 儀一の手は、どす黒い血で汚れていた。

 手だけではない。頬や首の辺りにも、すでに変色した血がこびりついている。

 それは、彼が石斧でオークを殴り倒した時の返り血だった。

 お盆を持つ結愛の手が震え、無意識のままに一歩後ずさる。


「い、や……」

「儀一さん」


 後ろから声をかけてきたのは、ねねだった。

 いつもより少し低い落ち着いた声。嬉しい時も悲しい時も表情豊かなはずのねねは、感情を押し殺したかのような、静かな微笑を浮かべていた。


「手と顔が、少し汚れています。お風呂の前に拭きますから、こちらに」

「あ、すいません」


 二人は洗面所へと向かった。

 

「結愛~、お茶ぁ」


 そんなふざけた注文をする蓮のコップは、あえて忘れたふりをする。いつもの調子であれば、結愛はそうしたことだろう。しかし彼女は、自分が儀一に向けてしまった反応にショックを受けて、立ち尽くしていた。


「どうしたんですか、結愛さん?」


 冷蔵庫にウーロン茶をとりにきた蒼空が、心配そうに聞いてくる。


「なんでもない」


 結愛はぶんぶん頭を振ると、全員分のコップをお盆に乗せて、リビングへと運んだ。

 食事中も結愛は気になって仕方がなかった。

 さくらが眠そうにしていたこともあり、結愛もまた無言のまま、もそもそとご飯を口に運んでいた。

 時おり、ちらりと儀一の様子を窺う。

 一度だけ目が合ったときには、不思議そうな顔をされて、それから微笑まれた。

 結愛はすぐさま目を逸らした。

 食事の後、お風呂場で蓮がひと悶着もんちゃく起こしたらしい。

 昼間のオークとの戦いで活躍できなかったことに不満があり、儀一に文句を言ったようだ。

 本当に子供だと、結愛は呆れた。

 あれだけの数のオークを相手に、本気で勝てると思っていたのだろうか。

 蓮の魔法は射程が短いものばかりだし、以前、三体のオークに囲まれた時も、何もできなかった。

 別に気にする必要はない。蓮は単純で馬鹿だから、どうせ明日になったら忘れてしまうだろう。放っておけばいいのだ。

 歯磨きをした後、みんなで協力して寝室からマットレスを運んでくる。

 さすがに飛び込んで遊べるほどの元気はなかった。

 

「今日は早く寝て、しっかり疲れをとろう。ねねさん、朝の勉強もなしです」

「はい。わかりました」


 儀一は電気を消そうとしたが、


「あのっ、儀一さん」


 消え入りそうな声で、ねねが「小さな電気だけ、つけていただけませんか?」と注文した。今日の出来事の後だったので、真っ暗な闇が怖かったのだろう。

 正直、結愛も怖かった。


「じゃ、お休みなさい」


 部屋の電気が消され、ぼんやりとしたオレンジ色の光が天井に当たっている。

 うらやましいことに、隣のさくらは一分と経たずに眠ってしまったようだ。

 かちゃかちゃというキーボードを叩く音が聞こえてくる。一日一回、儀一は神様宛に今日の出来事を報告しているらしい。日記のようなものだという。

 やけに耳につくその音は五分ほどで消えて、儀一は部屋の隅にあるソファーに寝転がった。いつもであれば蓮と蒼空と一緒の布団で寝るはずなのに、どうしたのだろうか。

 目を閉じて、結愛は無理やり眠ろうとした。

 しかし、すぐに昼間の記憶――あの光景が蘇ってきた。

 さくらの手品によって生み出された白い鳩の群れ。その陰に隠れてよく見えなかったが、儀一はオークが落とした石斧を振りかぶり、思いきり叩きつけたのだ。

 ゴチッという鈍い音が、今でも耳に残っている。

 怖いと思う前に、結愛は例えようのない衝撃を受けていた。

 しかし結愛自身、そのことに気づいてすらいなかった。

 マンションに帰ってほっと気が緩み、血で汚れた儀一の手を間近で見た時に、初めて拒絶反応を起こしたのである。

 本当に悪いことをしたと思う。

 しかし結愛の見たところ、当の儀一はまるで気にしていないようだった。

 食事の時も普段通りだったし、こちらを見て不思議そうな顔をしていた。

 儀一は大人だ。普段からひょうひょうとしているし、大げさに驚いたり悲しんだりもしない。

 だから、気にすることなんてない。

 結愛は目を開けて、こっそりソファーの方を見た。

 薄暗いオレンジ色の闇の中、ソファーで仰向けに寝ていた儀一は、右手を天井に向かって突き出していた。

 手の甲を見て、ひっくり返し、手の平を見る。

 それから、何かを握るような仕草をした。

 結愛は顔をそむけて、布団を頭から被った。

 どきどきと、鼓動の音が跳ね上がる。

 

 ――そんなはず、ない。


 自分が守ろうとした子供に、怯えられたのだ。

 傷つかないはずがない。

 大人だから。子供である自分を心配させないために、無理をして微笑んでくれただけなのだ。

 それからしばらくの間、結愛は布団の中でじっとしていた。

 頭の中がごちゃごちゃになり、眠れそうになかった。

 身体は疲れきっているはずなのに、頭はどんどん冴えていく。

 早く眠らないといけないのに、明日もいっぱい歩かないといけないのに、ぜんぜんだめだ。

 

「うう……」


 再び布団から顔を出して時計を確認すると、一時間ほど経っていた。

 部屋の中は静かで、穏やかな寝息だけが聞こえてくる。

 結愛は自分だけが取り残されてしまったような、そんな気持ちになった。

 そっと布団を抜け出して、ソファーの前にひざまずく。

 儀一は横向けになって、窮屈そうに眠っていた。小さな毛布を身体にかけている。毛布の上に投げ出されていた腕を、結愛はじっと見つめた。

 儀一はこの手で、結愛を――みんなを守ってくれた。

 崖を渡った後も、結愛たちは代わりばんこにグーに乗って移動したが、儀一はずっと歩いていた。ねねが儀一も乗るように勧めたのだが、子供たちが疲れ果てていたので、背負うことにしたのである。

 一番疲れているはずなのに、儀一はそんな素振りなど少しも見せなかった。


「おじさま、ごめんなさい……」


 やっとの思いで、結愛は呟いた。





 儀一は傷ついてなどいなかった。

 どちらかといえば、失敗したなという感じである。

 二十歳の若い身体とはいえ、さすがに歩き詰めは堪えた。マンションに戻り安堵したことで、注意力が散漫さんまんになっていたのだろう。

 昼間、オークを石斧で倒した時に返り血を浴びていたことを失念し、結愛を怯えさせてしまった。


「い、や……」


 いくらオークとはいえ、人型の魔物である。その惨殺の場面を目の当たりにして、平静でいられるはずがない。

 心的外傷トラウマにならないかと心配した儀一は、ねねによって救われた。


「手と顔が、少し汚れています。お風呂の前に拭きますから、こちらに」


 洗面所に入ると、ねねはぬるま湯でタオルを濡らし、儀一の顔を拭き始めた。

 鏡があるので自分でできるのだが、有無を言わせない気配があった。


「……ごめんなさい、儀一さん」

「ねねさんが謝ることじゃありませんよ。僕の方こそ、不注意でした」

「結愛ちゃんの様子は、私がみておきますから」


 こういう時、母親的な立場であるねねの存在は大きい。

 

「助かります」

「あ、シャツにも血がついてます。脱いでくださいね」


 無理やり上着を脱がし、シャツのボタンをみっつほど外したところで、ねねの手が止まった。


「……っ」


 何かに気づいたように、真っ赤になる。

 つい子供たちにやる感覚で、手を出してしまったのだろう。


「自分で脱ぎますよ」

「ご、ごめんなさい!」


 食事中、結愛は先ほどのやり取りのことを気にしているようだった。

 口数も少ないし、ちらちらとこちらを観察してくる。

 結愛は六歳の子供にしては驚くほど気がきくし、お転婆なようで言葉遣いや礼儀作法はしっかりしている。いいところのお嬢様なのかもしれない。

 やれやれ、子供に気を遣わせてしまった。

 儀一は結愛と視線を合わせると、あえて不思議そうな顔を作ってから、心配ないよという感じで微笑んだ。

 自分が子供だった頃の記憶はほとんどないが、子供は子供なりにいろいろと考えているようだ。


「おっちゃんだけ、ずるい!」


 ねたような顔で訴えかけたのは、蓮である。


「そんなことより、頭、洗うよ」

「ちょ、ちょっと待――」


 お風呂場の浴室。

 可愛いものを出しながらいきり立っても、効果は半減である。

 両手を顔に当てて泡が目に入らないようにしながら、蓮は主張した。

 ひと言で要約すると、活躍したかったということだ。


「お湯をかけるよ」

「う、うん」


 蓮と蒼空が身体を洗っている時に、儀一が湯船に浸かる。

 あ~と、親父くさい声が出た。


「……僕は、根が臆病だからね」


 戦うよりも、まずは逃げることを考えてしまう。

 冒険よりも、安定を選択してしまう。

 でもこの世界ではいつか、それだけではうまくいかない場面も出てくるだろう。

 その時には――

 

「蓮君のように、勇気を出して立ち向かわないといけない。その時には、いっぱい活躍してもらうよ」


 パジャマに着替え歯磨きを済ませてから、ベッドメイキングをする。さくらはお風呂場でも寝てしまったようで、うつらうつらしていた。

 

「今日は早く寝て、しっかり疲れをとろう。ねねさん、朝の勉強もなしです」

「はい。わかりました」


 ねねの要望により、豆電球ひとつ残して電気を消すと、儀一は神様への報告メールを作成した。今日は色々なことがあったが、食事のメニューと感想だけを書いて送信。

 何となく、今日はソファーで寝ようと思った。

 薄暗闇の中で、右手を眺めてみる。

 この手で、オークを殺した。

 人型の魔物を。

 オークが石斧を片手で扱っているのを確認し、これならば自分の力でも持ち上げることはできると判断した。そしてさくらの手品で目をくらませ、一撃でとどめを刺した。

 その時の感触を思い出すかのように、手を握り締めてみる。 

 どう取り繕っても、やはり、心に負荷がかかっているようだ。

 おそらくそれは、殺人をイメージしてしまうからだろう。

 儀一は悩んだ。

 自分のことではない。

 子供にこのような行為をさせても、だいじょうぶなのだろうか。

 心が傷ついたり、壊れたりはしないだろうか。

 いや、残忍な行為に対しては、意外と子供の方が抵抗力が強いという話を聞いたことがある。

 小さな虫をつかまえてもてあそべるのは、子供だからだ。

 強いというよりは、想像する力が育っていないということなのだろう。

 どちらにしろ、今は生き残ることが最優先だ。

 ぱたんと腕が落ちる。

 水の中に沈み込むようなまどろみに身を任せながら、儀一は風呂場で蓮に言ったことを、ぼんやりと思い起こしていた。


 その時には……。

 ……。


「――ん?」


 身体に違和感を覚え、儀一はふと目を覚ました。

 腕に重石おもしが乗っている。

 いや、自分の隣に子供が寝ているようだ。

 

「ゆ、あ……君?」


 確認すると同時に、欠伸あくびが出てしまう。

 今日は怖い思いをしたので、寝付けなかったのだろうか。

 時計の針を確認すると、起床時間までまだ数時間あるようだ。

 とにかく、狭いソファーの上ではバランスが悪い。

 ひとつ息をつくと、儀一は結愛を抱き寄せて毛布で包んだ。

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