(19)
峡谷を渡ってオークたちを振り切った後、さくらにグーを呼び出してもらい、さらに先へ進むことになった。
どこか別の場所に峡谷を渡る手段はあるのだろうか。
あったとしても近くにはないはず。しばらくはオークたちも追ってはこないだろう。
とりあえず今は、この場を離れることが先決だ。
儀一はそう考え、蒼空の四次元収納袋から、木の枝を加工して作った箒を取り出してもらった。
グーの移動速度はなかなかに速い。
最大で時速二十キロメートルくらい出せるようだし、振動も少ない。
搭乗可能な人数は、三人。
ねねと子供たちをローテーションさせ、儀一は箒でグーの“足跡”を消していく。
峡谷の先も同じような森だったが、やや地面が傾斜し、下りになった。地面に降り積もった落ち葉をかけるだけなので、“足跡”を消すのはそれほど手間ではない。
途中、ねねが交代を申し出たが、儀一は子供たちを休ませることを優先させた。
子供たちは信じられないくらい元気で無駄な動きをするが、ある一定量のエネルギーを使い果たすと、すぐに疲れ果て、眠ってしまう。
長時間の移動には、向いていないのだ。
三十分ごとに少し休憩。これを淡々と繰り返していく。
幸いなことにオークの追っ手は迫ってきていないようだ。
やがて東の太陽が暗くなり、西の月が明るくなった。
空の色は薄い緑色から濃い紫へと変わる。
何日経っても見慣れない奇妙な世界だった。
八時間経過したところでグーが消え、木々が密集している場所に身を隠す。
それから約二時間の待機。
ようやくマンションを召喚することができた。
「た、だいまぁ~」
ほとんど倒れ込むようにして、結愛はマンション内に入った。
助かった。何とか、逃げ切った。
「う~」
さくらはもう限界のようで、放っておいたらすぐ寝てしまいそうだ。
「お疲れ様。とりあえず、水分補給をしよう」
儀一がキッチンへ向かい、戸棚からお盆を取り出す。
「結愛君、手伝ってくれるかい?」
「はい、おじさ……」
お盆を受け取った瞬間、結愛の身体が硬直した。
コップを乗せようとした儀一が、結愛の様子に気づいてその手を止める。
「あ……」
儀一の手は、どす黒い血で汚れていた。
手だけではない。頬や首の辺りにも、すでに変色した血がこびりついている。
それは、彼が石斧でオークを殴り倒した時の返り血だった。
お盆を持つ結愛の手が震え、無意識のままに一歩後ずさる。
「い、や……」
「儀一さん」
後ろから声をかけてきたのは、ねねだった。
いつもより少し低い落ち着いた声。嬉しい時も悲しい時も表情豊かなはずのねねは、感情を押し殺したかのような、静かな微笑を浮かべていた。
「手と顔が、少し汚れています。お風呂の前に拭きますから、こちらに」
「あ、すいません」
二人は洗面所へと向かった。
「結愛~、お茶ぁ」
そんなふざけた注文をする蓮のコップは、あえて忘れたふりをする。いつもの調子であれば、結愛はそうしたことだろう。しかし彼女は、自分が儀一に向けてしまった反応にショックを受けて、立ち尽くしていた。
「どうしたんですか、結愛さん?」
冷蔵庫にウーロン茶をとりにきた蒼空が、心配そうに聞いてくる。
「なんでもない」
結愛はぶんぶん頭を振ると、全員分のコップをお盆に乗せて、リビングへと運んだ。
食事中も結愛は気になって仕方がなかった。
さくらが眠そうにしていたこともあり、結愛もまた無言のまま、もそもそとご飯を口に運んでいた。
時おり、ちらりと儀一の様子を窺う。
一度だけ目が合ったときには、不思議そうな顔をされて、それから微笑まれた。
結愛はすぐさま目を逸らした。
食事の後、お風呂場で蓮がひと悶着起こしたらしい。
昼間のオークとの戦いで活躍できなかったことに不満があり、儀一に文句を言ったようだ。
本当に子供だと、結愛は呆れた。
あれだけの数のオークを相手に、本気で勝てると思っていたのだろうか。
蓮の魔法は射程が短いものばかりだし、以前、三体のオークに囲まれた時も、何もできなかった。
別に気にする必要はない。蓮は単純で馬鹿だから、どうせ明日になったら忘れてしまうだろう。放っておけばいいのだ。
歯磨きをした後、みんなで協力して寝室からマットレスを運んでくる。
さすがに飛び込んで遊べるほどの元気はなかった。
「今日は早く寝て、しっかり疲れをとろう。ねねさん、朝の勉強もなしです」
「はい。わかりました」
儀一は電気を消そうとしたが、
「あのっ、儀一さん」
消え入りそうな声で、ねねが「小さな電気だけ、つけていただけませんか?」と注文した。今日の出来事の後だったので、真っ暗な闇が怖かったのだろう。
正直、結愛も怖かった。
「じゃ、お休みなさい」
部屋の電気が消され、ぼんやりとしたオレンジ色の光が天井に当たっている。
うらやましいことに、隣のさくらは一分と経たずに眠ってしまったようだ。
かちゃかちゃというキーボードを叩く音が聞こえてくる。一日一回、儀一は神様宛に今日の出来事を報告しているらしい。日記のようなものだという。
やけに耳につくその音は五分ほどで消えて、儀一は部屋の隅にあるソファーに寝転がった。いつもであれば蓮と蒼空と一緒の布団で寝るはずなのに、どうしたのだろうか。
目を閉じて、結愛は無理やり眠ろうとした。
しかし、すぐに昼間の記憶――あの光景が蘇ってきた。
さくらの手品によって生み出された白い鳩の群れ。その陰に隠れてよく見えなかったが、儀一はオークが落とした石斧を振りかぶり、思いきり叩きつけたのだ。
ゴチッという鈍い音が、今でも耳に残っている。
怖いと思う前に、結愛は例えようのない衝撃を受けていた。
しかし結愛自身、そのことに気づいてすらいなかった。
マンションに帰ってほっと気が緩み、血で汚れた儀一の手を間近で見た時に、初めて拒絶反応を起こしたのである。
本当に悪いことをしたと思う。
しかし結愛の見たところ、当の儀一はまるで気にしていないようだった。
食事の時も普段通りだったし、こちらを見て不思議そうな顔をしていた。
儀一は大人だ。普段からひょうひょうとしているし、大げさに驚いたり悲しんだりもしない。
だから、気にすることなんてない。
結愛は目を開けて、こっそりソファーの方を見た。
薄暗いオレンジ色の闇の中、ソファーで仰向けに寝ていた儀一は、右手を天井に向かって突き出していた。
手の甲を見て、ひっくり返し、手の平を見る。
それから、何かを握るような仕草をした。
結愛は顔をそむけて、布団を頭から被った。
どきどきと、鼓動の音が跳ね上がる。
――そんなはず、ない。
自分が守ろうとした子供に、怯えられたのだ。
傷つかないはずがない。
大人だから。子供である自分を心配させないために、無理をして微笑んでくれただけなのだ。
それからしばらくの間、結愛は布団の中でじっとしていた。
頭の中がごちゃごちゃになり、眠れそうになかった。
身体は疲れきっているはずなのに、頭はどんどん冴えていく。
早く眠らないといけないのに、明日もいっぱい歩かないといけないのに、ぜんぜんだめだ。
「うう……」
再び布団から顔を出して時計を確認すると、一時間ほど経っていた。
部屋の中は静かで、穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
結愛は自分だけが取り残されてしまったような、そんな気持ちになった。
そっと布団を抜け出して、ソファーの前に跪く。
儀一は横向けになって、窮屈そうに眠っていた。小さな毛布を身体にかけている。毛布の上に投げ出されていた腕を、結愛はじっと見つめた。
儀一はこの手で、結愛を――みんなを守ってくれた。
崖を渡った後も、結愛たちは代わりばんこにグーに乗って移動したが、儀一はずっと歩いていた。ねねが儀一も乗るように勧めたのだが、子供たちが疲れ果てていたので、背負うことにしたのである。
一番疲れているはずなのに、儀一はそんな素振りなど少しも見せなかった。
「おじさま、ごめんなさい……」
やっとの思いで、結愛は呟いた。
儀一は傷ついてなどいなかった。
どちらかといえば、失敗したなという感じである。
二十歳の若い身体とはいえ、さすがに歩き詰めは堪えた。マンションに戻り安堵したことで、注意力が散漫になっていたのだろう。
昼間、オークを石斧で倒した時に返り血を浴びていたことを失念し、結愛を怯えさせてしまった。
「い、や……」
いくらオークとはいえ、人型の魔物である。その惨殺の場面を目の当たりにして、平静でいられるはずがない。
心的外傷にならないかと心配した儀一は、ねねによって救われた。
「手と顔が、少し汚れています。お風呂の前に拭きますから、こちらに」
洗面所に入ると、ねねはぬるま湯でタオルを濡らし、儀一の顔を拭き始めた。
鏡があるので自分でできるのだが、有無を言わせない気配があった。
「……ごめんなさい、儀一さん」
「ねねさんが謝ることじゃありませんよ。僕の方こそ、不注意でした」
「結愛ちゃんの様子は、私がみておきますから」
こういう時、母親的な立場であるねねの存在は大きい。
「助かります」
「あ、シャツにも血がついてます。脱いでくださいね」
無理やり上着を脱がし、シャツのボタンをみっつほど外したところで、ねねの手が止まった。
「……っ」
何かに気づいたように、真っ赤になる。
つい子供たちにやる感覚で、手を出してしまったのだろう。
「自分で脱ぎますよ」
「ご、ごめんなさい!」
食事中、結愛は先ほどのやり取りのことを気にしているようだった。
口数も少ないし、ちらちらとこちらを観察してくる。
結愛は六歳の子供にしては驚くほど気がきくし、お転婆なようで言葉遣いや礼儀作法はしっかりしている。いいところのお嬢様なのかもしれない。
やれやれ、子供に気を遣わせてしまった。
儀一は結愛と視線を合わせると、あえて不思議そうな顔を作ってから、心配ないよという感じで微笑んだ。
自分が子供だった頃の記憶はほとんどないが、子供は子供なりにいろいろと考えているようだ。
「おっちゃんだけ、ずるい!」
拗ねたような顔で訴えかけたのは、蓮である。
「そんなことより、頭、洗うよ」
「ちょ、ちょっと待――」
お風呂場の浴室。
可愛いものを出しながらいきり立っても、効果は半減である。
両手を顔に当てて泡が目に入らないようにしながら、蓮は主張した。
ひと言で要約すると、活躍したかったということだ。
「お湯をかけるよ」
「う、うん」
蓮と蒼空が身体を洗っている時に、儀一が湯船に浸かる。
あ~と、親父くさい声が出た。
「……僕は、根が臆病だからね」
戦うよりも、まずは逃げることを考えてしまう。
冒険よりも、安定を選択してしまう。
でもこの世界ではいつか、それだけではうまくいかない場面も出てくるだろう。
その時には――
「蓮君のように、勇気を出して立ち向かわないといけない。その時には、いっぱい活躍してもらうよ」
パジャマに着替え歯磨きを済ませてから、ベッドメイキングをする。さくらはお風呂場でも寝てしまったようで、うつらうつらしていた。
「今日は早く寝て、しっかり疲れをとろう。ねねさん、朝の勉強もなしです」
「はい。わかりました」
ねねの要望により、豆電球ひとつ残して電気を消すと、儀一は神様への報告メールを作成した。今日は色々なことがあったが、食事のメニューと感想だけを書いて送信。
何となく、今日はソファーで寝ようと思った。
薄暗闇の中で、右手を眺めてみる。
この手で、オークを殺した。
人型の魔物を。
オークが石斧を片手で扱っているのを確認し、これならば自分の力でも持ち上げることはできると判断した。そしてさくらの手品で目をくらませ、一撃でとどめを刺した。
その時の感触を思い出すかのように、手を握り締めてみる。
どう取り繕っても、やはり、心に負荷がかかっているようだ。
おそらくそれは、殺人をイメージしてしまうからだろう。
儀一は悩んだ。
自分のことではない。
子供にこのような行為をさせても、だいじょうぶなのだろうか。
心が傷ついたり、壊れたりはしないだろうか。
いや、残忍な行為に対しては、意外と子供の方が抵抗力が強いという話を聞いたことがある。
小さな虫をつかまえて弄べるのは、子供だからだ。
強いというよりは、想像する力が育っていないということなのだろう。
どちらにしろ、今は生き残ることが最優先だ。
ぱたんと腕が落ちる。
水の中に沈み込むようなまどろみに身を任せながら、儀一は風呂場で蓮に言ったことを、ぼんやりと思い起こしていた。
その時には……。
……。
「――ん?」
身体に違和感を覚え、儀一はふと目を覚ました。
腕に重石が乗っている。
いや、自分の隣に子供が寝ているようだ。
「ゆ、あ……君?」
確認すると同時に、欠伸が出てしまう。
今日は怖い思いをしたので、寝付けなかったのだろうか。
時計の針を確認すると、起床時間までまだ数時間あるようだ。
とにかく、狭いソファーの上ではバランスが悪い。
ひとつ息をつくと、儀一は結愛を抱き寄せて毛布で包んだ。




