(1)
二宮ねねは絶望の中にあった。
落ち葉と大樹に包まれた広大な森の中である。
初日、運よく身を隠せそうな木の洞を見つけた。二日目には雨が降ったので、木の葉や草の葉にたまった雨水で喉の渇きを潤し、それから木の実を捜すことにした。
手の届く範囲で見つけることができたのは、名前も分からない小さな赤い木の実だ。
子供たちと一緒に分け合って食べたが、味はともかく、量が足りない。
水場と食料を探しつつ歩き回り、三日目に初めて遭遇した動物は、人間だった。
二人組の男である。
おそらく二十代前半くらいだろう。太った男と痩せた長身の男だった。
「あの! そこの方!」
大声で叫ぶと、男たちはびっくりしたように飛び上がり、それから周囲を見渡した。ここはオークという魔物が棲む森なのだという。警戒するのは当たり前だ。
二宮ねねはふたりの前に姿を現し、協力して生き残りませんかと提案した。
男たちはねねの全身を、じっとりとした視線で観察した。
「ところでよ、姉ちゃん。あんたが神様にもらった能力はなんだい?」
痩せた長身の男が聞いてきた。
ねねは素直に答えた。
「タレントの翻訳です。現地の方とお話をすることができます」
男たちはあからさまにがっかりしたようだ。この森を抜けない限り、まったく役に立たない能力である。選択ミスであることは、ねね自身がよく分かっていた。
「で、でも。この子たちは魔法を使えます」
ねねと同じ場所に異世界転生した子供は四人。蓮、蒼空、結愛、さくら。男の子二人と女の子二人で、みんな小学一年生だという。
「悪いけど、ガキの面倒までみきれねぇよ。こっちもそんな余裕はねぇんだ」
「そ、そんな」
太った男が相槌を打った。
「そうそう。姉ちゃんだけなら、助けてやってもいいけどな」
論外である。
保育士という職業についているだけあって、ねねは子供の面倒をみるのが大好きだ。命が助かるとしても見捨てることはできない。
「なあ、利光」
「なんだよ、茂?」
「どうせ死ぬかもしれねぇんだ。少しくらい楽しんでも、いいんじゃね?」
「お、お前――」
痩せた長身の男の提案に、太った男が目を見張る。
「天才だな!」
「どうせ、警察なんていねぇし。助けもこねぇよ」
「ですな」
男たちはそろって、ねねを見つめた。にやにやと笑いながら近づいてくる。
明確な身の危険をねねは感じた。
恐怖のあまり後ずさったが、男たちの方が動きが早い。
反射的に身を守った腕を掴まれた。
「おい、ガキどもをつれてけ!」
「待てよ。俺にもやらせろ!」
男たちは競い合うように、襲い掛かってくる。
悲鳴を上げるまでもなく、落ち葉の地面に倒れ込むと、男たちが覆い被さってきた。
「いやっ!」
「いい身体してるじゃねぇか。ねぇちゃんよ」
「おい、じゃんけんだ、じゃんけん!」
「待てってこの――ぎゃっ」
突然、男の背中が燃え上がった。
「発火!」
涙目になりながらそう叫んだのは、結愛。
男たちの身体が燃え上がり、絶叫を上げながら転がり回る。何とかして火を消そうとしているようだ。
「ねね先生、早く逃げよう!」
蒼空がねねの手を引いて立たせようとする。
「う、うん」
「こ、このクソガキがぁ!」
痩せた長身の男が拳を握り締める。その前に立ちはだかったのは、蓮だ。
歳に似合わない俊敏な動きで男の懐に迫ると、両手を突き出して叫んだ。
「くらえ、光撃!」
「ぐほっ」
光とともに男は吹き飛ばされ、落ち葉の上を転がり、大樹の幹にぶつかって止まった。気を失ってはいないようだが、腹を押さえながら胃液を吐いている。
「し、茂ぅ!」
太った男が痩せた男を助けている間に、蓮が叫んだ。
「ほら、みんな逃げよう。さくらも、早く!」
「う、うん」
ねねたちは走った。とにかく遠く、男たちのいないところまで。
帰り道など気にしていられない。息の続く限り、とにかく走り続けた。
どうやら男たちが追いかけてこないことを確認してから、大樹の陰で息をつく。
「ねね先生、だいじょうぶ?」
不安そうな顔で、さくらが聞いてくる。
「うん。みんな、助けてくれてありがとう」
子供たちが誇らしそうに頷いた。
みんないい子だ。
優しくて勇気があって、賢い。
四人を抱き寄せると、しっかりとしがみついてくる。
このまま死なせるわけにはいかない。
何としてでも、生き残る。
北方にあるという町にたどり着いたら、翻訳の能力で、現地の住民に助けを請う。少なくとも、子供たちだけは救ってみせる。
「太陽と月があそこだから、北はあっちね」
方角はともかく、町までの距離が分からない。そこまではあの意地悪な神様も教えてはくれなかった。
とにかく水と食料がいる。
そして、オークと呼ばれる魔物と出会わない幸運が。
何も知らないねねと子供たちは北へ北へと進んでいき、二日後、オークたちの縄張りの中へ入っていた。
その頃には体力も気力も限界にきていた。
お腹を壊して歩けなくなったさくらを背負って、ねねは一歩一歩、落ち葉を踏みしめていく。蓮、蒼空、結愛の三人も疲れきっており、会話もなく、足取りもふらついている。
ふいに、周囲の木々ががさがさと動いた。
「だ、だれ?」
あの男たちが追ってきたのかとねねは警戒したが、違った。
茂みの中から現れたのは、三体の醜悪な生き物だった。
灰色と緑色を混ぜたような皮膚の色。鋭い目に突き出した鼻、そして鋭い牙。頭が大きく、手は短く、足はがに股。四頭身くらいだろうか。身長は一メートル五十センチもない。
『人間だ、こんなところに人間たちがいるぞ!』
『人間のメスだ、そして子供が四匹! ご馳走だ、逃がすな、囲め!』
『メスは生け捕りにしろ。犯しつくしてやる。子供は殺せ。今夜のご馳走だ!』
三体の魔物は歓喜の雄たけびを上げた。
おそらく翻訳の能力だろう。魔物たちの会話をねねは理解することができた。
理解、したくなかった。
子供たちがねねを守るように前に出たが、あきらかに怯えている。
魔法を行使すると魔力を消費する。子供たちの魔力では、一日に三回くらいしか魔法を使えない。しかも、蓮の光属性魔法は接近戦専用。危険が大きい。
「発火!」
一番負けん気の強い結愛が、果敢にも火属性の魔法を放つ。
『ぎゃっ』
一体の魔物の腕が燃え上がり、転がり回る。
『ま、魔法だ! この子供、魔法を使うぞ』
『落ち着け、距離をとれ。石を投げろ!』
魔物たちは距離をとり、石や木片や土の塊を投げてきた。
こうなると防戦一方である。大樹の陰に身を隠しても、後方に回りこまれる。ついに拳ほどの石が、ねねの顔面に飛んできた。
とっさに手でかばったものの額に衝撃を受け、座り込んでしまう。
「ねね先生!」
「やだ、やだ、先生、死んじゃやだよぉ」
「泣いちゃだめだ! 敵が!」
「うわああっ」
いかに魔法の能力があったとしても、六歳の子供たちである。
このような状況下においては、ねねを中心に身を寄せ合い、がたがたと震えるしかない。
魔物たちの輪は少しずつ狭まっていく。最初に腕を燃やされた魔物も復活したようだ。怒りに満ちた目で、両手に石を握っている。
脳震とうの症状を起こしながらも、ねねは気力を振り絞って子供たちを庇った。何の役にも立たない行為だと知りながら。
せめて、最初の犠牲は――
子供たちの震えと体温を感じながら、身を硬くしていると、奇妙な音が飛んできた。
シュン、パン。
シュン、シュン。
煙と火花を撒き散らしながら、何かが飛んでくる。
火薬の匂い。花火の匂いだ。
『ギギッ、魔法かっ』
『なんだこれは!』
『人間だ、他にも人間がいるぞ!』
花火の攻撃はより一層激しくなり、それから一人の男が雄叫びを上げながら突撃してきた。
「うわああああっ!」
男は両手に花火を持っていた。
赤や青や緑、派手な火花を放ちながら、ねねたちの方に走ってくる。
『ギギッ!』
『わわっ、変なのくる、変なのが!』
『に、逃げろ。くさい、毒かもしれん!』
背を向けて走り出す魔物に向かって、男は手に持っていた花火を投げつけると、さらにベルトにさしていたロケット花火に火をつけた。威力的には大したことはないが、視覚効果は絶大だ。
追撃を受けていると勘違いした魔物たちは、一目散に逃げ出した。
魔物をある程度追い回し、その姿が完全に消え去るのを見届けてから、男は戻ってきた。
黒いヘルメットにゴーグル。そして赤いグローブ。しかし身に着けているのは黒系のスーツというおかしな格好である。
「さ、みんな、ここは危険だ。逃げるよ」
打ち所が悪かったのか、ねねの意識は朦朧としていた。
男の肩につかまりながらしばらく歩いていたが、不意に気を失ってしまった。