(16)
“禿げ赤土”で、オークキングは手ごろな岩に腰掛けていた。
周囲には三百体ものオークの集団がいて、無言のまま干し芋虫を食み、水を飲んでいる。
ここはオークの集落から南に位置しているやや開けた高台。草木が少なく、赤土がむきだしになっている。森の中でオークたちが頻繁に使う、獣道ならぬ“オーク道”の要所でもあった。
オークキングは“禿げ赤土”を起点として、南側に向かって扇状に部隊を展開していた。
人間たちを発見したら、それぞれの部隊からの報告がくる。
その時には、オークキングとその本隊が、一気に動く手はず――になっていたのだが。
『……ギギッ、やられた』
初日、“禿げ赤土”に報告にやってきたのは、三体の血みどろになったオークだった。
序列二位のデズンが応対する。
『お前は、どこの組だ?』
『ブブンのところだ。“牙岩”で、やられた』
『人間か?』
『いや、違う。雨……雨の塊のような、化け物だった』
『空を飛んでいた。鳥でもない。蝶でもない』
『細長い腕があって、枝のように、と、尖っている』
『化け物は、殺して、消えた』
『――ひとりが話せ。さっぱり分からん』
オークキングによる精神的な支配が行き届いているため、恐れてはいないようだが、かなりの血を失い、みな疲れきっているようだ。オークキングに報告するために、必死に戻ってきたのだろう。
『オレたち以外は、みんなやられた。ブブンもだ……』
最後にそう言って、傷ついたオークたちはその場に倒れ込んだ。
二日目、やはり血みどろのオークたちが報告してきた。
『ひとりだけ話せ。お前は、どこの組だ?』
『ズズマの息子だ。“斑苔”で、襲われた』
『人間か?』
『いや、違う。化け物だ。透明な、水の、化け物……』
人間を見つけたという報告はない。
正体不明の化け物にやられて、部隊として機能することができなくなり、やむを得ず報告に戻るオークばかりであった。
オークキングは五日ほど我慢して“禿げ赤土”で待機していたが、とうとう痺れを切らした。
『デズン! どういうことだ?』
『わからん。たくさんやられた』
オークたちは、自分たちの森の領域を、その特徴となる地形や景色、植生などで呼び分けている。
“禿げ赤土”もそのひとつだ。
“牙岩”、“斑苔”、“霧原”、巻き風”、“蛇根”――五つの部隊が壊滅した場所は、扇状に展開している部隊の、とある方向に集中していた。
『そこに、何かいるのか?』
『そのようだ』
『殺されたギダンと同じ傷だ。デズン、雨――水の塊とはなんだ?』
『人間の魔法かもしれない』
『あの方向には、“爪跡”がある。追い込めば、逃げ場はなくなるはずだ。デズン、ガジラとバルバを連れて行け!』
『わかった』
デズンは赤目狼に跨ると、三組――約百五十体のオークたちを引き連れて、その場所へと向かったのである。
ムンクの行動を分析することで、儀一もまたオークたちの動きを推測していた。
これまでムンクは北――正確には、北北西の方角に向かって飛び立ち、おそらくオークたちを倒していた。
その辺りにオークたちの集落があるのではないかと、儀一はあたりをつけていた。
だから、真逆の方向へと進んでいたのである。
だがここ数日、ムンクの飛び立つ方向にばらつきがでてきた。
おもに北の方角なのだが、東寄りだったり西寄りだったり。これは、オークたちがこちらに迫っていることを意味するのではないか。距離が近づいてきたから、ムンクが飛び立つ方向に明確な違いが出てきたのではないか。
取得した評価経験値から逆算すると、かなりの数のオークたちがまとまって行動しているようである。
しかも、様々な方角に向かって、だ。
ひょっとすると、自分たちは今――山狩りにあっているのかもしれない。
そう考えたのは、森にちょっとした異変を感じるようになったからでもある。
自分たちの後方から、大小さまざまな動物が姿を現すようになったのだ。
それは、かつて子供たちが“白ふわピーナッツ”と名付けた動物だったり、しっぽがふたつある狸のような動物だったり、あるいは前転しながら転がり続ける猫のような動物だったりした。
残念ながら肉を得ることはできなかったが、これまで滅多に出会うことのなかった用心深いはずの森の動物たちが、何かに急き立てられるかのように、低木の茂みから飛び出してきたのである。
最初は火事でもあったのではないかと疑ったくらいだ。
「ねね先生、おかわり!」
元気な蓮の声に、儀一は我に返った。
「蓮君、ちゃんと噛んでる?」
「かんでる、かんでる」
すっかり板についてきた擬似家族の食卓は、旺盛な食欲をみせる子供たちのおかげで実に賑やかだった。
本日の夕食のメニューは、ジュキラ芋の炊き込みご飯、三種のキノコのスープバルサミコ風味、山菜類とメランユの木の葉のてんぷら、そして黒っぽいイケヌラの木の実を砂糖で煮詰めた黒豆もどき、である。
料理好きであり栄養士の勉強もしていたというねねは、和洋中と様々な料理に手をつけており、応用力もあった。
森の食材は種類は豊富だが、似通ったものが多くなる。
それでも調味料や調理方法を駆使して、飽きさせない工夫をしてくれている。
ひょっとすると、生前の食生活よりも、栄養のバランスは改善されているのかもしれないと、儀一は思った。
「ねえ、おじさま」
結愛が意味ありげな視線を向けてきた。
「ねね先生のお料理、おいしいね」
「うん、そうだね」
「美人だし、優しいし、お料理もうまいし」
深く考えずに頷いていると、隣にいるねねが真っ赤になった。
「素敵なお嫁さんに、なれるよね?」
「――ちょ、ちょっと結愛ちゃん。なに言うの?」
「へへぇ、言ってみただけー」
「なれるだろうね」
「ぎ、儀一さん!」
蓮は食事に夢中でまったく気づいていない。蒼空はぐぐっと歯噛みしている。年上の女性に憧れを持つ年頃なのだが、儀一への好意もあり、心情的に板ばさみになっているようだ。
そして天然のさくらは、真剣に悩む顔をした。
「さくらも、すてきなお嫁さん、なれるかなぁ」
「なれるなれる。さくらは、あたしのお嫁さん」
「じゃあ、ゆあちゃんは、さくらのお嫁さん!」
お風呂に入って、着替えて、歯磨きをしてから、リビングでみんなで寝る。
グーという移動手段を得たことにより、ねねの足の状態はかなりよくなった。子供たちの疲労度も軽減されて……おかげで、なかなか寝ついてくれない。
マットレスを床に置くと、きゃあきゃあ叫びながらダイビングを繰り返す。儀一が布団を被せても、その中でわさわさと動き回る。
最後には、両手を腰に当ててねねが怒った。
「あんまり騒ぐ子は、デザート抜きにします」
「え~っ」
薄力粉を使ったクッキーは、子供たちの大好物。効果は抜群のようだ。
子供は無駄に動き回る生き物だが、電池が切れるのも早い。儀一が神様に報告メールを出しているうちに、すやすやと寝てしまう。
本当ならば十時間は寝させたいところだが、状況がそれを許さない。今のところ八時間から九時間がせいぜいだ。
儀一とねねの睡眠時間は六時間くらい。子供たちより早く起きて、寝室でバシュヌーン語の勉強をするためである。
儀一がコピー用紙に写した文章を、単語に分解し、組み合わせ、その都度ねねが解読する。
文法的にはドイツ語に近いようだ。主語によって動詞の語尾が変わるらしい。逆にその形から主語を類推することができるので、主語を省略することも可能である。
しかし、最大の問題は単語だった。
通常は発音とセットで覚えるものなのだが、その発音が分からない。
しかも、例題となる文章は限られているし、マンション内のコピー用紙は、次の日にまで持ち越すことはできない。
日常生活で使いこなせるようになるまでにどれくらいの時間がかかるのか、予想すらできなかった。
「……あの、儀一さん」
ねねが遠慮がちに声をかけてくる。
少し考え事をしていた儀一は、頭をかいてごまかした。
「ああ、すいません。ここの文節は……」
「いえ、違うんです」
ねねは首を振ってから、儀一を見つめた。
「間違っていたらごめんなさい。最近、その……。儀一さん、悩んでいらっしゃるみたい」
「え?」
「私、心配なんです」
そんな様子は見せていないはずだがと儀一は考えたが、最近ねねとはよく視線が合うので、ひそかに観察されていたのかもしれない。
「あの、もしよかったら、相談してもらえませんか? その、話すだけでも、楽になるかもしれませんし……」
新米とはいえ保育士だけあって、意外と観察眼が鋭い。
そしてなにより、ひとの世話を焼きたい性分なのだろう。
あんな事件さえなければ、多くの子供たちに好かれる、素敵な保育士になっていたに違いない。
そんなことを考えていると、ねねは気落ちしたようにしゅんとなった。
「わ、私なんかじゃ、何の役にも立てないかも、しれませんけど……」
「そんなことはないですよ」
ねねは無条件で子供たちを抱きしめることができる。計算、あるいは打算で行動している自分では、とても真似のできないことだと儀一は考えていた。
「私、儀一さんに助けてもらってばかりで。足も靴擦れになって、ろくに歩けませんでしたし、キノコを見つけるのも下手で。その、恩返しをするどころか、ご迷惑ばかりおかけしてしまって……」
話しているうちに落ち込んできたのか、ねねは泣き出しそうになった。
「だ、だから、せめて――」
涙目で見上げてくる。
「お話、だけでも!」
視線がまともにぶつかって、空気が緊張した。
少し驚いたような顔をした儀一だったが、穏やかな微笑みを浮かべる。
その瞬間、ねねは真っ赤になって、
――カタン。
「あ、やべっ」
「ばかっ」
扉の向こう側から、どたばたと子供たちの足音が聞こえてきた。




