(10)
1LDKのユニットバスに、大人の男ひとりと子供二人はいささか狭すぎる。
必然的に代わりばんこで身体を洗ったり、湯船につかったりする形になるのだが、三日目にして、ようやく効率的な手順が分かってきた。
「ほい、次、蒼空くん」
蓮の頭を洗い流してから、儀一は蒼空を呼ぶ。
昨日までは元気だったのに、男の子二人はどこかおとなしかった。
そういえば、今日は初めて――夕食に待望のおかずが出たというのに、あまり会話が弾んでいなかったような気がする。
最初はねねと子供四人だけのサバイバルで、生きた心地もしなかったのだろうが、マンションで暮らせるようになって、安心したはず。
と同時に、家族が恋しくなったのだろうか。
子供の頃に家族と離れ離れになった経験のない儀一には、今の蓮と蒼空の気持ちが分からなかった。
対応するにしても、自分にその能力や資格があるのだろうか、儀一には判断がつかなかった。恋人はいたものの、家庭を持ちたいと思ったことは一度もない。そんな自分が父親の真似事をしたところで、ボロが出るに決まっている。
それに、子供たちの家族がこの世界に転生していないとは言い切れないのだ。
今はまだ、不用意な言動は避けるべきだろう。
現時点で自分にできることは、親の真似事ではなく、大人としての責任を果たすことだと儀一は考えていた。
「じゃあ、上がろうか」
脱衣所で身体を拭き、ぶかぶかの服を着せて、腰の辺りを予備のバスタオルで巻く。
帯の代わりだ。
「おっちゃん、ジブリ、見てもいい?」
「いいよ」
「行こうぜ、蒼空」
「……うん」
少しだけ元気を取り戻した蓮と蒼空は、脱衣所から出たところで、ねねにつかまった。
「ふたりとも、髪が濡れてます」
「え~、すぐ乾くって」
「だめです。風邪をひいたらどうするんですか」
口調は穏やかなのだが、有無を言わせない迫力がある。さすが保育士だけあって、子供の扱いは心得ているようだ。
「山田さんもです」
「……はい」
ベッドと布団とソファーは男女が一日交代で利用する。
今日は儀一がソファーで、蓮と蒼空が布団の日だ。生前の儀一は腰痛持ちだったが、異世界転生後は二十歳くらいに若返っており、腰も全快していた。ソファーで寝たとしても苦はならない。
「じゃあ、お休み」
部屋の電気を消すと、儀一はひとりパソコンデスクへ向かい、神様への報告書類を作成する。
今日の出来事と、その時の自分の思考。
ドキュメンタリー番組として盛り上がるように、やや脚色していたのだが、キータッチの音にまぎれて、後ろの布団から震えるような息遣いが聞こえた。
泣き声をかみ殺しているような気配が伝わってくる。
蓮か蒼空か、あるいは両方か。
心の中で、儀一はため息をついた。
自分が六歳の子供だったとしたら、何を期待するのだろう。
気づかれたくないから、声を殺しているのではないか。
それとも、気づいて欲しいのだろうか。
どちらにしろ、このまま眠れないようだと、明日の探索に差し障る。あと一時間様子を見て、まだ泣いているようなら、その時には添い寝を試してみよう。
それから儀一は三十分ほど入力作業をしていたが、いつの間にか後ろの布団は静かになっていた。
オークの肉は、冷凍庫の強さを最大にして一気に凍らせた。
次のマンション召喚まで、何とか持たせたいところである。
もっと大量の肉を切り取ることもできたのだが、それだけの重量を持ち運びするための道具がない。外に生えている草で凍った肉を包み、さらに茎で巻く。それを木の枝に刺して、肩に担ぐことにした。
手紙を運ぶ飛脚のような格好だ。
「うんでぃーね!」
さくらの呼びかけにより、水の精霊が出現した。
楕円体の形状、三つの球状のくぼみ、そして二本の触手。
「あ、ムンクちゃん! よかったぁ」
喜ぶさくらに、早くも触手を絡ませてくる。
状態盤にもムンクの名前が表示されていることから、昨日と同一個体なのだろう。
今回はムンクを呼ぶ際に水を二リットル使ってみたのだが、魔法の継続時間は八時間のままだった。水の量と継続時間の関連性はないようだ。
「今日は、少し頑張って歩きますよ」
近くにオークの死体がある場所からは、早めに離れたほうがよいだろうという、儀一の判断である。ねねの足の具合をみながらの探索になったが、途中で雨が降ってきた。
こうなると、森の中はさらに歩きづらくなる。
雨宿りの場所を探しているうちに、不可解な現象が起きた。
いつの間にか、ムンクが巨大化していたのだ。
その体積は明らかに二リットルを超えていた。
「雨を吸収しているのかな?」
「ムンクちゃん、すごーい!」
照れているのか、ムンクは触手をうねうねと動かした。
儀一たちが大樹の陰で雨宿りしている間も、ムンクは上機嫌で空を飛び回り、さらに巨大化していった。
儀一の目算では、おそらく十リットル以上。
これ以上大きくなられると、オークたちに見つかる危険性が高くなる。
木陰に呼んで、待機させるべきかもしれない。
儀一がそんなことを考えていると、ムンクが自らやってきた。
――こぽり。
さくらの前でぴたりと止まって、触手をぐねぐねと動かす。
「え、なあに?」
さくらはふむふむと頷いていたが、やがてにこりと笑った。
「うん、お願い。みんなとさくらを守って!」
画面盤に映っている現場は、ねねと子供たちが三体のオークに襲われ、儀一が救出した場所だった。
オークキングの息子のギダンは、鼻のきく赤目狼に匂いを覚えさせ、儀一たちを追跡しようとしている。
地面に鼻をつけていた赤目狼がくんと頭を上げ、ぐるると鳴いた。
まだ人間の匂いが残っていたようだ。
その様子をモニタリングしていた神様は、にやにやと上機嫌である。
「あ~あ、山田さん。もっと遠くに逃げとけばねぇ。いくら安全志向っていったってさ、一日三、四時間しか行動しないんじゃあ、そりゃぁ無理があるよ」
デスクチェアをくるりと一回転させてから、ペットボトルのお茶を口に含んだところで、
「――ぶっ!」
画面に向かって噴き出した。
画面盤の中、もの凄いスピードで空から降ってきたのは、巨大な楕円体。
水の精霊、波乙女である。
二本の触手の先端を尖らせて、問答無用でオークに攻撃。一番最初の犠牲者は、オークキングの息子、ギダンだった。
その後は、阿鼻叫喚の地獄絵図である。
逃げ惑うオークたちを、水の精霊は的確に追いかけて、一体ずつ確実に仕留めていく。
生き残ったのは赤目狼のみ。この狼は追跡を命じられただけであり、明確な攻撃の意思を持っていなかったようだ。
「……」
神様はペットボトルの蓋を閉めて、膝の上に置いた。
「オークキングの息子であるギダンの指揮のもと、総勢二十体のオークと巨大な一頭の赤目狼は、人間たちの後を追おうとしていた」
少し低めの、渋い声で語り出す。
「そして彼らは……」
ぐぐっと溜めを作ってから、
「全滅した」
恐怖でパニックになった赤目狼は見当違いの方向に逃げ出した。水の精霊も活動限界時間が過ぎたようで、消えてなくなった。残っているのは、ずたぼろになったオークたちの死体だけ。
「――って、おい!」
神様は画面盤に向かって唾を飛ばした。
「どう考えたってさ、ここはオークたちが山田さんを追い詰める場面でしょ! せっかくライオンとインパラの話になったのに、なんでライオンの方が狩られてるのさ。これじゃぁドキュメンタリーにならないよ! ハプニング大賞だよ!」
それに、あの水の精霊。明らかにおかしい。
精霊魔法を行使するには、「呼び出す」「契約する」「命令する」という三つの工程が必要である。間違っても「呼び出す」「友達になる」「お願いする」ではない。
術者が精霊を支配し、明確な指示を出すことで、神にも匹敵する自然の力のほんの一部を、ごく短時間だけ使うことができるのである。
精霊たちが認識している世界は、人間とはまったくの別物だ。
だからこそ術者は、命令の仕方に気を配らなくてはならない。
今回の場合だと、
「近くにいる魔物を、適当に倒しておいて」
では、まず動いてくれない。
すべての敵を視界に入れた上で、
「今、私の目の前にいるオークたちと狼を、殺しなさい」
くらいの命令は必要だ。
だというのに、ムンクという名前をつけられた水の精霊は、明確な意思を持って術者に自身の行動を提案し、それから実施したのである。
実は、昨夜も一体のオークを倒しているのだが、その時は単なる精霊の気まぐれだと思っていた。だから神様は、珍しいこともあるものだと感心しながら、気軽に評価経験値をつけていたのである。
「あ、評価経験値……」
重大なことに気づき、神様は頬を引きつらせた。
評価経験値のつけ方については、二種類の方法がある。
ひとつは印象値だ。これは神様が独自の視点で決めるもので、大きな試練を乗り越えた者に、より多くの評価経験値を与えている。
もうひとつは、魔物討伐に関する実績値だ。これは倒した魔物の強さだけでなく、使用した武器や特殊能力、そして異世界転生者の存在レベルや肉体年齢によっても変動する。
その基準を、神様は自分専用のノートに記していた。
存在レベル一、六歳の子供である“最弱の”異世界転生者が、“最難関”である精霊魔法を行使して、“単独で”オークを倒した場合……。
一体で、百二十ポイントの評価経験値を得ることができる。
今回は二十体だから、二千四百ポイントだ。
パーティ人数で頭割りすると、ひとりあたり四百ポイントとなり、全員の存在レベルが一気に四レベルも上がってしまう。
「や、やばっ……」
生まれたてのインパラが、震える脚でライオンを蹴り殺してしまった。
こんな状況は想定していない。
実績値の基準表を修正――いや、調整しようか。
だめだ。昨夜同じ条件で計算した評価経験値を、すでに与えてしまっている。
ここで調整してしまったら、前回の行為が間違っていたことになる。
「ぼ、僕が間違いを犯すはず、ないもんね」
そんなことがあってはならない。
神の名にかけて。




