終わりをもたらすもの
ありとあらゆる感覚が失われて行く。
燃え上がる体の感覚が、段々となくなっていく。
まるで、他人事のようにリチュエは自分のことを見えた。
(死にたくない。消えたくない。私は、こんなところで……)
ふっ、と自分の感覚が戻ってくるのを、彼女は感じた。
清浄な空気が肺を満たし、光が降り注いでくるのが分かった。
天国。そんな言葉が彼女の脳裏によぎった。
目を開くと、そこは既に自分のいたた世界ではなかった。
死んで、天に召されて、自分は救われたのだと彼女は感じた。
◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆
時間は少し前後する。
背中から地面に叩きつけられたリチュエは、しかし潰されることなく着地した。
風の障壁のちょっとした応用で、落下の衝撃を殺したのだ。
だが、一息つく暇すらなく上空からシドウが空を蹴って突撃してくる。突き出された腕が死神の鎌のように見えた。転がるようにしてリチュエは身をかわす。
一瞬の後、シドウの拳が地面に突き刺さった。
床石の破片が榴散弾のように辺りに撒き散らされた。
もはや、立ち上がっている暇すらもなかった。リチュエは尻もちを搗きながらデメテールの杖をシドウに向かって突き出した。圧縮された風の砲弾が、何発もシドウに向かって飛んで行く。一軍を壊滅させるだけの威力を持った攻撃が、一人の人間に殺到する。
砲弾に肩を打たれ、シドウの体が後方に流れた。だが止まらない。
みぞおちを打たれ、彼の体がくの字に折れた。だがすぐに元通りになった。
砲弾が頭部を打った。何ともない。
リチュエはその光景を、恐怖に顔を歪ませながら見ていた。
(何で、何で、何で!?
どうして、どうしてこいつはこれだけやっても死なないの!? 諦めないの!?
有り得ない、分からない、どういう、どういう生き物なの、これは!)
シドウの影が、リチュエの体と重なった。
ひっ、と小さな悲鳴をリチュエはあげ、次の一撃を放たんとしてデメテールの杖を振るった。その先端が、シドウに掴み取られた。
何とかしてそれを取り戻そうとするが、ビクともしなかった。万力のような力で先端を掴んだシドウは、それを引いた。元々体育会系でないリチュエの腕力はそれほど強くないし、もしそうでなかったとしても意味のないことだ。
まったく抵抗さえ出来ずにデメテールの杖を奪われた。シドウは奪った杖を少しだけ見て、そして興味を失ったかのように後方に放り投げて捨てた。
丸裸にされた気分だった。自分を鎧っていた力は、もはや何も存在しない。デメテールの杖というブースターを失ったリチュエは、絶望すらも感じることが出来なかった。
シドウの両肩のショルダーアーマー、具足とガントレットが展開され、地獄めいた熱蒸気が彼の体から噴き出した。口部のサメのような口が、少し歪んだような気がした。マヒしていた恐怖感が、死を拒む意志が、彼女を再び包み込んだ。
「ま……待って、やめて! 私が悪かった、ごめんなさい! 謝る、何だってする!
だ、だから、だから、命だけは助けてちょうだい! お、お願いよ!」
媚びるような表情を作り、リチュエはシドウの体に縋りついた。シドウはその表情を見ても、一言とて言葉を発しない。小指でも動けば自分は死ぬ。リチュエは何でもした。
「お願い……! 出来心だったの! デメテールの杖なんて、あんな聖遺物なんてものをガイウスが私に渡すから悪いのよ! じ、自分の領分を越えた力を手に入れて、ちょ、調子に乗ってしまったの! 分かるでしょう? あなただってそうでしょう!?」
そうだ、すべてはガイウスが悪い。状況が悪い。こんな決断をさせた、世界が悪い。
世界がまた自分を虐げようとしている。リチュエにはそう思えてならなかった。
「わ、私がこの世界に来て初めて会ったのはガイウスだったわ!
わ、私に、あ、あいつは言ったの。従わないと、殺すって。
しょうがなかったのよ、どうしようもなかったわ!
こっちはこの世界のことを何も知らないし、あいつの力なんかに敵いっこなかった!
命を人質にされて、無理矢理従わされていたの!
こんなことしたくてしたんじゃないわ、信じてちょうだい!
そうならなきゃ、そう思わなきゃやっていられなかったの!」
生き残れるなら何だってしてやる。泥を啜ったって、生きてやる。最後まで生きて、そして逆襲のチャンスを狙ってやる。リチュエの暗い欲望が生きる希望を与えた。
「――いいだろう。許してやっても、いい」
「ほ、本当? な、何だって言うわよ! 私に出来ることなら、何でも――」
そこまで言って、リチュエは浮遊感を味わった。どういうことだ、そんなことを考えていると、自分の体が宙に浮いているのが分かった。眼下にシドウの姿が見えた。
「十秒間、耐えて見せろ。そうすりゃお前の言葉が本気だと認めてやる」
柊のような形のショルダーアーマーが、具足とガントレットの蛇腹部分が展開される。兜の口が耳元まで開いた。そして、全身から紫色の炎が立ち上る。禍々しいオーラを放つ悪魔の姿をリチュエは見た。
そしてそれが彼を見た最後だった。
地を蹴り、シドウは空に立つ。拳を固め、リチュエの柔らかい頬を殴りつける。
その脇を通り過ぎ、拳圧で流れていく彼女の体の位置を元に戻す打撃を放った。
何度も、何度も。
高度が足りなくなったら下からかち上げた。
上がり過ぎたなら上から叩き潰した。
全身全霊を込めてリチュエの全身をシドウは叩き続けた。
(あっ、がぁっ……?! いっ、ぎっ……! だ、大丈夫、耐えられる!
私は、私はこの程度で、死ねない! 死にたくない!
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だァッ!)
リチュエは体をカメのように丸めて、シドウの拳撃に耐え続けた。一撃一撃が骨を折り砕く破壊力、前後左右上下の感覚さえ喪失しながら、彼女は生きることを望んだ。
(いやだよ、負けたまま死ぬなんて絶対に嫌だ……私は、復讐しないといけないんだ。私を傷つけた世界に、私を認めなかった世界に、私は、私は……)
リチュエの脳裏に、過去の光景がフラッシュバックする。
それは、走馬灯めいて脳裏を駆け巡って行く。
苛めのきっかけは些細なことだったかもしれない。
たった一言、吐く言葉が違ったら彼女はここにいなかったかもしれない。
反戦機運が高まる中、彼女が通っていたミドルスクールでも集会を開こう、ということになった。きっかけがどういうことだったかは覚えていない。世界の空気は知っていた。そう答えなかった人がどうなるかも知っていた。それでも、止められなかった。
(こんなこと、しちゃいけないよ。軍人さんは間違ってないもん)
それは、父の言葉のトレースだった。
なぜあんなことを言っていたのか分からない。
いや、分かる。嫌だったのだ。寂しい顔をしている父を見るのが。
――どこで間違えてしまったのか。最初はただ、純粋な願いだったはずなのに――
シドウの手がリチュエの頭を左右から掴む。もはや一欠片の力も入らない。
コンマ一秒の逡巡。リチュエは抵抗することを止めて、自分の運命を受け入れた。
「ダメだ、殺すな! シドウくん!」
「――死ねッ!」
炎に照らされた闇の中に二人のシルエットが映し出された。
すぐそれは三つになった。
リチュエの体は炎に包まれ、地上に落ちることなく燃え尽きた。
紫藤善一は重い音を立てて地面に降り立った。
クロードはその姿を、油断なく見る。彼の体を覆っていた装甲が大気に溶け、再び少年の姿が露わになった。衣服は血で汚れ、擦り切れているが、しかし彼の体には傷の一つさえもなかった。シドウはクロードの方を振り返った。その目元は泣き晴らし、真っ赤になっていた。
「もう、嫌なんだ。誰かの命が、奪われるなんて、嫌なんだ……!」
ゆっくりと、シドウはクロードに向かって歩み寄って来た。そして、崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。クロードはその体を掴む。彼の体は小刻みに震えていた。
「理不尽に奪われて、失われるのが命なら、誰一人として生きちゃいられない……
そうじゃないから、人間の命ってのは尊い、大切なものなんだ……!
それを奪う権利なんて、誰一人として持っちゃいない。
俺は、俺は、そんな奴が、許せない……!」
シドウの全身から力が失われた。クロードは脈を確認した。生きている。
「……キミに降りかかった困難はとてつもなく大きく、そして、残酷なものだった」
クロードの頬を、雨粒が濡らした。誰が生み出したものでもない、自然が生み出した奇跡だ。傷ついたこの街を、人々を濡らす雨は、果たして天恵か。それとも悪意か。
「いまは眠りなさい、シドウくん。お疲れ様でした、本当にね……」
いずれにしても、少しくらいの休息があってくれてもいいだろう。
神も仏もいないが、それくらいの優しさはこの世界に残っているはずだ。
クロードは天を仰いだ。
街を覆っていた暗雲が晴れたことは、《エクスグラスパー》リチュエ=リポートが死んだことを何よりも雄弁に『真天十字会』に知らせた。
最大戦力を失った『真天十字会』の兵力は、圧倒的優位に立っているにもかかわらずグラフェンから撤退した。彼女の死と前後して、投入された《エクスグラスパー》が撤退していたことも要因の一つだ。
それにより、グラフェンに駐留していた連合騎士団、そして一足先に街から脱出していた避難民たちは安全域に逃れるのに十分なほどの時間を稼ぐことが出来た。当初連合が想定していたよりも、ずっと少ない犠牲でこの襲撃を乗り切ることが出来たのだ。
それでも……失われたものの大きさは、計り知れないものだったが。




