少年の追憶:後編
頭の中でいくつもの『なぜ』がグルグルと回転しているようだった。
気持ちが悪い、けれども吐き出せない。まだ冷たさを残す空気も、パイプ椅子の感触も、坊さんが読み上げるお経も、どこか空々しいものと俺には感じられた。
現実感がまったくなかった。
それは、棺に納まった相田の顔を見た時も同じだった。
あいつはこんな顔をしていただろうか?
綺麗に整えられた死に化粧姿は、あいつの死を否定するかのようだった。
部活の先輩、顧問の教師、担任、校長先生が彼に『別れの言葉』を投げかける。
止めろ。お前たちはいったい何を知っている? 相田青志という男について、いったい何を知っている? 夢は甲子園とガキの頃から言っていた。小中高とシニアリーグと部活で努力を続けて、最近その努力が実を結んで、喜んでいたあいつの何を知っている?
射殺さんとして放たれた視線は、しかしあいつの母親によってかき消された。それほど若々しい人ではなかったが、あいつの死を受けてより一層しわがれたように見えた。枯れ木のように細く、乾いた手が相田に向けられた手紙を持つ。
その手は震え、そしてやがてそれさえ持っていられなくなって、相田の母親は崩れ折れるようにして泣いた。
人は死んで、灰になる。その事実を受け入られる人は、どれだけいるだろうか? 少なくとも、目の前にいるあの女性は受け入られないように思えた。式場の外に運び出されようとしている棺に縋りついて、少しでも長く一緒にいられるようもがいている。
司会進行役から、棺を持って外に一緒に出るよう促される。だが、俺はその列に加わらなかった。あいつの死を認められていないのは、俺も一緒だった。
相田青志が死んだ時、俺の心を満たしたのは『どうして死んだのか?』という疑問ではなく、『なぜ死んだのか』という疑問だった。
同じようでいて、これは違う。あいつが何らかの自殺の兆候を見せていたならば、俺は『どうして死んだのか?』と思っただろう。だが、それらしい形跡は一つとしてなかった。だから『なぜ死んだのか』と思った。
少なくとも、相田の成績は平均よりも上なものだった。
夢はでっかく甲子園、そう言っていたあいつの最終的な目標はプロ入りだった。
それが破れたらあとはどうするのか、と聞いたら大学でもどこでも野球は出来る、と言っていた。ということはあいつはちゃんとリカバリーを考えていた、いわゆる強豪と言われる大学に入れるだけの成績を確保していた。学業面での不振を苦にして自殺、というのは苦しいように思えた。
私生活でも彼女に振られた打とか、疑惑を掛けられた打とか、そういうことはなかったようだ。元々野球一筋で浮いた噂の一つもない男だったので、それは納得出来る。時間だけはあり余っていた俺は彼の知古に様々なことを聞いて回った。たまに鬱陶しがられることもあったが、それでも根気よく情報を集めていった。そして分かったことは一つ。
相田青志が自殺する理由なんてものは、少なくとも対外的には一つもなかった。
相田の遺品整理かこつけて部屋に入った時も、彼が自殺をほのめかすような記述は一切見つけることが出来なかった。パソコンを調べてみたがもっぱら下らない動画やエロサイトを見るのに使っていたようで、日記のようなものは書かれていなかった。死に至るその前、相田青志はどんなことを考えていたのか? あるいは……殺されたのか?
殺人。
ひたすら大それた言葉だ。何の秘密も持たない、普通の高校生にとって、これほど縁のない言葉もないだろう。だが、自殺の理由がない以上それは殺人ということになる。あるいは、俺がまだ知らない情報が眠っているのかもしれないが。
そんなことを考えながら、俺は一人教室で佇んでいた。
死の少し前、俺は相田青志とここで会った。偶然、出会ったあの時もしかしたら相田は兆候を出していたのではないか?
今度も、その今度も、俺にはない。相田は教室から出る前、ポツリとそんなことを言っていた。あれはいったいどういう意味だったのだろうか?
「偶然だね、紫藤くん。こんなところでキミに会えるとは思ってもみなかったよ」
ビクリ、と俺の体が震えた。
ビビる必要はないのに、何かいけないことをしているのを見られたような気分になってしまった。視線を向けると、そこには三石の姿があった。
「別に、何をしているわけじゃねえよ。ただ、外を見てるだけだ」
「ふうん、それが面白いことなのかな? ちょっと、ご一緒してもいいかな?」
断る理由もなかったので、俺は三石に好きにしろと言った。奴は好きにした。俺の隣にドカッと腰かけ、俺と同じように夕日に赤く染まる空を見た。
「何か悩み事でもあるのかな、紫藤くん。僕でよければ、力になるけれど?」
「……なあ、三石。お前は本当に、相田の奴が自殺したと思うか?」
何でもいい、と言われたからではない。何となく話してみたくなったのだ。
俺の仮説を。俺の予想通り、三石はポカンとした表情を浮かべて二の句を待った。
「警察の人は、この件を自殺と判断したそうだね。捜査も打ち切られているようだし、新聞に載った彼の死因はグラウンドのネットからの転落死。自殺だと思うけどなぁ?」
野球部のスペースにはバックネットが設置されている。フェンスが張ってあるので、かなり苦労するが登ろうと思えば誰にでも登れる作りになっている。相田はあそこによじ登り、頂上から身を投げた、ということになっている。尋常な有り様ではない。
「納得がいかないんだ、俺には。あいつが自殺なんてしないことはよく分かっている」
「不思議なことを言うね、紫藤くん。まるで彼の心が分かっているような物言いだ」
本人がいたのならば、心の中に踏み込んでくるなと罵倒されただろうか?
だが、十年来一緒にいた親友のことだ。
俺はあいつのことをあいつ以上に分かっている。
「あいつが自殺なんてするはずがない。もししたんなら、何か理由があったはずだ」
その理由が何なのかは分からなかった。だが、その真実は意外なところから出て来た。
「うんうん、そうだね。実はね、紫藤くん。相田君が自殺したのは僕のせいなんだ」
瞬間、俺は何を言われているのか分からなかった。
何を言っているのか理解してからは、怒りが先にあった。
こいつはいったい何を言っているのだ?
「ふざけるなよ、三石。冗談にしても笑えねえぞ、それ……!」
「うーん、冗談を言っているつもりはないんだけどなぁ、どうすれば信じてもらえる?」
「ふざけてんじゃねえよ。お前があいつをどうやって殺したって……?」
短い付き合いだが、こんなことを冗談でも言う奴だとは思っていなかった。
だがその次に放たれた言葉によって、俺のこいつに対する認識は反転することになる。
「聞いたんだ、相田くんに。プロ野球選手になりたいって。
だから僕は聞いてみたんだ。
どうやってそうなるつもりなのかって。
球威は安定しなくて、フォームは崩れがちだし、配球にはムラがある。
この先どうするかも聞いたんだ。そうしたらね……」
三石が語っていた内容を、半分ほども理解できたかは分からない。多分、内容のあまりのおぞましさに頭が理解することを拒否したのだろう。けれども、そこにはすべてが込められていた。相田青志という男の心が、折り砕かれる過程のすべてが。
「そんな……そんな理由で、あいつが死んだって、お前はそう言いたいのか?」
「ちょっと見せてあげたんだ。彼が理想とする姿を、僕なりに考えてみてね」
語るだけでなく、実践して見せたというのか? あいつが理想とし、それでもできなかったことの数々を。目の前で、もし本当に見せられたなら、あいつはどう思っただろう? ずぶの素人にこれまでの人生を、丸ごと否定されてしまったなら?
「……どうしてだ。どうして、どうして相田を殺すような真似を……」
「殺すつもりはないんだ。ただ、知りたかったんだ。
彼が何を考えて、何をしているのか。興味があったんだ。
相田青志という人間のことが。ただそれだけ」
ただそれだけ。
それだけの理由で、この男は相田の心を折り、自殺に追い込んだというのか?
どういう人間なんだ、こいつは。いや、果たしてこいつは、人間なのか?
「聞いてくれてありがとう、紫藤くん。呼ばれているところがあるんだ、行くね」
「待て……待てよ! 言いっぱなしかよ! お前、何が目的なんだよ!」
出て行こうとする三石を、俺は慌てて呼び止めた。何か用か、とでも言うように三石は振り返った。その表情はあくまでフラットだ、人ひとりが自分のために死んでいるというのに、何の感慨も抱いていないようだった。
偶然だろうが、罪悪感くらい湧くだろう?
こいつは、人間じゃない。人間じゃないからこそ、人を殺しても罪悪感さえない。
目の前の人型が、俺には異形の怪物であるかのように見えた。
「何がしたいのか、って言われても。僕は色々な人のことが知りたいんです。
誰がどんなことを考えていて、何を思っているのか。それを僕は、知りたいのです」
そして、へし折るのか? 人一人殺しておいて飽き足らず、まだ、死なせるのか?
反射的に俺の体は動いていた。椅子を乱暴に引き倒して立ち上がり、引きっぱなしになった椅子を蹴って跳躍、机を蹴り更に跳躍、扉の近くにいた三石に殴りかかった。振り返ってきた奴の頬を、俺の拳が打った。想像していた以上に柔らかい頬だった。
覚えているのはそこまでだ。次に目を覚ました時、俺は自分の席に座らされていた。もうすでに陽が落ちかけており、当然ながら三石の姿はなかった。撃ったのと同じ側の頬が腫れ上がっており、カウンターを受けて気を失っていたのだと気付く。
どうすりゃいい? 何が出来る? あいつにこれ以上好き勝手させないために、何をすればいい? あいつはこのまま人を殺し続けるだろう、罪悪感の一欠片さえも抱かずに。人の心をへし折り、人を言葉だけで追い詰めていく。証拠も何もない、警察が動いてくれるとは思えない。カウンセラーの先生だって、こんな事案にはお手上げだろう。
「こうなったら……俺がやるしかねえ。俺が、あいつの企みをぶっ潰してやる……!」
歯が砕けるほど強く噛み締めた。
あいつに殺された相田の無念が突き刺さってくるようだった。このまま犠牲者を増やす? それこそ有り得ない。何が出来るかどうかは分からないが、あいつの悪意に満ちた言葉をこれ以上垂れ流させちゃいけない。
その日から、俺は動き出した。無力感を噛み締めるだけの結果になったが。
数カ月の間に、優嶺高校とそれに関連する自殺者数はうなぎのぼりに増えていった。中には奴が関係しているのかさえ分からないものさえいくつもあった。三石の悪意の伝染速度は、はっきり言って俺の想像を遥かに超えていた。
いくつもの命が奪われ、失われた。
テレビのコメンテーターが、ココロノヤミとやらを暴き立て、晒し上げる。
カガクテキでイガクテキなコメントとやらをいくつも残してくれるが、俺に言わせれば的外れで無責任な言動だ。どれだけの人間に理解出来るだろう? これを一人の人間が起こしているということに。たった一人のココロノヤミが、世界を覆い尽くそうとしているようだった。
俺に関係があった人も、なかった人も、多くの命が失われた。
三つ離れた席に座っていた科学部の新入生は、メンバーが見守る中強毒性の液体を流し込み頓死した。叔父夫婦はスキャンダラスな事実を吹き込まれて、内側から自滅した。目に焼き付くほどはっきりしたオレンジ色の炎と、家族の絆が焦げていく匂いが俺の鼻孔にいつまでも残った。
川をどこまでも流れていき、発見された時には魚に啄まれて原形さえ残さなかった奴さえもいる。誰が理解しているだろう。たった一人の悪意がこんな事態を引き起こしたことに。
そのうち、俺は知ることになった。幼馴染の美咲が最近、不調に陥っているということを。大会のメンバーには選ばれなかったということを。最近はふさぎ込んでいるということを。そんなそぶり、俺にだって見せなかったのに。そして、三石と話していることに。
俺があいつと最後に会ったのは、優嶺高校の屋上でのことだった。
屋上は解放されていないが、然るべきコネや技術があれば屋上に上がるのはそれほど難しいことではない。そして、美咲は不幸にもそこに立ち入るだけの技術を持っていた。あいつが屋上への通路を登って行ったと聞いた時、心臓が跳ね上がり、そのまま止まるかと思った。
美咲の影を追って、俺は屋上へと入った。なるべく音が出て、目立つように。幸いにもまだことに及んでなかった美咲が、ビックリして振り返って来た。彼女は屋上を覆う背の低い鉄柵の向こう側におり、一歩でも踏み出せば落ちてしまいそうだった。
「あ、あはは。善一、どうしたのそんなに急いで? そんなんじゃ転んじゃうよ?」
一歩手前で踏み止まったのか、あるいは機会を伺っているのか。美咲はバツの悪そうな表情を浮かべて言った。彼女を刺激しないように、俺は言葉を選ぶ。
「……よう、そんなところにいたら危ないんじゃないのか? こっち、来いよ」
「やだなあ、善一。あたし、いつもこっちにいるんだよ? もう慣れっこだよ。心配してくれなくたっていいって、あんたとあたしとじゃ、モノが違うんだからさ!」
美咲は努めて勝気な言葉を発しているようだったが、その膝は小刻みに震えていた。その様子は俺にも痛いほど見て取れた。なるべく表情を作らないようにしていたつもりだったが、彼女は俺のそんな些細な変化を見逃さなかったのだろう。
「……分かってる、んでしょ善一? あたしの、腕の調子が悪いってこと……」
美咲は捻った利き腕を逆の手でさすった。練習中の些細な怪我、だったはずなのだ。
「お医者さんに見せたらさ、神経やっちゃってるんだって。普通に動かすくらいなら問題ないんだけど、格闘技とか、激しい動きをするともっと痛める可能性があって……最悪の場合、神経が断裂して二度と動かなくなる、んだって……」
まさか、そんなことになっていたとは。なぜ俺に言ってくれなかったのだ?
確かに、俺は頼りないかもしれないけど。
そこまで、俺は頼りない存在だったのか?
信じてもらえなかったのか?
十年、一緒にいた。友達だと、思っていたのに。
「いろいろやってこうと思ったんだけど、もう限界って言うかさ……」
「バカ野郎、そんなことねえだろ。もっと、もっと他にやれることだってあるだろ!」
「善一。あたしね、この手でいろいろなことがしたかったんだ。あたしの手で、どこまで行けるか確かめたかったんだ。でも、無理だよ。こんな痛めた腕じゃ……
世界どころか、スプーンだって掴むことなんて、出来ないもんね?」
悲壮な笑みを浮かべて、美咲は前に一歩を踏み出した。踏み出してはならない一歩を。
そこから先は、ほとんど本能的な反応だった。
会話の間にジリジリと距離を詰めていたのが功を奏した。美咲の体を掴んで、乱暴に引き戻す。思っていたよりも軽い体、そう言えばダイエットに気を使っているって言っていたっけ? 彼女の小さな体を引き寄せるには、俺程度の腕力があれば十分なようだった。
もちろん、落ちかけている彼女の体を引き戻そうとしたのだ。反作用があった。俺の体は大きく前方につんのめり、低い柵を余裕で潜り、そして逆に落ちていってしまった。
「善一――!?」
美咲の狼狽する声が聞こえる。主観時間が鈍化し、ありとあらゆるものを俺はゆっくりと捉える。美咲、もし俺の末路を見ることがあったなら、飛び降り自殺などぜひ止めて欲しい。俺の無残な姿を見せることが出来るのならば、彼女に躊躇いを抱かせられるなら、ここで命を落とす理由になる。
落ちる俺の視線に、三石の顔が映し出される。逆さまに映った三石の顔は、いつも通り張り付いたような、悪辣な笑みを浮かべているように見えた。
俺は頬の筋肉をぎこちなく動かし、無理矢理に笑みを作って見せた。
バカ野郎、見たかコンチクショウ。手前の策略とやらは俺が暴き出して、阻止してやった。手前の悪意とやらも所詮はその程度だってことだ。俺は負けない。例え俺が死んだとしても、心だけは決して負けてはやらない。窓の中にあった三石の顔が、不可思議に歪んだ気がした。
風を切る感覚が心地よい。
高度十メートル、一秒強のスカイダイビング。
視界一杯に薄汚れたアスファルトの大地が広がる。
ツーアウト、ツーナッシング。
逆転不可能。これにて人生はゲームセット。
……一秒前に戻れたらな、と思うが栓無きこと。
人の命を助けられたなら、価値ある最期じゃないだろうか。
――誤魔化すんじゃねえよ、アホが――
主観時間が、感覚が、元に戻る。
頭頂から固いアスファルトの上に落下、頭蓋骨が砕ける感触と、ドロッとした液体が地面に零れ落ちていく音が聞こえた気がした。
頭部から入って来た衝撃は俺の頸椎をへし折り、全身の骨に万遍なく伝わった。
手足の感覚がなくなっているのが幸いだった。
意識を永遠の闇に落としながら、紫藤善一は死んだ。
◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆
どうしてこんなことになったのか、考えてみても満足のいく答えは出てこなかった。一回死んで、この世界に来て、苦しんで戦って、また死んで。死ぬために生きて来た。
この後、世界はどうなって行くのだろうか? リチュエの悪意と力はこの街を覆い尽くし、多くの人を殺すだろう。ガイウスの野望は《エル=ファドレ》を泥沼の戦争に追い込むだろう。三石は人を知るだろう、その死をもってして。
ふざけるんじゃねえ。
俺は願った。願いを込め、血まみれになった手を必死に伸ばし、俺の腹を完全に押し潰した瓦礫に手をかけた。それを掴み、持ち上げようとする。ビクともしない、だがそこで動きを止めていい理由には、まったくならない。
俺のこれまでの戦いは無意味だった。それを認めるのは、まあいい。
この世界に来てからも、向こう側の世界でも、俺は悪意に敗れて地を這った。助けようと足掻いて、もがいて、それでも嘲笑うように人は死んでいった。こちらでも、助けたいと願ったものをほとんど守ることは出来なかった。そして、守ってきたものは失われようとしている。
リチュエの言葉が俺の脳裏に蘇る。
二度と負けないための戦い、あいつはそう言っていた。
ふざけるな。
お前が負けないために、どれほどの犠牲が払われようとしているのか。何も変えることが出来ないのならば、せめて俺は虐げられる人々の側に立っていたい。理不尽にすべてを奪われる人たちを、俺はこれまで嫌というほど見て来た。二度と、そんなものを見たいなんて思わない。見るくらいならば、俺が奪われる側に回りたい。
「シドウくん、シドウくん! ああ、大変だ! これは、どういうことなんだ!」
俺の耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。尾上さんの声だ。
どうやら、城塞への攻撃からは生き残っていたようだ。よかった、と思う。
「これは……! ひ、ひどすぎますわ! 尾上さん、シドウさんを早く!」
「それは分かっている! だが、これを動かしていいものか……マズいぞ、これは」
尾上さんの狼狽する声が聞こえてくる。俺の有り様を見て、そんなことを思ったのだろうか。死ぬほど痛いが、何とか生きている。引っこ抜いてくれりゃあいいのに。俺は瓦礫をひっかくようにして指を動かした。尾上さんの体が、ビクリと震えた。
「いや、そんな……バカな。生きているはずなんて、ないだろう? だって、心臓を抉られて生きていられるはずなんてない」
そこまで言われて、俺はようやく自分の体に目を落とした。
なるほど、近すぎて見えていなかったわけだ。
胸に大きな瓦礫が刺さっている。
心臓が抉られ、俺の体から血が失われている。
急速に死の気配が近づいて来る。
(分かるまで死なない気でいたなんて……俺ってどこまで鈍感なんだよ?)
ここまで来ると呆れてしまう。クロードさんが俺に自分の力を過信しないように言っていた意味が、ようやく分かった気がした。こんなものを信じて突っ込んだなら、俺は死んだことにも気付かないまま戦っていただろう。いや、これがその時なのだろうか?
死ぬ。俺の命が失われる。
理不尽な暴力によって。
身勝手な悪意によって。
俺が否定して来たものによって、俺の命が奪われる。
それは、到底納得できないことだった。
瓦礫を強く掴んだ、周囲にいたエリンとリンド、そして尾上さんの顔が驚愕の表情を浮かべた。俺の体にのしかかった瓦礫が、徐々に形を変えていく。掌の圧力を受けて、より握りやすく、より退けるのに適した形に。自らの体にのしかかる瓦礫を俺は押し退けた。
「シドウ、くん? キミは、いま……いったい、どうなっているんだ……!」
そんなものは分からない。だが、立ち上がらなくてはならない。
立ち上がることが出来る。だから何も問題はない。左腕を突き、上体を起こす。俺の全身から紫色の炎が立ち上る。タンパク質の焦げる嫌な臭いが、辺りに立ち込めて来たような気がした。
腰を捻り、寝そべるような体勢になる。肘をつき、徐々に俺は立ち上がった。
「行かなきゃならない。俺は。俺は二度と、この世界を蝕む悪意には屈さない……!」
もはや、誰も俺に声をかけてくることはなかった。
俺は一歩、前に足を踏み出した。リンドがその小さな手を俺の方に伸ばしかけ、そして引っ込めた。更に一歩、足を踏み出すたびに、俺の萎えた体にエネルギーが充填されて行くような感覚がした。やがて、俺は走り出した。軋んだ体が悲鳴を上げるが、それを無視する。
最後の瞬間まで、三石は笑っていた。笑って他人を殺すことが出来る、強烈な悪意。きっと俺はあいつには勝てないだろう。何をしても、向こう側で奴に勝つことは出来なかった。この世界で手に入れた力でさえ、あいつに対抗することは出来なかった。
それでも、理不尽に踏み潰されるものがあることが許せない。
あいつが笑いながら生きていることが許せない。
幸福な余生を送ることが許せない。
満足して往生することなんて我慢できない。
与えられた理不尽に、相応しき罰を。
誰も与えぬのならば、俺が与える。
それが出来るのならば、このちっぽけな命を燃やしきったって構わない。




