帝国首都グランベルク
そろそろ人とベッドが恋しくなってきた頃、俺の目の前に海が広がった。
「はぁ……この世界にも、海ってあるんだ……どこに続いてんだろう……」
対岸線が見えないほど、それは広大だった。
どこに続いているのだろう。
「違うよ、シドウくん。これは海じゃない。湖だ。しかも、人工のね」
「へぁ!? 湖!? こ、これが!? で、でも対岸見えないじゃないっすか!」
「あまりにも大きすぎるだけだよ。初めて来た人は、大層驚くらしいけどね」
尾上さんはからからと笑いながら言った。俺たちの世界にも海と誤解するくらいデカい湖があると言うが、実物を見たことはなかった。こんな感じなのだろうか。
「ここを下って『帝国』に行くわけですね。陸地の端まで行かなきゃいいけど……」
「いや、渡し船だ。あれを見てみたまえ、屋形船みたいなものがあるだろう?」
そう言って、尾上さんは少し先にある小屋を指さした。確かに、その先は港のようになっており、何隻もの屋形船めいた大型船が上げられていた。あれを使い川を渡るのか。
「人工の湖、と言いましたね。『帝国』にはこれほどの護岸工事を行うだけの技術が?」
「いいえ、そうではありませんわ。これは神代に作られたと言われていますの」
尾上さんの説明に、リンドとエリンがフォローを入れる。
「湖の真ん中あたりに『神代の塔』と呼ばれる柱があるんです。それが湖の底まで続いていて、そこには舗装された広場があったそうなんです。かつてこの世界に現れた《エクスグラスパー》が湖を拡張し、これほど広大な場所を作ったと言われているんです」
「それって、元から街があった場所が湖の底に沈んだだけなんじゃないのか?」
ダムの底に沈んだ村、という有名な話を聞いたことがある気がする。
「『帝国』はその時の記録を持っていて、首都の地下には《エクスグラスパー》の築いた遺跡がある、と言われているんですけど……やっぱり眉唾なんですよね、これは」
エリンは苦笑しながら言ったが、しかし尾上さんはその話を肯定した。
「『帝国』首都地下に何かがあるのは、確かなようだね。それに、この辺りには護岸工事の跡が見られるから、ここを切り開いたって話もあながちウソじゃなさそうだよ」
本当にこれほど広大な湖を作り出すことが出来るのだろうか? 俺たちの世界でだって、大型の重機や大量の工員がいて成り立つ大事業だ。この世界の技術力、この世界の政治能力で、そのようなものが出来るのだろうか?
もっとも、神の如き力を持つ《エクスグラスパー》様がいるこの世界、俺たちの常識は通用しないのかもしれないが。
「ともかく、船で渡ってみましょう。首都はどんなところなんですか、尾上さん?」
「ま、それは見てのお楽しみだ。きっとキミも驚くよ、クロードくん」
尾上さんは悪戯っぽく笑い、クロードさんにウィンクを一つした。
その言葉の意味を、俺たちはすぐに理解した。屋形船めいた渡し船は非常にゆったりとした構造になっており、同乗者も少なかったおかげでスペースを気にせず利用することが出来た。蓄積した疲労を落としてしまおう。俺は備え付けられた椅子に座り込んだ。
「ここんところ、マジで死にかける回数が多すぎると思うんだよなぁ……」
それだけ交戦数が多いということでもある。
グラーディに二度ボコボコにされ、カウラント島でイダテンに打ちのめされ、村ではケイオスに吹き飛ばされ、三石に手も足も出ず敗北した。戦績で言えば黒星の方が遥かに多い。
どうにかしなければ。負ければ回復のために時間を要する。それだけ、自分が強くなる機会を失しているとも言える。
(つっても……あの野郎の常軌を逸した力に対抗するには、普通の手段じゃダメだ)
俺は背後にあった窓を開けた。当然ながら、潮風が吹き込んでくることはない。爽やかな湖の風が俺の体を撫でる。白いカモメめいた鳥が群れを成して飛んでいるのが見えた。視界の先にあるのは、白い雲と陸地だけだ。いつまで経ってもこれには慣れない。
三石明良の力は、向こう側の世界にあってさえ傑出していた。高い知能と身体能力を、奴は人を傷つけることにしか使わない。だからこそ、奴は向こうの世界において『地味な奴』であれた。そうでなければ、奴は奴ではなかったのだろう。
奴が、その力を直接振るうのは稀だ。奴は、人の心を蝕み、食い尽くすことを好む。シロアリめいて近付いて行き、アイデンティティという精神の支柱を食い荒らすのだ。傍目には自殺として処理されるし、実際にその通りだ。
だが選ばせているのは奴だ。
力ずくで、奴を倒そうと思ったこともあった。だが、無理だった。俺の拳は、たった一度しか奴に当たらなかった。力ずくには力ずくで返された。いまになって思えば、当然だろう。俺の変身態を余裕であしらえるだけの力を、奴は持っているのだから。
(……あいつを越えるためには、いったいどうしたらいい? 弱気が止まらねえ……!)
奴を倒したいと思う自分がいるのと同時に、奴に敵わないと思っている自分がいる。敗北の痛みが、俺に戦うことすら否定させているのだ。
「ほう、これはこれは……シドウくんも見て下さい。あれは面白い……」
クロードさんの言葉で、俺は我に返った。知らず知らずのうちに、思考の無限ループに陥っていたようだった。奴は殺す、それは確定事項だ。だが、それを考えるのは何もいまでなくていい。もっと材料が揃ってから吟味するべきことなのだろう。
俺はクロードさんに誘われ、窓の外を見た。
そこには、巨大な島が浮かんでいた。
中央の尖塔が、島だけではなく周辺一帯を睥睨しているようにさえ思えた。島全体を背の高い城塞が覆っており、そこには何人もの兵士がいるように見えた。それだけではなく巨大なバリスタめいた装置や見張り台、そして堅牢な門が見て取れた。
「あれが、『帝国』の首都、グランベルクなのか……」
「そう。あれがこの世界で、もっとも大きな力を持った者たち……『帝国』さ」
確かに、あれは見るからに力を持っていた。だが、なぜだろうか。俺には都市の放っている力があまりにも頼りない、虚像めいたものに思えてならなかった。
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『帝国』首都グランベルク。
一行は意外にもすんなりと街に入ることが出来た。天十字教の領域であるアルクルスから来る人間に対しては、教会側での身分調査を行っている。そのため、再調査の必要はない、という建前である。実際、尾上などは『共和国』の人間である。
実際のところ、『帝国』も『共和国』との落としどころを探しているのだ。
よく整備された街路が、門を潜った一行を出迎えた。
その先にいるのは、人、人、人。あまりにも密度の濃い人波に晒され、リンドたちが酔ったように顔を青くした。
「オイオイ、大丈夫かよエリン、リンド? 宿で休んでるか?」
「だ、大丈夫ですわ、シドウさん……な、慣れないといけませんから……」
目に見えてフラフラとしながらも、リンドは気丈にもそんなことを言ってみせた。
「ま、宿を取っておいた方がいいのは確かかもしれないね。何だか人が多いからさぁ」
尾上も、グランベルクの様子を見て驚いているようだった。普段はここまで人通りがないのである。もちろん、多くの人がいるのは間違いないのだが。
「なら、宿の準備は私がやっておくよ。やりたいことがあるからな」
「おやおや、トリシャさん。お一人で何をするおつもりでしょうか?」
「別に大したことじゃないさ。ただ、シドウ。お前の剣をちょっと貸してもらいたい」
そう言って、トリシャはシドウから彼の持つ剣、フォトンレイバーを受け取った。シドウはなぜそんなことをするのか、トリシャに確認したが、明確な答えは得られなかった。
「ん……すまん。私の中でも答えが出来上がっていないんだ。私の中で答えが出来上がるまで待ってほしいんだ。その、すまん。ちょっと時間が必要なんだよ」
そんなことを言って、トリシャは言葉を濁し、宿の中へ消えて行った。クロードたちはトリシャと別れ、情報収集を行うために街へと繰り出していった。
「やはり、賑わっていますね。さすがは世界最大の『帝国』。活気が違いますね」
「そりゃ、これまでの田舎村と比べられれば当たり前だろうけどさ……」
尾上は苦笑しながら、人波をかき分け進んでいく。こうも人でごった返していては、先に進むだけで一苦労だ。そう尾上は思った。そしてそれは他の面子も同じなようだ。
「賑わっているのは結構ですが、これほど人がいると面倒ですねぇ」
「前にこっちに来たときは、こうでもなかったんだけどね。どうしたんだろう?」
「お主、知らぬのか。今日は『帝国』の豊穣祭であろう? でなければこうはならん」
クロードと尾上はオウム返しに問い返した。言われてみれば、食品系の出店が多いことに気が付いたのだ。それに、露店の中には人形劇めいたものを行っているところもある。
「ああ、こっちでも豊穣祭は今日なのか。すっかり忘れていたよ」
「こちらの世界で言うところの、収穫祭のようなものなのでしょうか?」
「かつてこの世界に現れた《エクスグラスパー》が、大地の恵みをより多く受けられる作物を伝えたとされている日だ。いま我々が飢えずに暮らしていけているのは、《エクスグラスパー》の、そして『光』のもたらしてくれた恩恵というわけだ」
この世界の神話というものは《エクスグラスパー》が他の神話で言うところの神の権能を表しているのだろう、とクロードは理解した。
「ま、それなら僕らの口に合うのも納得ですね。元々僕たちの世界のものなのですから」
「食べられるものを伝えてくれたことを、ご先祖様に感謝しなければならないね」
ご先祖様か、あるいは遥か未来の子孫かは知らないが、ともかく感謝しなければ。食料が口に合うか、合わないかという問題は死活問題にさえなりかねないのだから。
「しかし、街に繰り出して来たはいいがどこで情報を仕入れるつもりなんだい?」
「あんまりそういうことを考えながらやると、不自然になるかもしれませんからね。自然体で街を見回ってみましょう。何らかの発見があるかもしれませんよ?」
「お主、情報収集にかこつけて街の散策をしたいだけではないのか?」
御神が呆れたように言うと、クロードは満面の笑みでそれに応えた。
「いつまでも真面目くさった顔でいたら、張り詰め過ぎて弾けてしまいますよ。人間は常に気を張って生きられるように出来てはいないんです、たまには解放も必要ですよ」
「結構俗っぽいこと言うなぁ、クロードくん。キミのことはどこか仙人めいて見ていたんだけど……そう言う人間らしいところがあってくれて、助かるよ」
尾上も肩の力を抜き、街の雰囲気に溶け込もうと努めた。
「あの三石という男を見ていて思ったのさ。キミのように強く、キミのように飄々としていて、だがどこか人間味がなかった。よく出来たAIを相手にしているようだったよ。まるで、環境に合わせて反応を返しているような、そんな感じを……」
「私も感じた。どこか異質な男であった……その強さは、認めざるを得んが」
「そういうことを言ってくれるから、キミは信用出来るよ。ねえ、シドウくん?」
そう言って、尾上は振り返った。しかし、そこにシドウの姿はなかった。
「……まさか、あの子人波に飲み込まれて行っちゃったのか!?」
「待て、尾上殿! リンドとエリン、それに彼方の姿もないぞ!」
知らぬ間に、年少組は人波に飲まれて、どこかに消えていた。
「うわぁ……これ、どうすればいいんでしょうねぇ……?」
クロードは珍しく、青い顔をして弱音を吐いた。




