空を駆ける船、落つ
高速で雲が流れて行く。
風を切り、俺は空を泳いでいる。
とてつもない不安感。
「本当に……本当に、こんなものが、空に浮かんでるのかよ……」
空を見上げる。そこにはヨットについているような帆があった。風を受け、膨らんでいるが、とてもこんなもので空を飛んでいるとは思えない。物理法則はどこに行った。
尾上さんの話では、船底に付けられた巨大な風の魔法石によって船体を動かしているのだという。魔法文明って凄い。俺はそう思った。
スタルト村の惨劇から、四日。つまり、俺の目が覚めた翌日だ。体中にはまだ包帯が巻かれており、波止場にいたモギリの兄さんをギョッとさせた。だが、いまはそんなことを気にしている場合ではない。エリンとリンドに残された時間は、そう多くない。
闇の魔術師、グラーディが生み出した人造生命体。
エリン=コギトとリンド=コギト。尾上さんは彼女たちのことをフラスコの小人、ホムンクルスと呼んだ。
いまの技術で言えばクローンや、試験管ベイビーということになるのだろう。彼女たちはグラーディの欲望のために生み出され、生贄としてその命を散らそうとしていた。それを助け出したはいいが、グラーディは彼女たちに呪いを仕掛けていた。余命の呪いを。
呪いを解く手がかりを得るため、俺たちはこの世界で広く信仰される天十字教総本山、アルクルス島へと向かっていた。《エル=ファドレ》有史以来の文献が蓄積されているアルクルス島ならば、何か手がかりがあるのではないだろうか。
もちろん、確証はない。だが、この広い世界、呪いがあって解呪方法がないということはないだろう。
少なくとも諦めたくはない。
俺は船べりから手を伸ばした。雲を掴むように。手に打ち付ける風の強さが、俺がこの世界に確かに存在しているのだということを証明してくれた。昨日、包帯を取った時は驚いた。人間、あれだけ傷だらけになっても生きていけるのだな、と思った。だが今日包帯を変えた時はもっと驚いた。
あれだけ酷かった傷が、かなり回復しているのだ。
もちろん、傷跡や肌の突っ張る感覚が残っていないわけではない。だがそれでも、一昨日よりはかなりマシになっている。クロードさんは俺が目覚めた《エクスグラスパー》としての力、『変化変生』の力だと評していた。この世界の環境に合わせて、俺の心肺能力は強化され、再生能力がブーストされているのだと。
だが。俺は手を広げ、意識を掌に集中させる。俺の掌に、弱々しい紫色の炎が生まれた。俺の持つもう一つの力。《エクスグラスパー》としての力を火炎として出現させ、相手に叩きつけることで破壊を生み出す、もっとも単純な力だ。俺の力が身体能力のブーストと再生能力の強化だというのならばこの炎は、あの姿は一体なんなのか。力の使い方は分かってきたものの、自分を包み込む力の正体はまるで分かっていなかった。
突然、船体が傾いた。気流のせいか、いずれにしろ船員たちは分かっていたのだろう。驚きの声さえ上がらない。もちろん、俺は別だ。体勢を崩し、落ちかける。無限の空へ。
「おっと危ない、何をしているんですかシドウくん」
俺の襟首が掴まれ、引き戻された。
喉が詰まり、意識が暗転しそうになる。まだ体調が完全には戻っていないからだろう。どうも最近ダメージに弱くなって困る。
「ゲホッ……す、すいませんクロードさん。危なく落ちるところだった……」
「落ちたら上がってこられないという噂の『大海幕』なんですから気を付けてください」
呆れたような顔をしながらも、俺の無事を喜び、クロードさんはウィンクを一つした。
「ようやく立ち上がれたと思ったら、落ちて行くなんて御免ですよ。
それにしても、どうしてこの下が『大海幕』なんて名前になっているんでしょうね?
落ちたら二度と上がってこられない、ってんなら下に海があるとも山があるとも分からないじゃないっすか」
「さてねえ、しかし空があるから海がある、っていうのは普遍的な価値観なのかもしれませんね。案外、この名前も私たちの世界から来た人が名付けたのかもしれませんよ?」
見たこともないものに思いを巡らせても、まあ仕方があるまい。何となく気になったが、あくまで何となくだ。深く追及するほどのものでもないだろう。
「そう言えば、トリシャさん元の世界に戻りたがってましたけど……
あの人、元の世界でやらなきゃいけないこととか、そういうことあるのかな……」
「いきなり飛ばされてきましたからねえ。依頼人との折衝やら、装備の調達やら、彼女は全部一人でやっていましたから。時間の流れがどうなっているのかは分かりませんが、もし流れてしまったら信用問題になります。その辺りを危惧しているのでしょう」
確かに傭兵だのバウテンィハンターだのは信用商売なのだろう。実に現実的な心配だ。
「僕も、今回の依頼を成功させなくてはいけない切実な事情がありましてね。それが吹っ飛んでしまうのは、どうも惜しい。出来ることなら一刻も早く戻りたい」
「クロードさんにも、戻らなきゃいけない事情が……?」
クロードさんは苦笑し、船べりに体を預けた。空を見ているが、見ていない。視線の先にあるのは、ここではない、自分が過ごしていた世界なのだろう。
「僕の兄が孤児院をやっていましてね。小さなところで、吹けば吹っ飛ぶようなところです。兄もなんとかやりくりをしているんですが、何とも行かないものでしてねぇ」
「もしかして、クロードさんがバウテンィハンターってのをやっているのは……」
「少しでも、自分の習った剣術が足しになればと思ったんですよ。今回は結構大きめな依頼だったので、兄にも楽をさせてやれるんじゃないか、と思ったんですが……」
俺や尾上さんのように、召喚に命を救われた人ばかりではないのだ。
「シドウくんは、どうですか? 元の世界に戻りたいと、思いませんか?」
そう言われて、言葉に詰まる。父さんも母さんも、友達も、みんなあの世界にいる。戻りたくない、と言われればウソになるだろう。だが、それでも……
「……今、俺は元の世界に戻りたいとは思えないっす」
奴の笑い声が、俺の脳裏に木霊する。奴の、貼り付いたような笑みが、瞼から離れない。悪意は善意に打ち克つと、嘯く奴の姿が、いつまでも俺の頭にへばりつく。
「誰かを助けられるって。
善意の力を証明するまで。俺は、戻れないと思います」
クロードさんが口を開いた気がした。しかし、それはかき消された。
上空から俺たちに向けられた底なしの悪意によって。
耳をつんざく咆哮によって。
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カウラント島。そこは『帝国』と『共和国』の国境線上にある小さな島だ。主要な生産物はコメと水菜。四季を通して気温は低く安定している。湿度が低く、過ごしやすい。狭い島の大部分は広大な森林によって覆われており、中心部には休火山が存在する。ごくたまに来る交易船を除けば、来るものもそうそういない。典型的な離島だ。
カウラント島には百人ばかりの住人が住んでいる。多くは農作業に従事しているが、ごく少数、森に入り獣を狩るハンターがいる。害獣は畑を荒らし、人を食うからだ。獣を狩り尽さず、人間の領域を侵さぬ程度まで減らす。自然界と人間界とのバランスを取る、重要な職業だ。獣が死ねば人間も死ぬことを経験則として理解している。
どこにでも存在する小さな離島。
ありふれた場所。変わらぬ時を刻む世界。
そうした静かな場所から逃げ出したいと願うのは、人の常だ。特に、小さな子供は。
木刀を背負った少年が、山野を駆ける。平地を走り、木の根を飛び越え、崖をよじ登る。それを繰り返しているうちに、開けた場所に出て来た。呼吸を整え、一礼する。
少年の前には塚が存在する。名前も刻まれていないものであり、そこには石の剣が突き刺さっている。そう、突き刺さっているのだ。モニュメントとして一体化してはいない。
この剣がいつ、どこから来たのか、村長も正確なところを知らない。ただ、村人は畏れ多い場所として近付くことを避けている。由来は分からないが、少年はそれを神聖なものだと思っていた。この空間の雰囲気は、あまりに荘厳なものだったからだ。
少年は木刀を構え、何度も素振りをする。その動きはドンドン激しくなっていき、いつの間にか見えない敵を相手に乱取りを行っているようになっていた。その動きは拙いもので、洗練されてはいないが、しかし筋の良さを感じさせるようなものだった。
荒い息を吐き、少年は座り込んだ。休憩ではない、柔軟運動だ。鍛錬は欠かさない。
「いつか……僕は、この島を出たいな……」
少年は寝転がり、ポツリとつぶやいた。この島は少年にとって牢獄と同じだ。変化のない世界に閉じこもってなどいられなかった。少年は夢見ていた、外の世界を。
それは、稚拙な夢。子供の頃呼んだおとぎ話のような夢。
いつかここではないどこかに飛び立ち、その剣を持ってして立身出世し、幸せな未来を掴み取ってハッピーエンド。それを夢見ながら、少年の心には一抹の不安があった。そんなことが自分に出来るのかと。
「……ん? 何だろう、あれは……」
寝転がった少年の眼前、空の彼方に影が現れた。
それは、船だった。そして、それを追いかける、巨大な竜。まるでおとぎ話に出てくるような、邪悪な存在がそこにいた。
「あれって……もしかして、あの船が襲われてるの!?」
少年はガバっと立ち上がった。そして、矢も楯もたまらず走り出した。その表情に浮かんでいるのは、恐怖? 焦燥?
いずれも異なる。そこにあったのは、期待。
少年、花村彼方は、自分の世界を変えてくれる存在が現れてくれると信じていた。
上空で巨竜、フィアードラゴンが火炎弾を吐き出した。
吐き出された火炎弾が船底に衝突し、爆発した。人の命を乗せた船が黒煙を上げ、ゆっくりと落ちて行った。ゆらゆらと揺れながら進んでくのは、当然ながらカウラント島だった。
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「うおぉぉぉぉ! やだぁぁぁぁぁ! 堕ちるゥゥゥウゥゥッ!」
俺は船体にへばりつきながら叫んだ。
叫んだところでドラゴンもどきが帰ってくれるわけもなく、むしろ俺の叫び声にイラついたのか、より一層大きな咆哮を上げた。さすがのクロードさんも空にいる敵には手も足も出ないようで、俺と同じように船体に捕まっている。
あるいは、必殺のタイミングを待っているのかもしれないが。
「チッ! こいつら、あの島で見たドラゴンか!
こんなのがたくさんいるってのに、よくこの世界の人間は空路をとる気になるなッ!」
トリシャさんは尾上さんから受け取ったサブマシンガンを連射した。ドラゴンとの距離はそれほど離れていないが、空力と船の機動とが攻撃を邪魔する。放たれた弾丸は、恐らく半分もドラゴンには届いていないのだろう。呻き声すら上げない。
「フィアードラゴンはマイナーな種類でね!
こいつと会うのは、交通事故に遭うくらいの確率だよ!
まさか、この短い間に三度も見るとは思わなかったな!」
尾上さんもアサルトライフルを連射し、フィアードラゴンと呼んだ竜を狙った。フィアードラゴンは弾幕をものともせずに接近、大口を開けた。その口元には火があった。
「も、もしかしてファイアーブレスとか撃ってくんの!?」
「いやあ、さすがに火炎放射器はないさ!
代わりにファイアーボールを撃ってくる!」
尾上さんの言葉通りフィアードラゴンの口から人の体ほどもありそうな大きな火球が現れ出でた。俺は反射的に手を掲げるが、しかし手に収束する紫色の炎はいかにも頼りない。
変身を出来るほどにも、攻撃が出来るほどにも、回復はしていないらしい。
フィアードラゴンが大きく息を吐いた。火炎弾が吐き出される。その瞬間、船体が大きく傾いた。舵が大きく回されるのが見えた。船体が三十度ほど傾き、俺は吹き飛ばされそうになる。
トリシャさんも、尾上さんもギリギリのところで踏み止まっている。無茶な回避行動だったが、とにかく直撃は避けられたようだ。船体が黒く焦げるだけに留まる。
「チクショウ、あんなのが相手じゃどうやって倒しゃあいいんだよ!?」
とにかく、この事態で俺に出来ることは驚き役に徹することくらいだ。この世界に来て嫌と言うほど無力感を味わってきた。だが今回は格別だ。いままでは何か、少なくともできることがあったが、今回はまったくそれがないのだから。
「ああ、もう! いったいこれはどうなっているのよ!?」
船室の扉が蹴り開けられた。俺は思わずそちらの方を見る。一人の女性がいた。
黒いタンクトップに、白のハーフパンツ。両腕には鉄製のガントレットを巻いている。拳の部分に鋲のついた攻撃的なタイプで、何となく俺の変身態を彷彿とさせる。ぱっちりとした大きな切れ長の目で、反比例するように瞳は小さい。三白眼という奴だろう。短い金髪が陽光を反射し、風に揺れていた。胸元には狼のペンダントを着けていた。
「チィッ! ドラゴンが出たのか! ここじゃやりにくいが……仕方がない!」
女性は揺れる甲板を、まるで弾丸のような速度で駆けた。そんなスピードで走っていたら振り落とされてしまいますよ、と口を突いて出て来そうになったが、女性は驚異的なバランス感覚をしているのか、振り落とされるどころかスピードを緩めることすらなく船尾の方に走っていった。
そして、そこに備え付けられていた錨を手に取った。
「し、シドウさん! い、いったい何があったんですか……!?」
エリンとリンドが船室から飛び出して来た。
そして、船尾のドラゴンを見た。
「フィアードラゴン!? まさか、こんな……アルクルスに近い場所なのに!」
二人にとっても、ドラゴンの襲来は意外なことだったのだろう。色を失っていた。
「エリン、リンド! 尾上さんを手伝ってくれ! このままじゃ落とされる!」
俺に出来るのは、せいぜい二人に指示を出してやるくらいのことだった。
「いや、待ってくださいシドウくん。もしかしたら必要がないかもしれませんよ」
俺は驚き、クロードさんの視線の先を見た。
そこには、錨を振りかぶる女がいた。
「やかましいクソドラゴンがッ! 往生、せぇやぁぁぁぁぁぁ!」
女性は振り上げた錨を投げた。ドラゴンの巨体に向けて。投げる瞬間、女性の細腕がバンプアップした。重量級の錨は真っ直ぐドラゴンの体に向かって行き、突き刺さった。フィアードラゴンは苦し気な叫び声を上げた!
女性はもう片方の腕に握った錨を投げる! 寸分違わぬ位置に投げ込まれた錨は、ドラゴンの薄い皮膚を突き破る!
「す、スゲエ……どんな筋力してりゃあ、あんなことが出来るんだ……!?」
錨の重さは少なくとも十キロを下らないだろう。それをあんな細腕で投げて、しかもドラゴンの皮膚を貫通させるなどと。尋常な力の持ち主ではない。何者なんだ?
フィアードラゴンの体が揺らぎ、高度を落とす。
だが、死んではいない。一瞬怯んで、体勢を立て直すために射線から離れただけだ。尾上さんとトリシャさんが悔し気に呻く。
「……そろそろ頃合いですね。いい具合に陸地も近づいて来た」
俺は下を見た。確かに、眼下には大きな島がある。住居があるのも見える。だが、何がいいというのだろうか。確認しようと振り返ると、クロードさんの姿はなかった。
クロードさんは船室の屋根を蹴り跳躍し、マストに昇る。マストを蹴り、更に跳躍。フィアードラゴンの直上を取る。フィアードラゴンの目が、上空のクロードさんを見た。ドラゴンは信じられないものを見るように、目を見開いた。
「綾花剣術零の太刀、改。無刀峻烈断」
クロードさんが掌を突き出したのが見えた。ドラゴンの腹に、鉄杭が撃ち込まれたのかと思うほどの衝撃が走った。ドラゴンの体表が、波打ったのだ。何たる衝突力。ドラゴンの体が、落ちて行く。だが、クロードさんの攻撃はそれに留まらなかった。体勢を空中で半回転させ、頭からフィアードラゴンに向かって、つまり空を、落ちて行った。
「クロードさん!?」
正気か! 無限の空に落ちて行けば生きて戻れないのはもちろんのこと、仮に大地に落ちたとしてもこの高度から落下すれば肉片も残らないだろう。バカげた身体能力を持っているクロードさんだが、しかし耐久力は人間並みのはずだ。そうでなければビーム攻撃を避けるはずがない。それは彼を良く知るトリシャさんの狼狽を見ても明らかだった。
クロードさんの体がどんどん加速していき、ついに落ちて行くフィアードラゴンに追いついた。クロードさんはもう一度半回転し体勢を元に戻し、両足でフィアードラゴンの体にストンピングを仕掛けた。再び、フィアードラゴンの体が加速し、落ちて行く。先ほどと違うのは、クロードさんが半作用で吹き飛ばされず、吸い付いているということだ。
「あいつ……ドラゴンの体をパラシュート代わりに使うつもりなのか!?」
「まさか!? 下に地面があるって言ったって、さすがにあれは、無茶苦茶だ!」
その場にいた誰もが唖然としたが、しかしそれを気にしている場合でもなくなった。船体が揺れたのだ。見てみると、ドラゴンの火炎弾が掠った場所から着火していた。
「冗談だろ!? 空の上でバーベキューになるなんて御免なんですけどォーッ!?」
「うるせえ若造、俺だってそんなのは御免だよ! カウラント島に不時着するぞ! お前ら、何かに掴まれ! 振り落とされたって知らねえぞォーッ!」
船長の大声を聞いて、俺は慌てて船べりから手を放し、エリンとリンドに向かった。そして、彼女たちの体を庇った。こんなところで振り落とされてたまるか!
クロードさんがカウラント島に不時着する音が、俺の耳に聞こえて来た気がした。




