永遠の闇が晴れる時
俺は立ち上がった。ついに、ナイトメアを倒したのだ。ざまあみやがれ。そう思った。
その瞬間、俺の両足から力が失われた。膝立ちになり、両手で地面を突き、何とか転倒を免れた。それでも両手も両足も、いや、体全体がガタガタ震えていた。寒いわけではない、筋肉が立ち上がることを否定しているようだった。唐突に催吐感が襲ってきた。
流れに逆らわず、俺は吐いた。口からこぼれだしたのはゲロではなく、血反吐だった。あれ、口からの出血ってマズいんじゃなかったか? 確か内臓が損傷していると、吐血するはずだ。ボコボコに殴られ、叩き伏せられ、ついに俺の体に限界が訪れた。
俺の体に、温かな手が乗せられた。血を失い、急速に熱を失っていく体とは対照的に、その手は柔らかくて、温かかった。クロードさん辺りが、俺を助けに来てくれたのだろうか。そう思って隣を見てみると、そこにいたのはエルヴァだった。
「あたしの姉妹のために戦ってくれたんだから、さ……その、お礼だよ」
頬を赤く染め、目を泳がせながら、エルヴァはそう言ってくれた。なんだ、素直になり切れないだけで可愛いところがあるじゃないか。死にそうなコンディションだったが、そんなことが嬉しくて、俺は笑ってしまった。笑うたびに肋骨が悲鳴を上げた。
「ったく……! こんなところからさっさと出るんだろ? ほれ、掴まりな」
そう言って、エルヴァは俺の手を自分の肩に回して、立ち上がった。もはや指先にも力が入らない。肩側に回した手は、ぶらぶらと虚空を彷徨った。あれ、もしかしたら俺はいまヤバイ位置に手を置いているのではないだろうか? 手に感覚はまるでないが。
「……なあ、あんた。張り倒してぶっ殺していいか?」
「ちっげえよ! 手に力入んないだけだよ! 力込められた揉んでるわ!」
痛みのあまりテンションがおかしくなっていたのだろう、余計なことまで口走ってしまった。彼女のバストは豊満だったのだから。直後俺の顔面に裏拳が叩き込まれる。
「あんまり変なこと言ってると、マジであんたぶっ殺すぞ?」
「ごめんなさい、ウカツなことは二度と言わないんで殴らないでください」
さすがにこんなことで殺されてはここまで生き残って来た甲斐がないではないか。むしろこのまま殴られたら本当に死んでしまいそうだった。貝のように口をつぐむことにした。ゆっくりと、俺たちは入り口に向かって歩いて行く。
「……ありがとよ。あんたがいてくれたおかげで、あたしたちは死なずに済んだ」
「俺が出来たことなんて……そんなねえよ。いつもそうさ。
助けようとして空回り。俺がここまで来られたのは、クロードさんたちがいてくれたおかげだよ」
そもそも、あのままでいれば俺はグラーディにぶちのめされ、地面に転がされ、誰にも顧みられることなく死んでいただろう。命を拾って、それを使ったに過ぎない。
そんなことを考えていると、手の甲を強くつねられた。見るまでもない、エルヴァだ。
「あんた、あんまりナメたこと言ってんじゃないよ?
あんたが何にも出来ないってんなら、助けられたあたしたちはいったいなんだってんだよ、エエ?」
「イデデデ! 悪かった、悪かったよ! 言っていいことと悪いことがあったッ!」
確かに、言われてみれば助けられたエルヴァたちを侮辱するような言葉だった。
「……ホントに感謝してるんだ。エリンが逃げ出した時、あたしは何考えてんだ、って思った。外に出たって希望なんてない。勝手に期待して、勝手に裏切られて、そんなことするくらいなら、始めっから期待なんてしなきゃいい。
あたしたちはそう思ってた」
いつの間にか、俺たちは歩みを止めていた。エルヴァは俺の顔を覗き込んだ。
「けど、気まぐれに助けてくれるような奴がいて、よかったよ。
エリンを傷つけることがなくて……あの子の笑顔をもう一度見れて、本当によかったって。あたしは思うよ」
険しい顔は、もうなかった。
そこにいるのは、歳相応の女の子だった。
「ありがとう。えっと……そう言えば、あんたの名前。まだ聞いてなかったな」
そう言えば、そうだった。何度か命のやり取りをしただけで、俺としては知り合いくらいにはなった気持ちになっていたが。そう言えば、リンドにもまだだった。
「ああ。俺の名前は……」
名乗ろうとした。だが、それは届かなかった。爆風が俺の声を吹き飛ばした。
無機質な空間が、一瞬にして炎の赤に飲み込まれた。
壁、床、柱、計器。ありとあらゆるものが、一斉に爆発した。何らかの自爆装置のようなものがあったのかもしれない。
天井板が、俺たちに向かって落下して来た。
声を上げるのがやっとだった。
クロードさんが走るのが見えた。
だが間に合わない。
みんなが叫ぶのが見えた。
もちろんそんなもので物質は止まらない。
俺は跳ぼうとした。足が動かなかった。
俺の体が、後ろから押された。エルヴァが手を回した俺の体を押したのだ。バカ野郎、それをするのは俺だろうが。けれども、手は少しも動かなかった。ぐるりと、俺の体が反転する。エルヴァの顔が見えた。やめろ、そんな顔を
するんじゃない。
何で、お前は、笑っていられるんだ?
ありとあらゆる動きが、蜘蛛の糸に絡め取られたかのように鈍化する。グラーディとの戦いの時にも感じた、知覚のオーバーリミット。あの時と違うのは、どうやったった俺はこの世界の中で動けないということだ。彼女の唇が、動いた。
『みんなを、お願いね』
言葉が俺の耳に突き刺さった。叫ぼうとした。
だがその瞬間には、エルヴァの体が巨大な天井板の下に消えて行った。崩落した板の厚みは、五十センチはあるだろう。彼女の体が、その下にあった。そこから飛び出した彼女の片腕が、その事実を告げていた。俺の体がリノリウムの床に転がる。一瞬前まで俺たちがいた場所が、爆発したのが見えた。
「シドウくん! しっかりして下さい、シドウくん!」
俺の体が何者かによって持ち上げられる。
辿り着いたクロードさんが、俺を助け起こし、米俵のように俺の体を担ぎ上げた。ああ、チクショウ。せめて反対側にしてくれ。上半身から担ぎ上げられた俺は、クロードさんの脇越しに爆発する研究所を見ていた。エルヴァの腕が、爆炎に巻き込まれて、この世界から永遠に消え去った。
なぜ、どうして、こんなことになった?
助かったんじゃなかったのか?
この子たちにはまだ……
救いってやつがあっていいんじゃないのか?
こんな残酷な結末を用意するなら、どうして。
どうしてあの子たちに一度救いを見せてやったんだ?
分かっている。これを招いたのはすべて俺の無力さが原因だ。俺があの時、動けていれば。グラーディを楽々と倒すだけの力があれば。ナイトメアに対抗出来るだけの力があれば。あの時、エルヴァの体を、俺が押せていたのならば――!
たら、ればが、俺の中で生まれては消えて行く。
何をどうすればよかったのか、分からない。
意識が闇へと落ちて行く。
今度はどこへ? 永遠の深淵に。今度こそ?
善意は悪意に勝てない。
そんな言葉が、俺の中で延々と木霊していった。
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温かく、柔らかな感触に包まれて、俺は目を覚ました。眩い、しかし不快ではない光が俺の目に飛び込んできた。太陽の光は、どんな世界であろうとも俺を照らした。
俺はあれからどうなった? 少なくとも、全身を震わす痛みが消えたわけではない。こんな状態で立ち上がれるのだろうか、俺は周りを見た。どうやら、ベッドに寝かされているようだ。この内装には見覚えがある。『風の香り亭』。
そしてもう一つ。椅子に座り、俺の眠るベッドに突っ伏して眠っている子が一人いる。ゴシックドレスの少女、リンド。かつてはその姿を見て、陰鬱な雰囲気を放っていると思ったものだが、あどけない表情で眠っている姿を見るとその印象も反転する。
「……もしかして、俺の看病とか……してくれてたのか?」
どうしたものか。動きたいが、彼女がもし看病してくれていたのならば、看病疲れで眠ってしまったのだろう。そんな子供を起こすことが出来ようか? いや出来まい。しかし、こんなところで悶々と考えていても事態は進展しないだろう。
俺がそんなことを考えていると、扉が開かれ、クロードさんが入って来た。
「おや、リンドさん。寝てしまいましたか……って、シドウくん?」
「あー……ドーモ。とりあえず起きたんですけど、この状況……何?」
とにかく混乱していた。何せ、俺が最後に見た光景は研究所が爆発するところだ。それからいきなり村に戻って、宿に泊まって、敵だった少女が看病してくれている。一瞬にして理解出来る奴がいれば、それは運命の脚本を読んでいる奴だけだろう。
「まあ、混乱するのも無理はありませんね。
どこから説明したものでしょうか……」
クスリと笑って、クロードさんは椅子を引っ張ってきて俺の隣に座った。俺はリンドを起こさないよう、慎重に体を動かし、ベッドの背もたれに体を預けた。半身を起こしてから気付いたことだが、俺の両手には素肌が見えなくなるくらい包帯が巻かれていた。
「……聞くの怖いんすけど、俺の腕って今どうなってるんですか?」
「ああ、安心して下さい。二度と使えないだとか、そういう状態じゃありませんから」
最初に最悪の未来を潰して来た。
これは最悪の二歩手前ぐらいで止まるかもしれない。
「あの時のシドウくんの状態は、本当に酷いものでした。
全身傷だらけ、腹部の傷が開いて大量に出血していました。
骨も何本か折れていましたし、恐らく内臓にも損傷を受けていたことでしょう。レントゲンも何もない世界では、正確なことは言えませんが」
「グラーディと戦った時点で、俺の体凄いことになってましたもんね」
「恐らくは、キミの力で傷を押さえつけていたんでしょう。
ですが、キミが意識を失ったことで能力が解除され、塞いでいた傷が開いた。キミが思っているより、腕の状態はひどい。擦過傷、裂傷、打撲痕、骨折。おおよそ考え付くだけの傷はついていました」
だから指先を除いた腕全体に包帯が巻かれていたのか。これを取る時が怖い。震える手で顔を触ってみたが、顔もひどい状態だ。テープのようなものが両目の下に張り付けられ、頭には包帯が鉢巻のように巻かれている。首にも手を伸ばすが、そこにも包帯が。
「……俺はミイラ男にでもなったんでしょうかね」
「全身見回して傷ついてないところの方が少ないくらいですからね。
後で食事持ってきますよ。立ち歩くのは、もうしばらく経ってからの方がいいでしょう」
ありがたい申し出だったが、そうしているわけにもいかない。体を横に動かし、ベッドから立ち上がる。上も下もどこも真っ白だ、ここまで来るとさすがに笑えて来る。
「そう言ってくれるのはありがたいっすけど。
やらなきゃいけないことがある」
「……エリンくんたちのことを言っているんですか?」
俺は頷いた。グラーディは死に際に言っていた。彼女たちの命は、保って三月だと。だとしたら、こんなところで眠っているわけにはいかなかった。
「クロードさん、俺どれくらいの間寝てたんですか?」
「今日で三日目です。先生も、治りが早すぎるって驚いていましたよ」
肩を回す。千切れるように痛いので慌てて止める。首を回す。万力で締め付けられたかのように痛いので慌てて止める。恐る恐る足を一歩前に踏み出してみるが、とりあえず下半身に痛みはない。上半身に敵が集中攻撃を仕掛けてくれたおかげだろう。一歩踏み出すと反動で全身が軋むが、しかし贅沢は言っていられなかった。
「あれ、そう言えば俺の服ってどうなったんですか?」
見渡してみるが、いままで俺が着ていた服がない。シャツとスラックスだけだったのだが。取り敢えずパンツ一丁の状態から早く脱却したかった。
「もう着れなくなっただろうから、処分してしまいましたよ」
「ええっ! す、捨てちゃったんすか!? お、俺に確認もしないで!?」
「血だらけ傷だらけでとても着られるような状態じゃなかったんですよ。
あれならボロ雑巾の方がまだ綺麗です。クローゼットに替えがありますから、それを着てください」
さようなら、学校指定の制服。
野暮ったいけどキミたちのことは嫌いじゃなかった。
心の中で涙を流しながら、俺はクローゼットを開いた。籠には畳まれた綿のパンツとシャツ、ハンガーには朝のチョッキとズボンがかかっていた。いずれも地味な色合いで、柄も入っていない。まあ、このくらいの方が目立たなくていいのだが。
「これ、クロードさんたちが用意してくれたんですか?
すいません、こんな……」
「いえ、用意してくれたのは村の皆さんですよ。助けられたことに感謝していました」
助けられた、というのだろうか、あれは。助けたのはあくまでクロードさんであり、俺は庇い立てただけなのだが。まあ、人の好意と言うのは素直に受け取っておくものだ。俺は与えられた衣類に袖を通した。丈はほとんどぴったり合っている。
「う、ん……あれ……?」
そんなことをしていると、リンドが目を擦りながら起き上がって来た。パンツ一丁の姿を見られることだけは避けられたようだ。
多分もう見られてるんだろうけど。
「おはようございます、リンドさん。
ちょうど彼も、起きたところですよ」
「あっ……その、おはようございます……」
リンドは消え入りそうな声で言った。
まだ、心にしこりが残っているのだろう。
「クロードさんから聞いたよ。
付きっ切りで看病してくれてた、って。ありがとな」
「そんな……感謝されるほどのことではありませんわ。
私は、ただ……」
恥じ入り、消えそうになる彼女の前に立ち、髪を撫でた。
柔らかな感触。
「俺は嬉しかったよ。ずっと傍にいてくれる人がいて。
ありがとう、リンド」
リンドは俺が頭を撫でるのを跳ね除けなかった。
「俺は紫藤善一。よろしく」




