本物の子鬼との鬼ごっこ
しばらくの間現実が受け入れられず、立ち尽くしていた俺は、ぺたりと座り込んだ。
ずり落ちかけた眼鏡を中指で戻した。特に目が悪いわけではない、伊達だ。
『善一って眼鏡かけると知的に見えるよね』と言われてその気になってかけてみたが、案外気に入っている。しかしなぜあいつはそれが分かったのだろう? 眼鏡をかけたことなんて一度もなかったのに。
ポカン、と開いた口に、都会では味わうことさえ出来ない清浄な空気が飛び込んで来る。空気を肺に満たし、吐き出す。それを何度か繰り返し、俺は正気を取り戻した。急にのどの渇きを覚え、隣に流れていた川べりへと近付いて行った。
生水には様々な菌が含まれているので、絶対にそのまま飲んではいけないと昔通っていたボーイ・スカウトで教わった気がした。だが何の器具もない以上、生で飲むほかなかった。水がなければ人間は死んでしまうのだ。
清らかな水が俺の体を満たしていった。
「……っし、歩くしかねえな。ワケわかんねえけど、とにかく歩くか」
俺がワケの分からぬ事態に巻き込まれている、ということはもはや確定事項のようだ。あるいは、死に瀕した俺の頭が見せている単なる妄想なのかもしれない。だがいずれにしろ、この状況を把握しなければ何をすることも出来ないだろう。
「大丈夫……俺の妄想なら、最悪俺が死ぬことはねえだろ」
無根拠な想像を努めて信じ込むようにし、俺は深い森に足を一歩、踏み入れた。
その時だ。森の中から絹を裂く様な悲鳴が聞こえて来た。
「早速か! って、んなこと言ってる場合じゃねえな!」
俺は走り出した。
まったく整備されていない森の中を攻めるのに、運動用のスニーカーではいささか辛い。転倒しないよう注意しながら、俺は森を進んで行った。
そうして声がした方向に向かって走っていくと、小さな白いものが動いているのが見えた。そして、それは背後を振り返りながら走り続けた。どうやら人間のようだった。
純白の巫女服めいた衣装を着た少女だった。全身を白で包んでおり、髪の色も白に近い。それだけに、袖口と襟に刻まれた赤い山型の刺繍が目についた。頭には琥珀色のバレッタを着けている。俺はその少女を呼び止めようとした。
だが、その後ろから何か、小さな緑色の物体が彼女を追いかけているのを見て、躊躇した。一瞬の戸惑いの間に、その緑色の物体は全体像を露わにした。
それは、醜悪な物体だった。豚の顔を更に平べったく潰したような造形で、見開かれた目がアンバランスな印象を放っていた。ほとんど裸で、粗末な腰蓑を
つけているだけ。体長は一メートルほどで、腹の肉はたるみ、堕落と退廃とを表しているように思えた。手には錆び付いた剣やら、石を研いで作ったようなナイフを持っていた。
俺はファンタジー・ゲームであれとよく似たものを見たことがあった。
「……ゴブリン?」
それは、ゴブリンという言葉の持つパブリックイメージを具現化した怪物だった。
ゴブリンの群れは三、四体くらいおり、少女を巧みに包囲していた。彼女は追い詰められ、進退窮まっていたようだった。か細い体が震えているのが見えた。
四の五の考えていると、死ぬ。
自然と、俺は駆けだしていた。俺がたてた派手な音に、ゴブリンが慌てて振り向く。俺の足を狙って、ゴブリンが剣を振った。それを立ち幅跳びの要領で飛び越え、着地。俺は少女をかばうようにしてゴブリンの群れに立ちはだかった。
「大丈夫か! まだ、走れるか?」
「えっ……あっ、は、はい!」
か細い、しかし意思の強さを感じさせる声で、はっきりと少女は俺にそう言った。
それならば、話は早い。突然の襲来に浮足立っている今だけがチャンスだ。近場にいたゴブリンを蹴り、道を開いた。俺は少女の柔らかな手を取り、駆け出した。
背後からゴブリンのギーッ、ギーッ、という不快な鳴き声が聞こえて来た。言葉を持ってはいないのだろうが、しかし音でコミュニケーションを取っているのだろう。ゴブリンたちは迅速に体勢を立て直し、逃げる俺たちの背後に追いすがった。それほど速くないが、威圧感は強い。
「あっ、あの、あの! あなたは、いったい!」
「いまはそんなこと気にしてる場合じゃないだろ! とにかく、走るぞ!」
なぜこんなことをしているのかって?
そりゃ格好いいからに決まってるだろ!
走っているうちに、俺たちは湖畔へと到達した。恐らく、さっき流れていた川の源流だ。左右、どちらに走っても対岸には辿り着ける。右は距離は長いがそれほど険しくはない。左はゴツゴツした岩場になっている。ゴブリンを撒くには丁度いいかもしれない。
どっちに行く? そんなことを考え、右を見た俺の視界の端に金属の煌めきが映った。
「あぶねえ!」
少女を抱えるようにして、俺は跳んだ。背中に冷たい感触、熱い液体が流れるような感覚、そしてまた冷たさ。一瞬のうちに三つの感覚が現れては消えて行った。
少女を抱え転がり、俺は立ち上がった。醜悪な笑みを浮かべたゴブリンがおり、そいつが握っていた剣には血が滴っていた。それを見た瞬間、俺の背中に痛みが走った。
「きっ、傷……だ、大丈夫ですか!?」
切られた。それを理解するのにそれほど時間はかからなかった。この世界は俺の妄想などではなく、現実に、確かに存在するということを、痛みが教えてくれた。
付近の茂みから音がして、そこからゴブリンが飛び出して来た。五体ものゴブリンが、俺を包囲している。今度はさっきのように、助けは来てくれそうにはなかったが。
「クソ……囲まれちまったのか!?」
叫ぶが、現実は変わらない。ジリジリと、ゴブリンはその包囲網を狭めて来る。
(ちっ……くしょう……こんな、ところに来ても、俺は……!)
俺は歯噛みした。その時、何かが俺の裾を引いた。少女が不安そうな目で縋り付いているのだ。その姿を見て、俺は心を奮い立たせた。
(何考えてやがる、バカ野郎!
助けるんだろ……今度こそ俺が助けるんだろうが!)
弱気に負けて、何かを見捨てることは出来ない。一度できなかったなら二度、二度出来なかったなら三度! 俺は悪意の思い通りになってなんかやるものか!
俺を切ったゴブリンが、醜悪な笑みを浮かべ、身の毛もよだつ咆哮を上げながら飛びかかって来た。その小さく、非力な見た目に反して力強く、そして素早い跳躍。
俺は拳を振り上げ、飛びかかってくるゴブリンを迎え撃とうとする。
その瞬間、ありとあらゆる動きが鈍くなったように感じられた。飛びかかってくるゴブリンの動き、振り下ろされる剣の動き、辺りを取り囲み、嘲笑う
ゴブリンの動き。
そして俺の腕の動き。叫ぶ俺の口の動き。放たれる絶叫。脳の見せる幻。
鈍化した時間の中で、痛いほど俺は理解した。俺の拳はゴブリンに届かない。振り下ろされる刃は、二瞬ほど速く俺の体に突き刺さる。つまりは全く足りないということ。もはや手を引こうと、何をしようと、間に合わない。俺はもう一度ここで死ぬ。
(っざっけんじゃねえぞ、コラ!
動け、動きやがれ俺の体ァーッ!)
それでも、俺は諦めない。切られようが貫かれようが、振り上げた拳は下ろさない!
ドクン。
心臓が一際強く打たれた気がした。
全身の血液が、沸騰するほど熱くなった。
ドクン。
それは怒りか、悲しみか。
無力感に打ち震える俺の体が打った早鐘か。
――力を。俺に力を。誰にも負けない力を。悲しみを打ち払える力を――!
俺は願った。そう願った。
例え誰が聞き届けてくれなくても、俺は叫び続ける。
ゴブリンの体が、吹き飛んで後方にあった木の幹に激突した。一瞬の静寂。
黙ったのは、俺も少女も同じだった。俺自身、呆然とした顔で俺の手を見ているのだろう。当たるとは思っていなかったし、ゴブリンが吹き飛ぶとは思っていなかった。
「そ、それは……それは、いったい……?」
だが、何よりも驚くべきことは俺の体に生じた変化だろう。俺の腕は、黒いラバーのようなもので覆われていた。その上から白銀に輝くガントレットが装着されていた。拳の部分には鋲が付き、パンチの威力を何倍にも高めるように
設計された凶悪なデザインだ。
これがいったい何なのか。詳しいことは俺には分からない。だが一つ分かることがある。これが俺の体の内より溢れ出た、俺の力であるという確信が。
「俺の体よ……俺の意思を鎧え! 俺の意思で、すべてを踏み越えてみせろ!」
沸騰した血液が全身に行き渡っていくような気がした。俺はそれを受け入れた。全てが終わった後、俺の体が灰に帰しても構わない。それでも、俺はこの力を欲する。
俺の全身が、黒いラバーのようなものに覆われていくのが分かった。左腕には右手と同じようなガントレットが現れ、両足の脛から下にも白銀の具足が生じて行った。俺の頭にも、何かが生まれた。湖面を覗き込んでみると、騎士甲冑のような兜が現れていた。
「守って見せる、今度こそ! 俺はこの力で、守りたいものがあるから!」
拳を前に突き出す。大気が震えた。
それを合図にして、ゴブリンが一斉に飛びかかる!




