破滅までのカウントダウン
確かに俺が看取ったはずだ。
死んでいないなんて有り得ない。
あの命を失っていく感覚がウソであるはずがない。
それでも、彼女はいま、こうしてここにいるのだ。
「この時を待っていた……! 世界最強の『管理者』である貴様が堕ちる瞬間を!」
ウィラの手はフェイバーの胸を確かに貫いていた。
だが、血は一滴も出ていない。
その代わり、彼女の手には光り輝く正多面体がある。底なしの闇を内包しているようで、それでいて輪郭をはっきりと感じることが出来る。あれはいったい何だ?
「なるほどな、隔絶空間に世界律調整器を設置していたわけか。私たちが向こう側からこちらに移ってくるときに捨てたものを後生大事に取っておくとは、物持ちがいいと言うか何というか……やはりお前は自分の力じゃ何一つ出来ない男なんだな」
「ウィラ……黙れッ、ウィラァァァァッ!」
フェイバーは乱暴に腕を振るい、ウィラを振り剥がした。彼女は鋭い爪で切り裂かれる寸前で身をかわし、踊るようにしてフェイバーの前へと姿を現した。俺たちの前にも。あの時、あの空間で見たあの女と、ウィラと寸分違わぬ姿形をしていた。
「ウィ……ラ? お前、でも、え? 確かに、あの時死んだはずじゃ……」
「そうだ、貴様はあの時私が殺したはずだ! 死体だって確認したのに!」
俺とフェイバーの言葉が重なっているわけではない。
だが、奇しくも俺とフェイバーは同じ感情を抱いているようだった。
彼女は死んだはずだ。なのになぜ?
「痛かったぞ、フェイバー。私は確かにお前に殺された。だから復讐のため蘇った」
蘇った。あの女も俺と同じように蘇ったということだろうか?
だがどうやって。俺の場合はウィラが拾い上げてくれたからこそ生き残った。
ならば、誰が彼女を拾い上げた?
「『管理者』権限、剥奪。これで貴様は私と同じ、単なる一人の人間に過ぎない」
「こんなバカなことがあり得るものか。私は神だぞ、この世界の支配者だッ!」
「違うよ、フェイバー。お前はただの人間だ、力を持ったな。だが、私は違うぞ……!」
ウィラが軽く腕を振るった。
屈強なフェイバーの体が弾き飛ばされる。
あれだけの体格差、あれだけの力の差がありながら、フェイバーとウィラの戦いは一方的な展開であった。あっさりとフェイバーは打ち据えられ、無様に地面を転がった。
「こんなことは有り得ない……お前は、お前はいったい、何をしたァッ!」
「何をしたかって?
まだ分からないのかい、フェイバー。私が何に救い上げられたか」
ウィラの背後から闇がせり出す。
この世界に住まう人間なら誰もが知っている、闇。
「まさか、その力は……《ナイトメアの軍勢》のものなのか!?」
「有り得ない!
システム・ナイトメアは私の管理下にある!
お前などが好き勝手に出来るものではない!
出鱈目を言うのもいい加減にしろ、ウィラ!」
フェイバーは激高しながらヨロヨロと立ち上がった。
そんな姿を見て、ウィラはクスクスと嗤った。
直後、彼女の周りの空間が歪み、異形の怪物が現れた。
「お前も知っているはずだ。お前の管理下にないナイトメアが存在していることに」
それは、人の形をしたドラゴンだった。
だが、『真天十字会』との戦争で出て来たランドドラゴンではない。
もっとも禍々しく、そして力強い。宵闇の如きパワーを感じる。
「なるほどな、貴様が作り出したものだったのか。だがこんなものでッ!」
「作り出したものじゃないさ。進化したんだよ、彼らは。永遠の闇の中でね」
二体の黒竜はフェイバーに襲い掛かった。
万全の状態ならば、敵ではないだろう。
だが、いまの彼は俺たちの攻撃によって疲弊し、動揺している。
だから本来なら格下であるはずのブラックドラゴン二体を前にして苦戦していた。ウィラはそんなフェイバーから興味を失ったように視線を外し、そして俺の方を見てツカツカと歩み寄って来た。
「始まりは一個のプログラムだった。
そのプログラムが、何度も死と再生を繰り返した」
ブラックドラゴンがドリアンのような腕でフェイバーを殴りつける。
甲冑から火花が上がり、彼の体がよろけた。
もう一体のブラックドラゴンが追撃を放とうとするが、それは許されない。
フェイバーは至近距離で蹴りを放ち、ドラゴンを無理矢理引き剥がす。
「何度も死を繰り返すうちに、プログラムは『考える』ようになった。
このプロセスの意義を。何度も、何度も、何度も。
同じことを繰り返すならば、それは重要なことなのだろう、と。
だから『彼』は知ろうとした。自分の行っている行為の意味を」
ブラックドラゴンは息の合ったコンビネーションでフェイバーを巧みに追い詰めた。フェイバーは強い力を持っているが、しかし無敵ではない。神の力を万能視し、鍛錬を怠った。それが『管理者』権限を奪われたいま露骨に響いている。
「死と再生を繰り返す彼らは、他の生物をサンプルとした。
そして知った、己の死には何の意味も存在しないということを。
そしてサンプルとした人間から死の恐怖を学んだ。
プログラムは死を恐れるようになった。
だが何度も繰り返された。
何度も、何度も、何度も。繰り返して行くうちに――どうなったと思う?」
ウィラは大仰に手を広げながらくるりと回った。恍惚とした表情で。
「進化したんだ。ナイトメア・プログラムは。
粘菌から進化した生命体が海を泳ぎ、陸に渡ったように。
一行のソースコードだった存在は多層化し、厚みを増し、そして生命へと至った!
驚くべきことだとは思わないかい、フェイバー!」
「そんなことがあり得るはずがない!
機械は機械、プログラムはプログラムだッ!
考えることも、感じることもない、人間の奴隷に過ぎないのだッ!」
「まだ分からないようだな、フェイバー。お前はその奴隷に負けようとしている」
ブラックドラゴンの二つの足がフェイバーの体に叩き込まれた。彼は吹き飛んだ。壁に叩きつけられ、冗談のようなクレータ―を作り、そして力なくズルズルと崩れ折れた。
「感謝しなければならないな、シドウくん。それに他のみんなも。キミたち理から外れた人間がいなければ、フェイバーにこうして肉薄することさえ出来なかっただろう」
「何だよ、何なんだよ、これは……俺に語ったことは、全部嘘っぱちだったのか!?」
「間違えんなよ、シドウ。私は間違ったことは一つも言っていない。ただ……」
ウィラの表情が三日月のように歪んだ。
心底の恐怖を想起させる表情に。
「ちょっとだけ言っていなかったことがある。ただそれだけだよ」
パチン、とウィラが指を鳴らすと、ブラックドラゴンが信さんとクロードさんに飛びかかって来た。ひとかどの実力の持ち主である、二人は対応に力を割かざるを得ない。いつかと同じように、俺とウィラは向き合った。
あの時とは違うシチュエーションで。
「私はお前にフェイバーを倒してほしかった。
その理由は、こいつを手に入れるためさ」
彼女の掌に、先ほど現れた漆黒の正多面体が現れた。
見ていると吸い込まれそうだ。
「フェイバー=グラスが作り出した隔絶空間。
この世界を構成する理を収めた場所。
これを手に入れるためには、あいつをぶっ倒さなきゃならなかった。
だが、より上位の『管理者』権限を持つ人間に私は太刀打ち出来ない。
だから必要だったのさ、ありとあらゆる干渉を跳ね除けることが出来る代わりに加護も受けない『部外者』が」
「俺の力を使って、それを手に入れて! それでお前は何をするつもりだ!?」
「そりゃあもちろん決まってるだろう。
壊すんだよ、この世界を。完膚なきまでにな」
ウィラは背筋も凍るほど朗らかな笑顔でそう言った。
『ちょっと買い物に行ってくる』。
そんな気軽さで彼女は、この世界を滅ぼすと宣言したのだ。
「どうして……お前、言ったじゃねえか。この世界を、守ってくれ、って……」
「悪いな、シドウ。間違いはないが、ウソをつくことはあるのさ。お前の欲望を、誰かを守りたいっていう善意を刺激してやるためには、そうするしかなかったんだよ」
俺の心を弄んだのか、この女。
ああいえば俺がホイホイ誘われるがままに動くと思って!
実際そのまんまに動いちまったからこそ怒りがこみあげて来る!
「そんなことをさせると思ってんのか、ウィラ! 世界のために消滅した俺がッ!」
「いんや全然思っちゃいないよ。だからさぁ、シドウ。
返してもらうぜ、あんたの全部」
構えを作った俺の体から、力が急速に失われて行く。
膝から崩れ落ち、頭から地面に激突するが、まるで痛くない。
全身の感覚がなくなっていくのが分かる。
それどころか体温がどんどん低下していき、心臓の鼓動も弱まっている。
死が、近付いて来た。
「マジなことを言ったらお前が逆らうのは想定済みさ。だから、私は本当のことを話せなかったし、あんたのことをただの傀儡にも出来なかった。私とこの世界との間にリンクが出来上がっちまうし、何よりもそんなものに仲間は集まらねえだろうからな。
私が必要としていたのはな、シドウ。誰よりもまっすぐで、誰よりも誠実で、他人が傷つくくらいなら自分が傷つくって、そんなことが素面で言えるようなヒーローだったんだ。あんたがそんな人間だったからこそ、あんたはフェイバーを打ち破ることが出来たんだ」
「ウィ、ラ……お前、俺にいったい、何をしやがった……!?」
「でもそんな人間が邪魔になることは分かり切っていた。
だから選んだんだよ、死人を」
死人。俺のこと。
そうだ、俺は、他のみんなと違って――死んでこっちに来た。
「死人がどうして生きているかって?
あんたのことを私が生かしてやったからさ。
だから言っただろう、シドウ。『お前は死なない』って。
私が死なせてやらなかったのさ。
お前の魂をかりそめの器に入れ込み、生かしてやったんだ。
でもその必要はなくなった」
死の感覚。
俺がこの世界から消えて行く感覚。
二度と味わいたくなかった思い。
「死ぬ前に教えておいてやるよ、シドウ。私が何をしようとしているのか」
ウィラの持つ正多面体が光を放った。すると、地面が揺れた。俺自身は揺れを感じることは出来なかったが、先ほどの戦闘で破壊された柱や壁から石片がいくつも落ちた。単なる地震ではない、グランベルクを囲む湖も揺れている。かと思うと、その水面がいきなり盛り上がった。桟橋が勢いに耐え切れず破砕され、無残な残骸を晒す。
そこに現れたのは、塔。
ルーン文字めいた不可思議に明滅する文様が描かれた塔が、何の前触れもなくそこに現れたのだ。いったいこれは、どうなっている?
「グランベルクの湖面の下に沈んでいたのはな、私たちの世界さ。
空間を圧縮し、私たちの研究棟だけはああして保存していたんだ。
あそこに何があると思う?
この世界のすべてがある。
環境、時間、空間。すべてをあそこで集中管理しているんだよ」
そんなものが破壊されれば、この世界は文字通り滅んでしまうだろう。
「バカ、め……ウィラ。
私が、あんな危険なものをそのまま放っておくとでも……!?」
「放ってはおかないだろうねぇ。
パスコードの変更に警備システムの拡充、色々なことをやっているだろう。
だがね、フェイバー。その程度突破出来ないと思っているのか?」
悪辣な笑みを浮かべたまま、ウィラは振り返った。
俺のことなど無視したまま。
「必ずや私はこの世界を破滅させる。
お前の作り出した偽りの楽園を滅ぼしてみせる」
「私も、この世界には飽き飽きしていたところだ。
不必要なものが多すぎる……
特に、お前たちのようなバグは、私がこの世界から完全に消滅させてやるッ……!」
そう言って、フェイバーは消えた。霞のように。
ウィラはふん、と鼻を鳴らした。
「一人で何が出来るというんだ、孤独な神様。お前は塔に辿り着くことも出来ない」
数百年分の感情を込めて、ウィラは吐き捨てた。
そして、俺の方に向き直った。
「放っておいて悪かったな、シドウ。ちと苦しめちまったかな? だが安心しておいてくれよ、私はお前に借りがあるんだ。苦しめて殺すような真似はしないから――」
そこまで言って彼女は気付いたようだ。
俺の闘志は、まだ萎えていないということに。
「そんな目で私を見るなよ、シドウ。まだ何か出来る気でいるのかな?」
「出来るかどうかなんて、知らねえよ……
だが、まだ、やってみてもいねえんだ……!」
「分からないなぁ、キミは死のうとしているんだよ?
一度存在消滅を経験したキミならばいまのヤバさが分かるだろう。
足掻いたって、奇跡が起きたって生きられやしない」
「ハッ……!
上から見下ろしてたワリには、俺の諦めの悪さが分かってねえようだな!
教えてやるよ、ウィラ。俺は、最期の瞬間まで絶対に諦めねえ……!」
出来るかどうかなんて分からない。
やってどうなるかなんて知ったことか。
だが何も試さないうちから諦めて、唯々諾々と死を受け入れることは出来ない!
「ならば終わらせてやるよ、シドウ。ご苦労だったね。ありがとう」
情感たっぷりに、ウィラは言った。
次の瞬間、胸が締め付けられるような痛みが襲い掛かって来た。
心臓が止まったのだと気付くのに、少し時間を要した。
死のうとしている。俺の体が。