二十年目の破局、そして
僕はいつものように目を覚ました。
また眠れなかったのだ、窓さえも開けられないこの牢獄のような部屋は息苦しい。
だから、こうして夜中に目を覚ましてしまうのだ。
いつも通り立ち上がり、いつも通り廊下を通って外に。
けれども、厨房の辺りに辿り着いた時で、いつもとは違うことがあった。
厨房の中から音がしたのだ。それから悲鳴も。
いつも世話をしてくれるメイドの声だ。何かあったのだろうか?
覗き見ると、若い執事がメイドに覆い被さっていた。
声を上げそうになったが、何とか我慢した。
何をしているんだろう、そんなことを考えているうちに飛沫が上がった。
メイドの足ががくがくと痙攣する。執事はそんな彼女の状態に目もくれないまま、その首筋にむしゃぶりついていた。喰っている、人を。立ち尽くしてしまった。
すぐ横にあった扉が勢いよく開き、そこから老執事が飛び出して来た。その背中に、メイドがのしかかった。今度はさっきとは逆、メイドが執事の肉を食っていた。
僕は絶叫を上げ、走り出した。どこをどう走ったのか、覚えていない。
見知った屋敷がまるで知らない迷路のようだった。
父さんはどこ? 母さんは? 無事でいるの、それとも?
もし無事でいるなら、助けて下さい。僕は恥知らずにもそう願ってしまった。
前方、星灯りに照らされた曲がり角の向こう側から影が伸びて来た。人がいるのかも、と思ったけれども腰を曲げ、獲物を探るように左右を見る姿はとても正気の人間とは思えなかった。背後からも足音が響いて来る。
僕は思わず近くにあった扉に飛び込んだ。
埃っぽい臭いの充満する物置だった。
思わずむせてしまうけれど、強いてそれを止めようとした。
呼吸をすればあの化け物たちが来てしまうかもしれないと思った。
しゃがみ込むと、僕の目に不思議な光が飛び込んで来た。
石畳の隙間から光が漏れ出てきているのだ。でも、階段はない。好奇心を刺激され、探ってみると、そこは隠し扉になっていた。生まれてこの方この屋敷で暮らしているけれど、こんなものがあるとは知らなかった。扉の下には階段が伸びている。
母さんはこのことを知っていたのだろうか。
この屋敷に、僕と同じように生まれてからずっといるという母さんは。
ごくりと生唾を飲み込み、僕は階段の下へと降りて行った。少なくとも化け物がいる気配は感じない。二十段くらいの階段を下りて行くと開けた空間に降り立った。そこは、僕が想像していた場所とはまるで違う場所だった。
床一面に生臭いのする赤い絵の具で描かれた魔法陣があった。中心の五芒星を取り囲むように二重の円が描かれており、その内側には僕の読めない、ミミズがのたうち回ったような字がいくつも描かれていた。どういうものかは分からないけれど、本能的にそれがよくないものだと僕には分かった。見ていると気分が悪くなってくる。
一歩前に踏み出した僕は何かを蹴ってしまった。
カランと言う音を立てて魔法陣の真ん中に乗ったのは金の指輪だった。
あれは、父さんが着けていたものだ。
僕の中で感情が弾ける。そうか、ここにいたのは父さんだったんだ。
じゃあ、上の惨状は父さんが作ったものなのか?
母さんを不幸にして、それでも飽き足らず、父さんは!
僕の中で殺意が弾けた。僕の中で醸成されていた殺意が。辺りを見回すと、短刀があった。先端は汚れているけれど、鈍い輝きを放っており、切れ味の鋭さを物語っているようだった。僕はそれを手に取ると、勢いよく階段を昇って行った。扉の外を見回し、誰もいないことを確認して外に出る。父さんはどこにいる?
この手で終わらせなければ。
それが息子である、僕がやらなきゃいけないことだ。
◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆
大村さんを追いかけなければ。そう思うがどこに行ったのかが分からない。
カーペットに足跡が残っていないか、と無駄な期待を抱くものの、そんなものはなかった。取り敢えず上階のエントランスに気配はなかったので、右手にあった通路を進むことにした。俺たちがムーランさんに招かれ、食堂まで通された時に使った道だ。
扉を開くと、胸がむかつくような臭いが俺の鼻孔を貫いた。見るまでもない、通路の端々に転がった死体が放つ臭いだ。強烈な死臭に顔をしかめながら、俺は進んで行く。生きているものは誰もいない、死体の中には俺たちに応対したものも含まれていた。
進んでいると、甲高い音が聞こえて来た。
金属の皿をひっくり返すような音と、男の悲鳴だ。
悲鳴の方には聞き覚えがあったので、俺はそちらに向かった。
食堂の扉は開け放たれており、そこで一人の男がテーブルに押し付けられていた。
狂暴なゾンビに組み敷かれているのは、カノン=オオムラその人だった。
どうなっている?
困惑するが、それは本人に聞いてみればいいことだ。
俺はゾンビを横合いから蹴り付けた。
カノンの方に気を取られていたゾンビはあっさりと俺に蹴り倒された。
自由を取り戻したカノンはゾンビの首筋に持っていた剣を突き立てた。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ……! どうだ、化け物め。私の勝ちだ……!」
カノンはしばらくの間ゾンビを見下ろし、数秒後俺の方に向き直って来た。
「助かった。感謝するぞ、冒険者。だが、どうしてお前がここにいるんだ?」
「それ以上近付くな。この距離だ、この距離を保って話をするぞ。いいな」
俺はカノンを睨み付け、近付いて来ようとする男を牽制した。
「なにを言っている、お前。私が誰だか、分かっていての狼藉か?」
「白々しいこと言うんじゃねえよ。
あんただろ、この屋敷に化け物を呼び出したのは!」
カノンは俺の叩きつけた言葉を聞いてもなお、キョトンとした表情を浮かべていた。
「何を言っている。もし私がこいつらを呼び出したなら襲われるような間抜けはしない」
確かにその通りだ。この化け物が制御不能なものなのかもしれないが、もしそうなら自分のいるところで呼び出すような、それこそ間抜けなことはしないだろう。だが、油断することは出来ない。そうすることで追及から逃れようとしているのかもしれない。
「あんたは化け物を操り、疎んでいたムーランさんを亡きものにしようとした。
違うか」
「違う! そんなことを私がするものか! 私は妻を愛している!
一目惚れだったんだ!
彼女の姿を一目見た時から、私は彼女に心を囚われてしまったんだッ!」
その言葉だけは必死になってカノンは否定した。
その目にウソはなさそうだった。
「……疎んでんじゃないのか? 本当に?」
「どんなことを聞いたのかは知らんが私は彼女のことを愛している。
領地視察だって彼女の方から行って来たんだ。
ここのところ処理すべき案件が多く、中々地方のことまで手が回らなかったんだ。
そこで彼女が私に提案して来たんだ、代わりに所領を見て来ようと。
まさかあんなことになるとは、思ってもみなかった。本当だ!」
「……あんたが若い娘にかまかけて、奥さんのことを邪魔に思っていたと聞いた」
「そんなことはない!
私が屋敷に女性を呼ぶのは周辺諸国からの視察があった時だけだ!
誓って彼女たちと床を共にしたりはしていない」
どういうことだ? 俺が余所者だと思って舐めているのか?
もしそうだとしても、どうして周囲の評価とこれだけ話が食い違う?
俺の中で別の可能性が浮上して来た。
そんな時、悲鳴が屋敷の中に響き渡った。
聞き覚えのある悲鳴、ムーランさんのだ。
「はっ……ムーラン! この声はムーラン! 近くにいるのか、ムーラン!」
「あっ……! 待て、行っちゃダメだカノンさんッ!」
カノンさんには俺の制止などまるで聞こえていなかった。
彼は弾かれたように駆け出し、食堂から出て行った。
舌打ちし、彼を追おうとしたが出た段階でゾンビが横合いから飛び込んで来た。
予想外の一撃に押し倒され、カノンさんを見失う。
「こ、の……クソゾンビ野郎! 邪魔すんじゃねえよ!」
どす黒い液体を撒き散らす怪物の側頭部に転がった皿を叩きつけた。
破片が俺の上に降り注ぎ、ゾンビが倒れる。
念入りに頸椎をへし折り、止めを刺す。
立ち上がり、振り返って見るとそこにはもうカノンさんはいなかった。
どこに行った?
声のした方向は西側だったはずだ。となると、この扉の反対側にあった通路か?
それを証明するように、広間へと続く扉は開け放たれていた。
追いかけなければ、手遅れにならないうちに! 俺は走り出した!
すぐにカノンさんは見つかった。それに、ムーランさんも。ムーランさんはゾンビに囲まれてへたり込んでいる。カノンさんは叫びながらゾンビたちを切り倒し、ムーランさんを抱え起こした。いけない、このままでは!
「ムーラン、ムーラン! 大丈夫か、怪我はないか!? 私が分かるかッ」
「ああ……ああ、カノン! 会いたかった、ずっと、ずっとこの時を……」
ランプの明かりだけが薄暗い通路を照らしていた。
だがそれは、はっきりと見えた。
カノンさんの背中から突き出した鈍く輝く刃は。
痛みにカノンさんが呻き、たたらを踏んだ。
踏ん張ろうとして他を伸ばした彼は、ランプを載せていた台を掴もうとした。
だが飾り布を掴んでしまい、思い切り引き抜いてしまう。
ランプが転がり、割れ落ちた。
「なぜだ、ムーラン。なぜ、私を……こんな、こんなことを……!」
「ずっと、ずっと待っていたわ。この時を。父と母の復讐を遂げる、この時を!」
ムーランさんは狂気の笑みを浮かべた。
ゆっくりとゾンビたちがカノンさんの方に向かって行く。
確信した、《ナイトメアの軍勢》を呼び出したのは彼女だったのだ。
「私は、お前を愛した。不自由ない暮らしを、いや、幸せを約束した! なのに!」
「一人よがりな幸せを振り回される私の気持ちが、あなたには分かるかしら?
憎い相手と暮らす七年間がどれほど辛いものか、あなたには分かる?
情けと寵愛で生き残った売女と罵られることが!
仇を前に何も出来ない無力さがッ!」
ムーランさんは手に持った短刀を振り上げ、カノンさんに向かって行く。
いけない! 俺は弾かれたように駆け出し、ゾンビを振り払った。
彼の体を掴もうとしていたゾンビが離れて行く。
ムーランさんは俺を無視し、カノンさんの肩に刃を突き立てた。
「いま父と母と聖霊の無念は晴らされる。死ね! カノン=オオムラ! 死ね!」
そこから先の出来事は、一瞬のうちに起こった。
ムーランさんの背後で扉が勢いよく開いた。
ムーランさんは襲撃者を警戒したのか、そちらに振り返った。
カノンさんはそこに隙を見出し、握ってた剣をムーランさんの腹に突き立てた。
鮮血が辺りに舞い飛ぶ。
「……おかあ、さま? お母さまッ!?」
扉から出て来たのは赤毛の少年だった。
彼は背中から刃の突き出た母親を見て、何を思ったのだろう。
振り返った彼女は、何を見たのだろう?
それはもう誰にも分からない。
それを語るものは一人としていないのだから。
ムーランさんは力なく倒れ、カノンさんに胸に落ちて来た。
その重みに耐え切れず、カノンさんは呻き声を上げた。
「ころ、したの? 母様を……母様を、お前はッ!」
大村少年は憎悪に満ちた瞳でカノンさんを見た。両目からは止めどなく涙がこぼれ落ちる。カノンさんは何かを言おうとした、だが痛みに呻き言葉を発することは出来なかった。ランプから漏れ出た油が彼の衣服を濡らし、炎が彼の身を焼いた。
大村少年はその光景を、見た。両親が燃やされるその姿を。泣き叫び、そして反転し走り出した。ムーランさんが動きを止めるのと同時に、ゾンビたちも糸の切れた人形のように動きを止めた。俺はカノンさんに駆け寄り、彼を炎から逃がした。
「しっかりして下さい、カノンさん! 傷は、傷はまだきっと浅いッ……!」
肩から入った鋭利な刃は、恐らく彼の心臓を傷つけていた。
彼が常人であるのならば、恐らく助からない。
だがそれでも、俺はカノンさんを励ました。
「だい、じょうぶだ。分かっている、このまま、私は、死ぬんだろう……?」
「そんなことはない、死なない! 大丈夫だ! 意識をしっかり保て、ダメだ!」
「当然の、報いだ。
国を滅ぼし、その姫君を寝取った男の末路など、このようなものが、相応しい……
彼女にも、愛する人がいた。生まれ育った、国土があった。
それを踏みにじったのは、私だ。
そんな私が、彼女から、愛を受けようなどと……!」
カノンさんは咳き込んだ。
因果応報、そうなのかもしれない。
だがこれはあまりにもあんまりなのではないか?
それほど大きくない悪意の報いが、これか?
俺たちの背後に、人影が一つ現れた。
息を切らし、それはカノンさんの傍らに座り込んだ。
大村真、その人だ。大村さんはカノンさんの手を取った。
「あの時、の、青年か。すまん、な。手を、放したくなかった、が……」
「俺は、俺は……」
どんな気持ちなのだろう。
いままで憎んでい相手が、母親を殺したと思っていた男が、自分の未来を蹂躙したと思っていた男が、目の前で死のうとしているのは。彼は現状を見て、すべてを理解していたのだろう。記憶に誤りはなかった、だが知らないことはあった。
カノンさんがここで死にかけていることを、大村さんは知らなかった。
「私は、ここで、終わりだ。だが、一つ、頼まれてはくれないか? 息子の、ことを」
「ふざけんなよ……自分で何とかしろよ、あんたたちがひり出したんだぞ!
最後まで責任持てよ、こんな!
こんなこと、あっていいはずがねえだろうが……!?」
大村さんは恨み言をぶちまけた。
それは、二十年間口にすることが出来なかった思い。
カノンさんは困ったような表情を浮かべ、大村さんの言葉に答えた。
「すまない、本当に、すまない。だが、私にはもう、こうするしか……」
言葉の途中でカノンさんの手が落ちた。
燃える炎の音だけが空間に響き渡った。
「そんなの、ふざけんなよ。こんな、こんなのってありかよ……とう、さん……」
大村さんは涙を流した。二十年間、流すことの出来なかった涙を。
「どうしてこうなったのかを、僕は知りたいんだ」
低い声が聞こえて来た。
俺はそちらを見て、立ち上がった。
そこにいるのは、大村少年。
だが、それは姿形だけだ。
中身はまるで別物、すなわち怪物だ。
「……なぜ俺たちをこの世界に呼び寄せた。いったい何が目的なんだ、お前は!」
「僕は知りたいだけなんだ。人間というものを。どうして彼らがこうなったのかを」
大村少年は感情の籠もらない瞳をカノンさんとムーランさんの亡骸に向けた。
「男は水準以上に人を愛していたはずだ。
女は水準以上に『幸福な』生活を送っていたはずだ。
それなのに、破局してしまった。
どうしてなのか、僕には分からないんだ。
人にとって人を愛することは至上の幸せなのではないのか?
人にとって他人より優れていることは無上の喜びではないのか?
僕は知らない、それがどういうものなのかを」
少年の緑色の瞳が、漆黒に染まった。
彼の体が、闇に包まれる。否、闇を放つ。
「僕はそれが知りたい。
観察ではこれ以上の成果を得ることが出来ないと判断した。
だから僕は他者を必要とした。
人間を知る人間が僕にとって必要だったから、呼んだ」
少年の体が膨れ上がり、黒いドラゴンとなった。
狂暴な牙と殺意に満ちた目、鎧を思わせる硬質な皮膚と屈強な体格。
背中にはコウモリのような翼を生やし、肩口からはヤギのような捻じくれた角が生えている。両手足の鋭い爪が威圧的に輝いた。
「教えてくれ、どうして彼らは破局したんだ? 僕にはそれが分からない」
「幸せを秤で計ることなんて出来ない。
人にとっての幸せは、その人の中にしかないものだ。
誰にも肯定することも、否定することも出来ない。
自分で掴むしかないものだ!」
俺はカードを取り出した。
こいつを倒さなければならない、絶対に。
「誰にも他人を幸せにさせることは出来ない。
けど、不幸にさせることは出来る……!」
大村さんは涙を拭い、立ち上がった。
《フォースドライバー》を手に持ちながら。
「お前は……お前だけは許さない! みんなの仇は、俺が討ってやる!」
「僕はただ呼び出されただけだ。そして、彼女の意志に呼応しただけ。それだけだ」
「罪を罪とも思わなきゃいいなんて、そんなことはあるか!
お前はやっちゃいけないことをやった!
そして、それを興味本位で何度も繰り返した!
人の心の傷を抉るような真似を!
やっちゃいけねえことをやったんだ、その報いは受けてもらう!」
俺はバックルを展開し、大村さんは《フォースドライバー》を腰に巻き付けた。
「行くぜ、シドウ。力を貸しやがれ……」
「ああ、分かってるよ大村さん。こいつを倒して、こっから出よう」
「変ッ……!」「身ッ!」
俺たちは同時に変身した。
俺たちの体が光に包まれると同時に、漆黒のドラゴンは走り出した。
俺たちも動く、ここから抜け出すために!