エピローグ:世界を救うは何者か
天十字黒星は爆発四散した。
意外なことに、彼の体そのものは原形を保っていた。断たれたのも、爆散したのも、《ダークドライバー》が作り出した装甲だけだったのだろうか? 大した安全機構だが、しかし彼も無傷とは言えないようだった。
全身にはいくつもの裂傷があり、服で隠れていない素肌の部分には青あざがある。恐らく内臓も腹の方も酷いことになっているだろう。かろうじで立っていた天十字だが、それも一秒かそこらのこと。彼は膝から倒れた。
その腰から《ダークドライバー》が滑り落ちた。銀月剣シルバークレッセントによって切断されたドライバーは、地面に落ちると同時に小爆発を起こし、この世界から消えた。天十字は完全に崩れ折れた。
「っしゃあ! やった、やりましたよ! 信さん!」
「ああ、お前たちのおかげでどうにかなった。その、感謝しているよ。本当にな」
信さんは照れくさそうに言うと、ドライバーに鍵をかけ直した。
彼の体を包み込んでいた装甲が光とともに消え去る。
同時に、俺も変身時間の限界を迎えた。
「ようやく終わったな、天十字。俺と、お前との因縁ってやつがな」
信さんは倒れた天十字の方にゆっくりと歩いた。
手を突き、天十字は上体を起こした。
「ふ、フフフ。園崎くん、完敗だよ。
まさか、キミがこんな、力を持っているとは……」
「しおらしさの真似事はよせ、天十字。本音が透けて見えるからな」
「……ああ、よく分かっているようだね園崎くん!
まったくふざけた奴だよ、キミは!
キミは、私の劣化存在であるというのに!
こんなことはおかしいぞ、有り得ない!」
天十字は憎悪を込めた瞳で信さんの方を見た。
彼と信さんとの間にどんな因縁があるのか、俺には分からない。
けれども、俺にも分かることが一つだけある。
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、おっさん!
信さんはテメーなんかより強い!」
「皮肉屋で多少屈折しちゃいますが、それでもあなたのように無暗矢鱈に他人を見下すような人間じゃあない。そういう意味では、あなたよりも好感が持てる人ですよ」
結局のところ、そういうものなのだ。
人間、一人では生きていけないし、誰よりも優れた人間なんて存在しない。
ただ人より少しだけ優れた部分を持っている人間が存在しているだけで、人々はその優れた部分を持ち寄って生きて来た。天十字には、それが分からなかった。この世の王を目指す男には、他人の良さが分からなかったのだ。
「天十字、なぜ貴様が『真帝国』の傘下に入った?
他人に傅くなど、お前がもっとも嫌うことだ。
そんなお前がどうして、『真帝国』に従う気になったんだ?」
信さんは天十字と視線を合わせ、彼に問いかけた。一番嫌う人間の質問に、彼は答えてくれるだろうか? そんなことをふと思ってしまうが、意外にも天十字はあっさりとそれに答えてくれた。皮肉気で、嘲るような色合いは消さないままだったが。
「味わったからさ、恐怖をな」
「恐怖だと……?」
「己がすべてを賭けても敵わないという恐怖を味わった。
屈辱的だったさ、分かるだろう? だから私は虎視眈々と牙を磨いた。
神の血と肉、その両方を合わせなければ奴には勝てないと思った。
奴の寝首を掻き、この世界を手に入れるため、私は首を垂れた!」
これほどの力を持つ男でも、叶わない奴がいる。
それはいったい、誰なんだ?
「教えてください、天十字さん。その男の名前を」
何かを言おうとした。だが、言えなかった。
彼の体が闇に囚われたからだ。崩壊した《ダークドライバー》からにじみ出た闇が、天十字の体をじわじわと浸食していった。
「し、信さん! これは、いったい……!?」
「《ダークドライバー》は俺の持つドライバーと違って、リミッターが設定されていない。通常使う程度ならば問題がないからだ。だが、死した神の力を使う以上、その身は常に神の死に引っ張られて行く。《ダークドライバー》の使い手に、敗北は許されない。それすなわち、己の死へと繋がっていくからだ……」
神への供物。そんな言葉が俺の耳に過った。
天十字は苦し気に体を歪めるが、もはやどうしようもなかった。
俺たちに彼を助けることなど出来はしないのだ。
「ぐっ……えあああ! 痛い、寒い、苦しい! いや、だ! 死にたくない!」
「限界を超えた報いだ。神とともに死ね、天十字黒星。それが貴様の結末だ」
「ふざけるな! 私は、私は天十字黒星!
天に輝く神の印章、すなわち私こそが真なる神だ!
認められん、認められんぞ、こんなことは! 園崎ィーッ!」
この世へのありとあらゆる恨み言を吐き散らしながら、天十字黒星は闇の中に消えて行った。最後に伸ばされた手は、いったい何を掴もうとしていたのだろうか?
この世界か、それとも、自分を闇の縁から救い上げてくれる何かか。
いずれにしろ、その手が何を掴むこともなかった。
天十字の体が飲み込まれると同時に、闇もそこから消え去った。
後に残ったのは、ドライバーの破片だけだった。
天十字との戦いが終わると、あれほど騒がしかったのがウソのように静かになった。
周囲にはほとんど何もないのだろう、俺たち以外に動くものは見当たらなかった。
「信さん、まさかあんたがシルバスタだったなんて……」
「積もる話もいろいろあるが、まずはここから離れよう。ここは敵陣だからな」
「え、敵陣? もしかしてまだ戦争が終わってなかったとかそういう話なんですか?」
「いろいろ話すことがありますから、まずは落ち着ける場所まで行きましょう」
そう言ってクロードさんは歩き出した。
信さんはここを敵陣だと言っていたが、あまりに無防備だ。
その姿に信さんも困惑しているのか、俺と顔を見合わせてしまう。
「待て、クロード! あの四人を回収してからではないのか!」
「ご安心ください、みんな無事ですよ。とりあえず先の小屋に戻りましょうよ」
「ここに捕えられていたお前が、何でそれを知っているんだ! 待てクロード!」
信さんは怒鳴りながらクロードさんに続いて行った。
何が何やら、どうなっているのかまるで分からない。
とりあえず、着いて行くしかないようだが。俺も歩き出した。
歩きながら、俺はここ数カ月で起こったことをクロードさんから聞いた。
『真帝国』の誕生、時間の齟齬、追われる身となったこと。
俺がいなくなっている間に、世界は姿を変えてしまったようだった。
唸るしかない、まったくどうなっているのか。
「でも、どうしてクロードさんはその意識改変とやらの影響を受けていないんです?」
「さあ、どういうことでしょうか。ま、この身の幸運か不運に感謝しなければ」
俺の場合はウィラがなんかしたということくらいは分かるが、クロードさんはどうなのだろう? 謎だ。とりあえずこの人が敵に回らなくてよかった、と思うが。
しばらく歩いていると、俺たちは渓谷の中腹辺りまで辿り着いた。周辺は砂漠だがこの辺りにはまだ緑があり、数人の旅人が泊まれるくらいの小さな小屋があった。
「あそこでみんな待っているはずだ、行くぞ」
クロードさんと信さんは迷わず小屋に進んで行く。
俺も慌ててそれに続いた。
「あら、お帰りなさいませ。クロードさん、それに園崎さん」
小屋の中にいたのはリンド、エリン、アリカ、そして楠さんの四人。
「おかげさまで生還することが出来ました。これも皆さんのおかげですよ」
クロードさんはにこりと微笑み、体を半歩横にずらした。
俺の通る道を開けてくれたのだろう、そこにするりと入り込む。
四人の視線が俺に突き刺さった。
「えーっと、どうもこんばんは。みんな、元気にしてたかなー?」
視線があまりに痛い。
と言うか、リンドなどには『俺消えるから後よろしくね』とか言ってしまった手前、おめおめと帰ってくるのが凄く恥ずかしい。みんな言葉もない、俺が戻ってくるとは考えてもいなかったのだろう。二の句を次ごうとした、その時だ。
「シドウさん! 生きて、生きて帰って来て、下さったんですね……!」
リンドが俺に抱き着いて来た。
涙声を聞いていると心がジクジクと痛む。
「テメー、帰ってくるって言ってたでしょうが! 遅いんですよ、アホ!」
続けて、胸板に蹴りが叩き込まれた。思っていたよりも重く鋭い蹴りに、俺は倒れ込んでしまう。背中から地面に叩きつけられ、マウントポジションを取られる。
「リンドから聞きましたよ。消えるって分かってたんでしょ、あんた」
「えーっと、はい。嫌でも、消えたけどまた戻ってきたんで、ノーカンということに」
「ならねーに決まってんでしょうが! この、ド低能がッ!」
右と左が交互に頬を打った。痛いし苦しいし酷いことになっているのは分かるが、しかし跳ね除ける気にもならない。これは俺の不徳が招いた事態なのだから。
「お帰りなさい、シドウさん。ボクも、またあなたと会えてうれしいですよ」
「そう言ってくれるのもそれだけで済ませてくれるのもお前だけだよ、エリン」
鳴き声は響くし顔面は痛いしで、小屋の中は大分カオスな状態になっていた。どうにかならないかな、と思ったがどうにもならないだろうな、とも思った。
「おら、ガキども。嬉しいのもムカついてんのも分かったら、ちょっと落ち着け」
見かねた楠さんが子供たちを叱った。取り敢えずアリカは俺を殴るのを止めてくれたし、リンドは泣き止んでくれた。これで落ち着いて話をすることが出来る。
と、そこで俺は小屋の片隅に一人の男がいることに気付いた。
フードを被ってはいるが、ぼんやりと照らされた輪郭には見覚えがあった。
大村真、『帝国』騎士。
「お前、確か追跡隊の隊長だな……どうしてお前が、こんなところにいる?」
信さんにも状況が理解できていないようで、彼は即座に戦闘態勢を取った。
そんな信さんをクロードさんはなだめる。大村さんも息を吐いた。
「彼は『真帝国』側の内通者の一人です。とりあえず、味方と思ってくれていい」
「お前の味方になった覚えはないがな、クロード。だがその方が都合がいい」
相変わらずつんけんした態度だが、敵意はないようだ。
それにしても大村さんが『真帝国』とやらを裏切りこちらについてくれるとは。分からないこともあるものだ、大村さんと言えば『帝国』一筋、理念のために命を賭けます、と言う人だったはずなのに。
「なぜこの男がここにいるのか、そのあたりも含めて説明してもらうぞ」
「分かりました。『真帝国』騎士団長、天十字黒星を倒したことで、少しは時間が稼げたはずです。ですので、状況を説明する時間くらいは稼げたと思います」
そう言って、クロードさんは腰を下ろした。俺たちもそれに倣い座った。俺に寄りかかるようにしてリンド、アリカが隣を固めて来るので、少し落ち着かない。
「それにしてもシドウ、お前どうやってここに戻って来たんだよ?」
「話すと長くなるんですけど……それに、信じてもらえるかどうか」
少し悩んでから、俺はあの空間で起こったことを話した。
消滅した俺をウィラと名乗る女が再生してくれたこと。
《エル=ファドレ》の成り立ちと『管理者』。
『聖遺物』と《エクスグラスパー》の関係性。
そして世界を裏から操る『奴』の存在。
多分信じてくれないだろうな、と思って話したのだが、意外にもみんな真面目に聞いてくれていたようだ。クロードさん辺りは考え込むような仕草をしている。
「あんまりよく覚えてないんで、何もかも夢かもしれないんですけど……」
「夢であるならば、キミはこうしてここにはいないでしょう。
キミが消滅の縁から蘇り、僕たちのところに戻ってきてくれたこと。
それが真実の証明ですよ」
リンドは俺の手をぎゅっと握って来た。
消滅の瞬間を、この子は見ていた。
だからこそ、俺の話を信じてくれているのだろう。
もう二度と、この手を放したくはない。
「次はあんたの番だぜ、クロード。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「僕がすべてを知っていて、それを隠しているとでも言うんですか? 失敬な」
クロードさんは拗ねたように口を尖らせるが、追及の手は弱まりそうもなかった。
「いまから思い返してみると、あんたには不自然なところが多くあり過ぎる。
あんたはどうしてアリカ皇女暗殺を察知出来た?
なぜ『聖遺物』回収にこだわる?
そして何より、あんたや私たちはどうして意識改変の影響を受けない?
お前は何を知っている?」
羅列してみると確かに怪しさ満点だった。
胡散臭い人だとは思っていたがこれほどとは。
クロードさんは観念したように手を振り、そして話し始めた。
「分かりました、そろそろ潮時でしょう。
皆さんに危険が及ぶと思って話さないようにしていましたが、それも限界だ。
むしろ、知らないことがリスクとなってしまうでしょう」
「やっぱりあんた、これまで起こって来たことについて何か知っているんだな?」
「先に断っておきますけど、僕はすべてを知っているわけじゃありません。
僕が知っているのは、この世界に来た段階で教えられたことだけ。
未来のことは知りません」
その声からはありありと苦渋の色を見ることが出来た。
クロードさんもクロードさんで、悩んでいたのだ。
何かを知るその身でも救えない世界のことを。
「何から始めたものか……そうですね。
いまシドウくんが語ってくれたようなことは、実は初めから知っていました。
すべて、聞かされていたんです」
「聞かされていた、つまりお前にそれを語った人間がいたということか」
「そうです。そしてシドウくん、僕とキミが出会ったのは決して偶然ではない」
思わずえ、と声を出してしまった。
この世界に来て、初めて出会った人間。
誰よりも頼りになるこの人との出会いが、偶然ではなかった?
「僕も依頼を受けていたんです、『管理者』ウィン=ラハティから。
世界の理を歪める『奴』を、必ずや排除してくれと。
そして、そのためにはキミの力が必要だということを。
だからこそ、キミと僕とは出会ったんですよ」
この人も、あの女と出会ったのだ。そして、託された。この世界の未来を。
だが、俺がこの世界を救う鍵とはいったいどういうことだ?
俺にそんな力があるはずはない。
もしあるというのならば、俺ももうちょっとまともに戦うことが出来たはずだ。
「キミの持つ力は望みを現実とする。
そしてそれは、無意識領域にも作用しているんです。
単純に言うならば、キミは施された意識改変を無効化出来る力を持っている」
「意識改変って言うと、あれですよね。『奴』が使っているっていう……」
だからこそ、『奴』はこのような歪んだ世界を作り出すことが出来ているのだ。
たった一人の少年だけが十年の時を過ごしているような、そんな無茶苦茶な世界が。
「だがおかしくはないか?
『奴』がこの世界を支配しているなら、そんな能力を許すはずがない。
そもそも、自分の支配に都合が悪くなるような力を与えるはずがない」
「ええ。シドウくんの力は『奴』が作ったわけではない。この力は悠久の時を隔絶空間で生き、《エル=ファドレ》の法則を知り尽くしたもの、ウィラが作ったものなんです」
「ウィラが生み出した《エクスグラスパー》……」
「この世界に存在する《エクスグラスパー》は、すべてが『奴』が作り出したものです。力を与えるも、奪うも自由自在。だからこそ天十字のような人物を従属させられたのでしょうが……しかし、シドウくん。キミは唯一違うんですよ」
クロードさんは俺を、正確には俺の身に秘められた力を指さした。
「キミの力は、この世界の神を殺す可能性を秘めているんです」
心臓が高鳴った。
不安で。
文字通り、俺の双肩にこの世界の命運がかけられたのだ。
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『真帝国』騎士団長、天十字黒星死す。
その報は速やかに上層部にもたらされた。
「そうか。彼には期待していたのだが、まあ仕方があるまい。襲撃者の方は?」
「その場から忽然と姿を消したとのこと。手引きをしたものがいるのやもしれません」
「そう言えば大村騎士が消えたそうだな。彼にも目をかけていたのだが、やれやれ。どうにも私には人を見る目がないようだ。情けを掛けた人間から嫌われて行く」
やれやれ、と頭を振るいながら二人は歩いた。
一人は『真帝国』皇帝付き参謀、フェイバー=グラス。
そしてもう一人は、城の雰囲気とはそぐわない男だった。
天を突く様な金のリーゼント、安いティアドロップタイプのサングラス。
両耳にはこれまた安っぽいピアスをいくつも付け、煙草を吹かしている。
黒い革製のライダーズジャケットを纏い、すべての指には指輪が嵌められている。
六十年代から七十年代の映画に登場する無軌道ライダーめいた出で立ちだ。
あからさまにまともではない。
「まあ、お任せ下さいよフェイバー様。我々の力を信じて、ね」
「諸君らの力は信じている。私が与えたのだ、成果を上げてもらわなければ困る」
ライダーズジャケットの男はクスクスと笑いながら、懐から一枚のカードを取り出した。金属質な光沢を放つカードには天使の翼が描かれている。
「お任せくださいな。『御使い』の力でちょちょいと済ませてやりますよ」
そう言って彼は分かれ道でフェイバーとは別の道を進んで行った。
その後ろ姿を見守り、フェイバーはまた歩き出した。
フォースの力を発展改修して作られた《エンズドライバー》、それを操る『御使い』の力は正しく未知数だ。必ずや敵を滅ぼしてくれるだろう。そうだとしても、フェイバーにはやるべきことがある。『真帝国』の実務のほとんどを担う男に、休んでいる暇などないのだ。
「フェイバー、報告を聞いた。騎士団長が敵にやられたそうだな」
部屋へと向かう彼を、背後から呼び止めるものがあった。
彼は恭しく頭を下げ、自らの主、すなわち花村彼方の放った質問に答えた。
「クイントス一行の仕業と見て間違いはないでしょう。
天十字を倒せるのは彼らだけだ」
「神の威光を理解しないものがいるとは悲しいな。
彼らはこちらに向かってくるだろう」
「はい。彼らは『聖遺物』を手にし、そしてそれを狙っていると思われます」
『真天十字会』との戦争を勝利に導く原動力となった『聖遺物』を奪い、国家転覆を図ること。それがクロードたちの目的だと『真帝国』では目されていた。
「事ここに至っては、私が直接出て行く必要があるのかもしれないな」
「ご冗談を、彼方様。あなた様が出向いて行けば『真帝国』の面目が立たない」
国民の多くは少年皇の伝説を信じている。
そして、それによって本当に救われた人間も決して少なくない。
花村彼方への支持は、単なる洗脳の結果だけではないのだ。
だが、だからこそ彼が動くことは好ましくない。そうフェイバーは思っていた。
「賊数名にあなた様が出向いたとなれば、『真帝国』の力そのものが疑われることになりましょう。騎士団による追跡は継続させています、そのようなお考えは捨てて下さい。腕一本、剣一つで生きて来た頃とは違う。あなたは帝国そのものなのですから」
「分かった、フェイバー。済まないな、軽率なことを言ってしまった」
彼方はフェイバーに対して素直に謝った。彼の持つ生来の素直さは、意識改変を受けたいまとなっても変わらない。変わっているのは、彼の中にかつての思い出がないことだ。世界を裏から操る存在によって、神聖皇帝伝説の妨げとなるものは抹消されている。
「しかし、この問題は私がケリを付けなければいけない。
何となくそんな気がするんだ」
「何をおっしゃる、彼方様。この程度の事柄にあなたがケリを付けなければならないのなら、我々がこの国ですべき仕事など何一つとしてなくなってしまいます」
「分かっている、フェイバー。何となくだ、何となく。そう言ってみただけ……」
彼方は寂しげな表情を浮かべ、自分の中に湧き上がって来た感情を押し殺した。
クロード=クイントス、その名を聞くと彼の心にさざ波が立った。
その理由が、彼には分からない。理由の分からない情動に、少しだけ彼方は苛立っていた。直接会えばその理由もわかるのかもしれないが、『真帝国』皇帝にそのような勝手は許されないのだ。
花村彼方は内に秘めた感情を出さぬまま、そこから去った。
彼方を見送るフェイバーを、更に後ろから見る影があった。
赤銅の戦士、ディスラプター。
何をするでもなく、彼はその場から去って行った。
静寂だけが空間に残った。