エル=ファドレの秘密:前編
味覚、触覚、嗅覚、聴覚、視覚の順に俺の感覚は失われて行った。
味覚が失われた。
最後に食った、粒々のクワの実みたいな果実の味が忘れられない。
甘みと酸味が程よいバランスで、戦争の真っ最中でなければいくらでも食べていたいくらいだった。配給に来たおばちゃんの話ではあれでタルトを作ったりしていたらしい。食いたかったなぁ。
次に、触覚が消えた。
二度とあの子に触れられない。消える瞬間に未練が増えた。
次に、嗅覚が消えた。
あの子の匂いを感じることが出来なくなった。
最後に、視覚が消えた。
二度とあの子を見ることが出来なくなってしまった。
人間、死ぬときだって後悔がなくなったりはしない。
捨て去ったあの日のことを、手に入らなかったもののことを思って、人は死ぬ。
後悔するからこそ、人間は悔いなく明日を生きたいと思えるのだろう。
消えることには納得していたはずだった。
でもだからこそ、最後にもう一度『間違い』があってもいいんじゃないだろうか?
「安心しろ、お前は死なないからさ」
急激に俺の感覚が戻って来た。
正確に言うならば、口の中の甘酸っぱさはなくなったが。
目を開くと、そこは満天の星空だった。そうとしか言いようがない、なぜなら俺の足元は既になく、どうしてそこに立っているのかさえも分からないからだ。
「ど、どうなってんだこれ? 俺、あそこで死んで、それで……」
この光景には見覚えがあった。最初に《エル=ファドレ》に来た時も、グラフェンで絶望に打ちひしがれていた時も、俺はここに来たことがある。だが、いったいどこだ? 辺りを見回してみても、ここがどこだか特定出来るものは一つもなかった。
「起きたか。上々、上々。まずは生還おめでとう、紫藤善一くん」
パチ、パチ、パチ。乾いた拍手の音が星空の世界に響いた。
音のした方向を見てみる。そこには、白衣を纏った小柄な女の子がいた。ショートボブの髪と大きなフレームの眼鏡をつけて、柔らかそうなソファにふんぞり返っている。誰だ、と問おうとして思い出す。
「お前、確かこっちに来た時にも見たよな。名前は、知らねえけど」
「ああ、教えてねえからな。まあ、お疲れ様と言っておこう。よく殺してくれた」
「お前はいったい何者なんだよ。死神様か? 俺、その、死んじまったからな……」
「間違えんなよ、紫藤善一。お前は死んだんじゃない、消滅したんだ。
あの世界にお前の情報はほんの一バイトたりとも残っちゃいない。
残ってるとすりゃ、お前が変えたものの記憶の中くらいのもんさ。
お前はあの瞬間消え去って、いなくなっちまったんだよ」
死ではなく、消滅。図らずしも三石の言った通りになったわけだ。
しかし、それでも俺はここに存在している。
それはいったいどういうことなのだろうか?
「気が遠くなるほど長い時間をかけて、私がお前を構成する情報を補完してやったんだ。大変だったんだぜ、消え行くお前の情報を拾い集めるのは。褒めたっていいぜ」
「拾い集めた……? 気が遠くなるほどの時間、って、どういう意味だよ?」
「ほんの百年くらい、お前を再構成するのに使っただけさ。別に気にしなくたっていい、この不連続空間は通常の時空と時間の流れが異なっているから、実時間換算すればそれほど長い時間じゃない。仮に元の世界に戻ってもそれほど齟齬はないだろうさ」
俺を生き帰すために百年も使ったというのか。
素直に感謝したいが、それにしてもこの女いったい何者なんだ?
いろいろなことを知っているようだが、どういう人間だ?
不連続空間っていったいなんだ?
と言うか、元の世界に帰っても齟齬はない、とこいつ言っていたような気がする。
「聞き間違えじゃなきゃ……俺は、元の世界に戻ることが出来るのか?」
「この不連続空間は色々なところに繋がっている。それはお前が元いた西暦二千十六年の世界だろうが、その前だろうが後だろうが、《エル=ファドレ》だろうが同じだ」
「全部終わったんだから、元の世界に帰るのが順当だと思うんだけど……」
女は指を一本立てて左右に振った。
『何も分かっちゃいないな』とでも言いたげだ。
「終わっちゃいないさ。
『真天十字会』なんぞがあの世界の脅威だと思っちゃいないか?
それは違うよ。ホントの戦いも、本当の恐怖も、ここから始まるんだ」
「《ナイトメアの軍勢》のことを言ってるのか?
でも、それはあの世界の人たちが」
女は俺の言葉を無視して指をパチン、と鳴らした。
彼女がふんぞり返っているソファの周りに床がいきなり現れた。
驚く俺の足元にもだ。俺が腰かけるのに丁度いい椅子も現れた。
座れ、ということだろうか?
俺は大人しくそっちの方に歩いて行った。
「ちょっと長くなるからな。
終わったって思うならそれはそれでいい、だがそれは違う。あの世界を覆っている歪みは、奴らのようにほんの数十年前から現れたものじゃない。あの世界が出来上がったその時から、もしかしたら蠢いていたのかもしれない」
「世界が生まれた時から、そこにあった……悪。
それは、いったいどういうことなんだ」
「長い話になるよ。休憩をしたければ言ってくれ。可能な限り善処するからさ」
女はニヤリと笑って言った。
それは考慮されない奴だよな、と思いながら俺は話を聞く姿勢を取った。
いずれにしろ、終わるまで解放してくれそうにはなかったからだ。
「さて、事の始まりはいまから六百年ほど前。西暦二千二百年代に遡る」
「遡るって言いながら思いっきり未来に話飛んだんだけどどーすんだよこれ」
「相対的に言って、ってことだよ。いまから見れば、あの場所は過去なんだ」
そう言って女は自分だけコーヒーを飲んだ。どこから出したんだ、こいつ?
と言うか、西暦二千二百年が過去ってどういうことだ?
聞き間違えじゃなかったら……
「気付いているみたいだな。
そう、いまはだいたい西暦二千八百年ってところだ。
正確なところは図ってないから分からないけどな、およそそれくらいってことだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺の時代から八百年は未来ってことだろ?
だったら何であんなファンタジックな世界なんだよ。
俺の時代にはあんな化け物いなかったぞ」
いや、正確に言うと化け物はいたけど、ゴブリンやオークはいなかったはずだ。
「話を最後まで聞いてからにした方がよかったな。
西暦二千二百年、世界は逼迫していた。
理由が知りたきゃ、お前の時代の歴史の教科書でも見てくれ。世界が滅びる時ってのは、だいたい理由が決まっているもんだ。鳴り物入りで登場した社会体制が時を経るごとに腐敗し、不満が醸成され、そして爆発する。あの時代もそんな感じだったそうだ」
人間は数百年間も生きてきて、まったく進化していなかったらしい。むしろ、俺の時代から二百年も社会体制を維持出来ていたのが奇跡的だったということか? ともかく、同じ滅びを遂げることになったらしい。未来のこととはいえ暗澹たる気持ちになる。
「国家という枠組みが解体され、世界は国際連合というもっとも力を持つ組織の傘下に入った。登場当初は先進的な枠組みだったが……まあ言わなくても分かってるよな?」
「つまるところ、他のところと同じように衰退の道を辿っていくことになるんですね?」
クロードさんや尾上さんが戦争の話をしていた気がする。概ね、彼女が語っていることと内容は合致しているように思える。不確かな記憶だけしかないのは不安だが。
「もちろん、政治体制の腐敗とそれに伴う社会混乱、そして崩壊を危惧している人間はその頃から存在していた。人間ってのは時間を経るごとに少しずつ学習していっているんだな。学習のスピードが遅いってツッコミは受け付けるぜ。
来たるべき社会の崩壊に備え、それを避ける、あるいはそこから迅速に体制を移行してくために、国際連合内に一つの組織が秘密裏に設立された。組織は理念の頭文字を取ってG3と呼ばれた」
あまり意味のよく分からないカタカナ語が羅列されたものだったんだろうな、ということは何となく分かる。国際連合の崩壊を暗喩するような組織がその内側に設立されたということは、当時の人間にとって滅びがそれほど身近なものだったということだろう。
「かなり空想的な研究もなされた。
絶対に崩壊しない社会体制の設立、人類洗脳による真なる世界秩序の建立、他色々。
色々あり過ぎたんで覚えていないんだが、ここで覚えておく必要があるのは一つだけだ。この頃、並行世界が発見された」
「並行世界って言うと、あれですか。俺たちの世界と似た別の世界って言う……」
「そう。分かってんな。まあ、サブカルでも大人気だから納得だ。
正確に言うと、並行世界の存在を立証する理論が確立されたんだ。当時はもてはやされたもんさ、並行世界に移動、ないしは並行世界から物資を調達する技術が完成すれば、世界全体を覆っていた食糧危機もエネルギー問題も人口問題も解決する。まさにウルトラCってやつだ」
いかに自分の世界がひっ迫しているとはいっても、同じような人間が住んでいる世界から簒奪してきたり、問題を押し付けるのはどうだろう。そう思ったが、そんなものは追い詰められていない人間の戯言なのかもしれない。本当に追い詰められたら、人間はどんなことだってやる。リチュエや美咲がやったように、他人に痛みを押し付ける。
「とはいえ、それは基礎理論だけで消えて行った。
肝心の並行世界へのアプローチが出来なかったんだ。
世間からはその理論は忘れ去られたが、G3は研究を続けたんだ」
「どうして? アプローチする方法がないんなら、そんなの宝の持ち腐れでしょう」
「アプローチする方法がなければな。だったら、見つければいいと当時は考えられた」
そこから研究はスタートしたのだが、やはり思うように進まなかったらしい。
問題になったのは時空間を隔てる壁のようなものであり、そこを飛び越して何かをすることが一切出来なかったのだ。
そうこうしている間に、百年くらいの時間が流れた。
「そんなこんなで研究を続けていたんだが、ここで新たな発見があった。並行世界には二種類が存在していた、ということが百年後になって初めて発見されたんだ」
「いきなり百年もぶっ飛ばすなんて、基礎研究ってやっぱり難しいんですね」
「話が分かんないからって理解することを拒否すんなよ。
便宜上、二つの並行世界は乙種と甲種と呼ばれることになった。従来確認されていた並行世界が乙種、新たに発見された世界が甲種だ。この二つの違いは、この世界と同一の時間軸にあるかということだ」
いきなり話が専門的になって来たぞ。
と言うか話に全体的について行けていない。
「乙種はこの世界とは時間の流れから物理法則、ありとあらゆるものが異なっている。まったく違うものに従来通りのアプローチを仕掛けたとしても、干渉出来ないのはある意味当然だった。
対して甲種はこちらの世界と同じ時間軸に存在する。列車の車両が違うような、そんな位置に存在する世界があった。そちらに対してはアプローチを仕掛け、実際に向こう側の世界への移動を行うことが出来た。
画期的な成功、これにて世界は救われる……と思ったんだが、そうはいかない。ある致命的な点が一つだけあったのさ」
「あ、話について行けていないので先に進めてしまってもらっていいですよ」
「なんだよそれ、それじゃあ話し甲斐がないじゃない。ったく、まあいいけどよ」
女は少し拗ねたような口調で毒づいた。
意外と寂しがり屋なのかもしれない。
「甲種世界は比較的容易に行き来することが出来たんだ。でも、世界間に存在するエネルギー量、質量は常に一定でなければならない、ということが後々分かったんだ」
「えーっと、つまりそれはどういうことなんでしょう?
分かるように言って欲しい」
「私たちの住む地球と、並行世界に存在する地球とでエネルギーを共有しているような状態だったんだ。つまり、甲種世界から物を持ってくると、私たちの世界でも減少する。こうなると差し引きゼロになっちまうんだ。つまり、意味がないってわけだな。
突っ込んだ話をすると希少鉱物とかその辺の交換レートとかがあったんだけど、その辺は面倒になるから割愛する。いずれにしろ、かけるコストに対してまったく収支が合わなかったんだ」
なるほど、だから異世界のものを持ってきたり、異世界に人間を連れて行くような計画はポシャったわけだ。なかなか世界というのはうまく行かないものだな。
「私たちは世界を救う方法を目の前にしながら、足踏みを続けていた。
そして十年後。世界は滅んだ。
放たれた数千発の核ミサイルと地球に落ちて来た月によってな」
いきなり世界が滅んだ。
クロードさんはその先から来たはずだったんだが……?
「クロードは私たちの世界とは違う並行世界から現れたんだ。
だから、彼は月が落ちたことを知らなかった。
落とすって計画があったことくらいは知ってるかもしれないけどな」
女は俺の思考を補足するように言った。
しかし、スタルト村でちょっと交わした会話の内容も把握しているなんて。
こいつ実は暇なんじゃないのか?
かなりの長丁場。話しを整理すると世界を救うために並行世界に可能性を見出したが、結局うまく行かず人類は滅亡した、ということか?
それだと話が繋がらなくなる。まだまだ語るべきことは残っているんだろう。