流れ落ち、零れ落ち
エリンを抱きかかえながら走っても、驚くほど疲労はない。この姿になることで、俺の身体能力も、心肺能力も、同様に強化されているのだろう。どうせならば、もっと戦闘能力をブーストしてくれればいいものを。俺は密かに歯噛みした。
北東側の門に人はいない。だが、足跡はある。血痕がないところを見ると、ここを通った人々は無事に逃げ遂せることが出来たのだろう。ゴブリンはこちらにはいない。
「待ってろよ、エリン。
すぐに、すぐに安全なところまで連れてってやるから……!」
港に向かって走り始めた俺は、しかし足を止めた。
リンドが、仁王立ちになっている。
「そこまでですわ。エリンを、離していただきましょうか」
殺意すら感じる、冷たい瞳。どうすればこんな小さな子が、こんな顔を出来るんだ?
冷徹で、酷薄で。
しかし、悲しくて、辛くて、泣き出しそうな、そんな顔を。
「……エリンから、だいたいのことは聞いた。
だから、離すわけにはいかないね」
俺はリンドの視線を真正面から受け止めた。どんな存在であれ、彼女の妹を奪って俺は逃げているのだ。ならば、リンドの視線から、俺は逃げてはいけない。
「そう、ですか。ならば、分かっているでしょう。
その子を返しなさい」
「分かっているからこそ、返すわけにはいかない。グラーディってのはひどい野郎だ。そんな奴のところに、俺はエリンを、キミたちを返したくない」
その言葉を聞いて、リンドは少し意外そうな顔をした。だが、すぐにそれは消える。代わりに現れたのは、明確な怒りを宿した顔だ。この世に対する、憤怒。
「何も知らない部外者が……訳知り顔でそんなことを言わないで下さいよ……!」
怒気に押されそうになるが、何とか堪える。恐らく、彼女は脅威ではない。もし俺を倒す気でいるのならば、あの時に放ったビームですぐに倒せるはずだ。だが、彼女はそれをしない。恐らく、彼女は撃てる状態にはないのだろう。
「部外者が、手を差し出しちゃあいけねえのか……?」
それでも、俺は。
彼女との会話を止めることが出来なかった。
「ずっと前にも、そんなことを言われたことがあった。
何も分かってないのに。知った風な顔をして。あんたに私を理解することは出来ない、って。その通りなんだろうな」
「……いきなり、何を言っているんですの……?」
「それでも、それでもさ。俺は、手を伸ばしたいって思ったんだ。
苛む苦しみを、一片だっていいから取り除きたかった。
あいつが、永遠にいなくなっちまう前に!」
一歩、踏み出した。リンドは動かない。
困惑の表情のまま彼女は凍り付く。
「グラーディってのはクソだ。会ったこともねえ、どんな奴かも知らねえ奴のことをこんな風に言うのは間違っている。
けど、キミみたいな子供に痛みを押し付けるような奴が、いい奴だなんてことは、絶対に有り得ねえって思ってる!」
もう一歩、踏み出す。リンドは反射的に腕を振るった。彼女の手先に何かが現れた。空中を浮遊する鋼鉄のボールのようなもので、真ん中には大きな、砲身のようなものがあった。それが光り輝き、俺にビームを発射した。頭部を狙う一撃、避けられない。まともに食らい、のけ反るが、しかし踏み止まる。
こんなところで立ち止まってたまるか。
「何も分からないって、分かっているなら何もしないで下さいよ!」
「全部知ってる奴じゃなきゃ動けねえなら、誰一人として何も出来やしねえだろ!」
「訳の分からない人が、自己満足の同情で動いて!
感謝されたいなら何もしないで下さいよ!
私たちの前に現れないで!
私たちは、私たちはどこにも行けないんだ!」
彼女の周りに、いくつもの球体が現れた。その姿が現れる度、空中にバチバチと電光が瞬いた。何らかの電磁的な迷彩処理で姿を隠しているのだろう。それが出来なくなった。もっとも、それで危険がなくなったかと言われれば、そんなことはない。ビーム発射機構に関してはまったく問題なく動いている。いくつもの光線が俺に殺到してくる。
痛い。あまりに痛すぎる。俺の全身に駆け巡る痛みは、彼女の拒絶の力強さと同義だ。
限界を超え、彼女は拒絶している。額に浮かぶ脂汗が、彼女の負担を如実に表している。
「私には、もうあそこしかない……この世界に、私たちの居場所なんてないんだ!」
だからこそ、俺は止まるわけにはいかない。
全てを拒絶した少女を、見過ごせない。
「私の、私の居場所なんて、もう、どこにもないんだ……!」
「それを決めるのは、お前じゃねえだろうが!」
リンドは顔を上げた。
両眼にはいつの間にか、大粒の涙がたまっていた。
「俺だって、一緒だ。この世界にいきなり来て、右も左も分からねえ。頼れる人も何もいねえ。エリンと会わなきゃ、今頃のたれ死んでいたかもしれねえ。それでも生きてる」
ついに、俺はリンドの前に到着した。
彼女はビクリと震え、俺の姿を見た。
「居場所ってさ。最初からそこにあるものじゃないんだ。
だから、どこにだって作れる。それをするには痛みがあって、どこにも居場所がない、居場所を作れない人だっている。
いまいる場所を見失ってしまう人だって、大勢いる。
けど、まだそうじゃないだろ?」
「私の、私の、居場所は……この、世界には……」
「きっとある。諦めんなよ、まだ。もしまだないって言い張るようなら、俺が見つけてやる。世界でたった一人の味方の姉さんなんだ、だったら俺にとっても、大切な人だ」
俺はマスクの中で笑みを作った。それが通じたのかどうかは、分からない。けれども、少なくともリンドは掲げたその手を下ろしてくれた。
「足止めご苦労、リンド=コギト」
だから俺は気付けなかった。
俺のすぐ隣に、底なしの悪意が潜んでいたということに。
えっ、と、俺は間抜けな声を出した。俺の脇腹に、手が当てられる。それと同時に、俺の体は吹き飛んで行った。子供の頃体験したトラック事故よりも鮮烈な痛み。俺の体はゴム毬のように吹き飛ばされて、太い木の幹に激突し、倒れ込んだ。凄まじい痛み。
「グラーディ、様……? なぜ、あなたが、こんなところに……」
リンドの声は震えていた。
これまでのものとは全く異なる感情、恐怖によって。
「私の悲願が、達成されようとしているのだ。
どんな邪魔も、許してはおけない」
立ち上がろうとした俺の後頭部に、再び衝撃があった。リンドのそれと違い、攻撃の際にも光さえ見えない。グラーディと呼ばれた男の手に、銀色の杖が握られていた。その先端には緑色の宝石がはめ込まれており、怪しい輝きを放っていた。
「その、杖……もしかして、風か?
風で、俺を攻撃しているのか……!?」
「さすがは《エクスグラスパー》。この世界の人間よりも物分かりがいいじゃないか」
グラーディは嘲るように言った。ファンタジー・ゲームで風属性はだいたい緑色で表現される。風に色はないが、自然のイメージがあるからだろう。そして、それはこの世界でも同様だったようだ。いや、そんなことは問題じゃない。
問題なのは。
「私の研究を邪魔してくれた礼がしたい。
念入りに死んでくれたまえ、少年」
立ち上がろうとした俺の背中に、重りが乗せられたような感触がした。何かが乗せられたわけではないだろう。風だ。風圧によって、俺の体は押し付けられている。
「ぐっ、がぁぁぁあ! て、めえ……グラーディ……!」
「目上の人間には『様』を付けなさいと、母上に教わらなかったのかね……!」
俺にかかる力が更に増す。ブチリ、ミチリ。俺の体の中で、何か大切なものが潰れたような気がした。メキ、グシャ、ゴキ。俺の中で大切なものが何か、折れた気がした。
俺の全身から熱が奪われて行く。
俺の意識が闇に呑まれて行く。
俺が消えて行く。
「さすがは《エクスグラスパー》様。
塵虫のような生命力だ。さて、行こうか」
グラーディはエリンとリンドの手を掴み、そこから逃げて行こうとしていた。
「待て……待てよ、グラーディ、とやらよぉ……」
ふざけるんじゃねえ。俺は立ち上がる。全身が軋みを上げている気がした。俺の中から熱いものが全部失われて、冷たいものが満たしていくような気がした。
だからどうした。ここでこいつを見逃せば、それ以上に俺は後悔する!
「まだ生きていたのかね? 無駄な努力というものが好きだな、キミは」
「どうだか。 あんたも相当、小細工が好きな奴に見えるんだけどなぁ……?」
死にそうな痛みの中、よくこれだけ饒舌になれるものだ。俺は口角を出来るだけ吊り上げながら、言った。グラーディの眉が、ピクリと動くのが見えた気がした。
「あれだけ派手にゴブリン動かして、それなのに自分はコソコソ隠れて、宝物探しかよ」
「逃げても隠れてもいないさ。そうする理由がないというだけでね」
「いいや、手前は逃げ回っているのさ。直接、村に入らねえのが、その証拠さ。初めのプランじゃあ、ゴブリンで村一つ、滅ぼすつもりだったんだろうが……アテが外れたな」
こいつの人となりは知らない。どうしてこんなことをしているのか。興味も特にはない。
けれども、グラーディという男が度を越した臆病者であるということは分かる。あれだけの力を持ちながら、まったく慢心していないどころか、その上で隠れているのがその証拠だ。
そんな男が、ゴブリンを使うのはどういう事態だろうか?
「あんたの計算じゃ、確実に滅ぼせたんだろ?
でも予定外の事態が起こっちまった。どうしようか、考えているところに俺がたった二人で出て来た。しかも俺たちは、お話に夢中でお前のことなんか眼中にない。見えたんだろうなぁ、好機に。だから動いた」
「何が言いたいのかね……?
はっきり言わない、キミの方が臆病なのでは……?」
「じゃあ、はっきり言ってやるよ。グラーディ。手前はクソだ。
無力な村人痛めつけて、女の子傷つけて、そんなことしか出来ねえ最低のクソだ!
手前にゃ俺は負けねえ!」
グラーディは杖を振った。被ったマント越しに奴の目が見えた。血走った目。
(あ、まずい。こいつはヤバイな)
そう思った。生身の状態であれを食らえば、死ぬ。けれども止められなかった。
許せなかった。こいつの存在が。こいつは世界の理不尽そのものだ。許せなかった。
例え一矢報いることすら出来なかったとしても、食らいついてやりたかった。
その日、俺が感じた中でも最大級の衝撃が、俺の全身に炸裂した。凄まじい風圧に、俺の体はズタズタに引き裂かれ、押し潰され、捻り潰された。最後に、ひときわ大きな衝撃が俺に降って来た。地べたに這いつくばり、俺は今度こそ意識を失おうとしていた。
「それでは戻るとしよう。リンド。
我らの家に。『不帰の森』へ」
「……分かっていますわ、グラーディ様。
私の命は……あなた様のために」
どこまでも青い空が、恨めしかった。
世界はこんなにも、美しいはずなのに。
世界の美しさとは裏腹に、この世界はどこまでも暗くて、冷たくて、救いがなかった。
「シドウ……さん?」
エリンの声が、最後に聞こえた気がした。
悲痛な叫び声が聞こえて来た。
「シドウさん! シドウさん、起きてくださいよ!
シドウさん!」
ごめん、エリン。俺は約束を守れずに、終わってしまうようだ。俺は結局、誰一人として助ける事が出来ない。俺の意識が、完全なる闇に呑まれて消えて行こうとしていた。