同じ名前でも場所が違うと雰囲気も違う
やれることがあるというのはいいものだ。少なくとも、考える時間がある。
ばら撒かれた結晶から生まれた怪物を倒す、それはきっと正しいことだ。
少しばっかり身だしなみに気を使いつつ服を着替える。とは言っても髪をとかすとかその程度のことしか出来ないが。先端をつまんでみると結構伸びていた。こちらの世界に来てから、ほとんど二カ月。一回も散髪をしていないのだから当たり前だ。
「そう言えば、どっかに床屋みたいなところってあるのかな……」
探してみるのもいいかもしれない。ウルフェンシュタインがいつ落ちるか、分かったものではない。グランベルクやグラフェンの時のように、前触れなくなくなってしまう。出来ることはすべてやっておいた方がいい。例えそれが散髪であったとしても。
部屋の襖を開けて、通路に出た俺は部屋の前に人がいることに気付いた。
「……あれ、リンド? どうしたんだよ、こんなところで?」
俺は目を丸くしてリンドのことを見た。
彼女の服装は動きやすいワンピースタイプのものだった。
暗色系の服を着ているのは、ひとえに彼女の性格ゆえか。
「シドウさんが街に出ると聞いたので、ご一緒しようかと思いましたの」
「街に出るって言っても、仕事の一部だぜ? 楽しくはないと思うんだけど」
素直にそう言うと、リンドはどこかむくれたような表情を作った。何なんだ?
「別に。楽しいとか楽しくないとか、そんなのはどうだっていんですの。
それともシドウさんはあの女性と二人だけで、一緒にいた方が、楽しいとでも?」
「いや、べつにそういうことは。まあ、手伝ってくれるってんなら、歓迎するけど?」
何だかよく分からないが、ついて来てもいいというとリンドは機嫌を直してくれたのか、笑顔を作った。よく分からないが、まあ機嫌が直ってくれたならいいか。
(嫉妬とか? いやいや、それはちょっと夢見すぎだろ)
出会い頭の印象は最悪だったし、俺がこの子に好かれる要素はどこにもなかった。
もしかしたら楠さんのことを純粋に警戒しているのかもしれない。いい人なのに。
「それでは行きましょう、シドウさん。楠さんをお待たせするのはいけませんわ」
「ああ、分かっているよ。それじゃ行こう、集合時間に遅れないうちにな」
俺とリンドは並んで歩きだした。
小さなポシェットを身に付け、楽し気に歩く姿は歳相応の子供のようだ。
彼女がこんな顔をして、こんな風に普通に外出することが出来る。
それだけでも、俺が命を賭けて戦った意味はあるように思えた。
「……あれ、そう言えば今日はエリンは一緒じゃないのか?」
「ええ。エリンはクロードさんと一緒にやることがあると言っていましたの。
いくら姉弟でも、どんな時だって一緒にいるわけではありませんのよ?」
そう言ってリンドは唇を尖らせた。とは言っても先ほどまでのように不機嫌さを表しているわけではなく、どこかおどけるような口ぶりをしていた。なので気楽に対応出来る。
「そっか、そりゃそうだよな。年頃の姉弟、一緒にいない時間のが長いか」
「シドウさんにはご兄弟とか、いらっしゃいますの?」
「兄弟はいないけど、同然に育った奴ならいるよ。ガサツで暴力的でおバカな、リンドやエリンの爪の赤でも煎じて飲ませたいような奴なら、一人いたよ」
いたが、死んでしまった。俺は美咲のことを内心で懐かしんだ。十六年間、俺はあいつの友達であり、もう一人の兄であるような気持で一緒にいた。きっと美咲はそんなことを思ってはいなかったのだろう。そうでなければ秘密を持ったりするものか。
思えば遠くに来てしまったものだ。あいつに指をへし折られそうになった時のことが懐かしい。出来ることなら、もう一度あいつと会いたいと思う。でもそれは叶わぬ夢だ。
(死にかけた人間がこっちに来るってんなら、あいつも来てくれてんのかな……)
そう思ったが、長いことこうして過ごしているのに噂の一つさえ聞くことはない。
心の折れた彼女は、《エル=ファドレ》に辿り着くことさえなく消えてしまった。
なんてことのない雑談を交わしながら、俺とリンドは集合地点である噴水広場に到着した。しかし、《エル=ファドレ》の街並みというのはどうしてこうも似通っているのだろうか? どこの街でも噴水を見る気がする。しかも、どれもが似たような形をしている。それに噴水の近くの街並みもそうだ。どこか美意識さえ感じられる。
楠さんはまだ来ていなかったので、俺たちはちょっと遅めの朝飯を摂ることにした。
幸い、あの後尾上さんと会うことが出来たのでお金の貯蔵は十分だ。
チンピラに盗られたことを告げたら苦笑されたが。あいつは絶対に許さねえと誓う。
そこら辺の屋台ですぐに食べられるものを調達する。店に入って、楠さんと合流できなくなってしまうのは面倒だ。色々と見て回ったが、俺たちは屋台にあったものを買うことにした。薄い生地の上に甘辛いソースを絡めた鶏肉と野菜を乗せ巻いた、俺たちの世界で言うところのツイスターめいたものだ。ソースの臭いが食欲を刺激する。
「私、こういうものあまり食べたことがありませんの。どう食べればいいんです?」
「ナイフとフォークを使ったものばっかりだったからなぁ。これはこうして、こうだ」
そう言って俺はツイスターの頭からかぶり付いた。やや汁気の足りない肉をソースと野菜が上手いこと絡み合い何ともジューシーな感じだ。これは美味い。
リンドも俺を真似して頭からかぶり付いた。小さな口がもぞもぞと動いた。
初めは不安げな表情をしていたが、やがて花が咲くように顔をほころばせた。
クルクルと表情が変わって面白い。
「おっと、リンド。鼻にソースがついてるぞ。ちょっと動くなよ」
食べ慣れていないから仕方がないが、鼻にソースがついているのはいただけない。場所によっては鼻血のようだ。ハンカチもなかったので鼻の頭についたソースを指で拭ってやることにした。ビックリして体を震わせるが、特に抵抗する様子はない。
「どう、リンド? 初めてだったけど、美味かっただろ?」
「は、はい、そ、そうですわね……お、面白いお味でしたわ……」
何だか知らないが、リンドはとても動揺しているようだった。ソースが辛かったのだろうか、顔もどことなく赤くて汗が噴き出ているようだ。無理しなきゃいいのに。
「……いや、お前ら。いったい何やってんだよこんなトコで……」
そんな俺たちに向かって、呆れたような声がかけられた。昨日と同じようなコートを着た、鋭い目つきの女性。いつの間にか楠さんはここに到着していたようだった。
「ちょっと遅めですけど、朝飯をと思いまして」
「いや、そういうことじゃなくてさ……いや、まあいいんだけどさ」
呆れたような目を向けて来る。何を言っているのかよく分からなかった。
取り敢えず合流を果たした俺たちは、仕事に取り掛かることにした。
だが、どこから攻めていけばいいのかはよく分からない。
俺は受け取った地図を広げてみた。
ウルフェンシュタインは三方を山に囲まれている。切り立った山肌が特徴的で、壮観だがあそこに昇りたいとは思えない。山頂の辺りには万年雪が広がっており、四季を通して非常に過酷な天候であるという。あそこを越えてくるものがいるとは思えなかった。と、なるとこの街への侵入経路は自然限られてくる。南側の門だ。
ウルフェンシュタインの最奥部、つまり北側には真田城とそれを取り囲む堀と城塞があり、その内には許可を得たもの以外は入ることが出来ない。常に厳しい警備が敷かれているため、無許可で入ったものはすぐに追い出されるか命を落とすことになるという。
「と、なるとやっぱり怪しいのは南東側にあるスラム地区か……?」
ウルフェンシュタインは城塞内に畑や湖がある。山のすそ野から湧き出た湧き水と僅かな雪解け水が溶けあって出来た湖が街の東側にあり、そこから水を引いて街の中心部で農耕が行われている。主要な生産物は米や呂畑野菜、そして僅かに樹木から成る果実もあるという。その辺りには昔からの農民が多く、余所者が流入して来ればすぐ分かる。
門のすぐ近くには居住区と商業地区がごった煮になったような区画があり、そこと農業区と城とで大体街を三分割していた。そして居住区の片隅に、ひっそりとスラムがある。金を得る手段を失った人々が辿り着く、最後の場所というワケだ。
「偏見的な物言いかもしれないが、あそこなら人が少しくらい増えたり減ったとしても分かりにくいし、少額の金のためによからぬ仕事をするかもしれないな……」
「偏見的、というよりは実際的な見方だろう。実際その通りなんだろうからな」
楠さんの見方は非常にドライだ。世間の荒波にもまれて来た凄みを感じる。
「調べるなそこからの方がいいだろうが……本当に、あんたも着いて来るのか?」
「ご心配なく。自分の身くらいは自分で守れますもの」
「そうっすよ。もしなんかあっても、リンドのことは俺が守りますから」
それくらいの力は俺にだってあるはずだ。
「……なんていうか、熱いなお前。いっそ暑苦しいくらいに」
決意を口にしたら楠さんに引かれてしまった。いったい何なんだ、さっきから。
リンドもリンドでもじもじとして目を合わせようともしないし。
「ま、それはいいさ。さっさと行こうぜ。何があるのか、分からないんだからな」
頷き、歩き出す。リンドも俺たちの動きを察したのか、慌てて追って来た。
スラムに近付くにつれて、どんどん臭いがひどくなってくる。
《エル=ファドレ》は結構な割合で水洗式の便所が整備されているので、これほどひどい臭いに悩まされることは稀だ。中世ヨーロッパでは糞尿を街路に垂れ流したせいで都市部は凄まじい悪臭に覆われ、それを避けるために香水や新たなファッションが開発されたという。
それが恒常的な状態にあるなら現状を打開するために新しい施策が成されるのだろうが、このような特殊な環境ではそれもされないのだろう。スラム全体に諦めにも似た空気が漂っている。何となく、一帯の空気が淀んでいるようにさえ思える。
「ったく、ひでぇ臭いだな。それに、汚ぇ。こんなトコ見たことがねえぞ……」
「他んところのスラムには入らないようにしてましたけど……ここは何とも……」
グランベルクのスラムは単に薄汚い路地が立ち並んでいるように見えたが、ここのスラムは何というか、質が違う。悪意だとか、諦観だとか、この世の汚泥を煮詰めて作ったような気すらしてくる。俺たちの侵入に驚いたのか、顔を上げるストリート暮らしの人々もいるが、その目にも生気が宿っていない。反射的に顔を上げたかのようだ。
「誰もが無関心だな。こんなところなら、あいつらの活動にもうってつけ、か?」
「そうですね。ここなら何をやっても気付かれないし、問題にもならない、はずです」
もしかしたら、『共和国』は意図的にここを無視して、切り捨てているのかもしれない。グランベルクにあって、ここにないものは希望だ。彼らは二度とこの地獄からすくい上げられることがないということを理解している。だから無気力なのだ。
「地獄にいることに慣れてしまったら、そこにいることさえ疑問に思わない、か……」
そんな人たちに希望を見せる存在があれば、どうだろう?
彼らはそれに吸い寄せられていくのだろうか?
あたかも誘蛾灯に引かれて行く羽虫のように。
投げかけられる下卑た視線を受け流しながら、俺たちは歩き続けた。リンドは不安げに俺の服の裾を掴んで来る。俺も彼女を守るように、ギュッと彼女の体を掴んだ。その様子を時たま楠さんが見て、そしてうっすらと笑うのであった。
「……なんか俺たち、おかしなことしてますかね? 楠さん?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ、仲がいいんだなと思ってな。カップルみてー」
「カップルって……あのですねぇ、楠さん。どういう目で見てんすか、それは」
「違うのか? 少なくともそっちの子は、まんざらでもないみたいだけどさ」
目ぇ腐ってんじゃないだろうか、この人は。少し発想が下卑たものになっているのではないだろうか? 確かにリンドは美少女だし、一緒にいれて楽しいし、こうやって引っ付くことが出来て嬉しくないと言えばウソだ。けど、まだ子供だぞ?
「人を好きになるのに時間も何も関係ねえらしいじゃねえか。それなら……」
楠さんは俺を茶化すようなことを言ってくるが、その目が細まった。
そして、俺たちを手で制し、前を指した。彼女の指が示す先を見て、俺は驚いた。
そこには、楠さんがノしたチンピラの集団がいたのだ。