僕の/私の災難
暇だ。アリカは思った。
ウルフェンシュタインに来てから、ほとんど誰とも会っていない。近くにいるのは監視めいた目線を向けて来るメイドだけなので息がつまってくる。
世界は『真天十字会』との戦いに向けて一致団結し、その方向に向かって邁進しようとしている。と、なると戦について明るくはなく、そしてマスコットにもならない自分には世間はあまり関心がないのだろうな、とアリカは漠然と思っていた。世間の興味は皇帝陛下の隠し子で、しかも神の剣を持つ彼方に集中している。
「はぁ、お父様……弟がいるならいるって、どうして言ってくれないのかしら……」
開け放った丸い窓から体を乗り出して、アリカはため息を吐いた。太陽は空に沈みかけ、赤くにじんでいた。暗殺の心配があるから窓を開け放つことは止めろと言われているのだが、知ったことではない。暗い気分を吹き飛ばすにはこれが一番だった。
彼方が自分の弟に当たると知った時、複雑な気持ちになった。
彼方のことは好きだ。むしろ嫌っている人はそれほど多くないだろう。
小動物みたいに人懐っこくて、かわいくて、たまに意志の強さを見せる。
それ以外はおどおどしているので、そのギャップがカワイイという人もいる。
彼方のことは好きだ、だがそんな問題ではない。
自分の父が、母親以外の女性に愛を注いでいたという事実がアリカには信じられなかった。最近は疎遠になっていたが、幼いころは子煩悩で、愛妻家だったということを今更ながらに思い出した。皇族としては稀なことに、子供の出産にも立ち合い、生まれて来た自分の体を抱いた、ということも聞かされていた。だから余計に信じられなかった。
「彼方のお母さん……どういう人なんだろうなぁ。一度会ってみたかった……」
会ってどうするのだろうか?
自慢の弟だと喜んだだろうか?
それとも、父の愛を簒奪した泥棒猫だと罵っただろうか?
どちらもあり得るな、と彼女は思った。
「はぁ、さっきから下らないことばっかり考えるわね。これも暇なせいよ、うん」
アリカは窓からぴょんと部屋に降り、襖を閉じた。解決しない思考のループに陥ってしまうのは、それしか考えることがないからだ。それもこれも、自分に会いに来る人が少ないことに起因する。最近では彼方とすらそれほど話していないのだから。
「それにしても、あのスカタンは何をしてるんでしょうね」
あのスカタンのことを、グランベルクであったデカ人間のことを、アリカは思い出していた。ガサツで無神経で口が悪い。それほど格好良くはないし、眼鏡も似合っていない。あまりいい男ではない。そう思っているがアリカは彼のことが忘れられなかった。
自分の勝手な願いのために、投獄されるような罪を背負ってくれた彼のことが。
自分の父に向かって啖呵を切った姿が。
嫌な顔をしながら、最後には笑って自分の相手をしてくれたあの男のことが。
死臭と硝煙漂うグランベルク城で、命を賭けて助けてくれた彼が。
「あのヤロー、生きて帰って来たんならさっさとあたしに会いに来なさいよ……」
そこまで言って、アリカはどこか自分が拗ねたような声を出していることに気付いた。彼に会いたいと思っているのは、むしろ自分の方なのではないだろうか?
そう考えると途端に恥ずかしくなってくるが、しかし悪い気はしなかった。
「生きて帰ってきてるんですよね、シドウ……」
グラフェンに残っていた面々が、ウルフェンシュタインに入ったという情報はアリカの耳にも入っていた。生きているのならば、また会いたい。そうだ、会いたい。
「あっちから会いに来ないってんなら、こっちから会いに行ってやればいいんだ!
さすがあたし、寛容な態度を取れるのも皇たるものの姿勢ってやつだよね!」
アリカはニヤリと笑い、勢いよく立ち上がった。
そうなればもうここでグダグダ迷っている必要はない、行動あるのみだ。
部屋着から簡単な外行きの装束に着替え、軽く髪を整えた。
顔色も悪くはない。問題ない。準備を整え彼女は部屋から飛び出した。
ウルフェンシュタイン城は騒然としていた。当然だ、国家間ではないものの戦争状態にあることに変わりはないのだから。ひっきりなしに情報が行っては来たり、真実とウソと誤解とが錯綜している。殺気立った空間に怖気づきつつも、アリカは進んでいった。
「そんな……ウソです! 有り得ませんよ、もっとよく調べてくださいよ!」
そんな時、場違いな子供の声が響いた。彼方の声だ。興味を引かれたアリカは、部屋の中を覗き見た。襖の奥には、彼方とウルフェンシュタインの事務員がいた。
「騎士団の方でも点呼を取っているんです。だから間違いなんてことはありません」
「そんな、そんなの……有り得ませんよ。だって、だって姉さんは……」
彼方の血の繋がらない姉がいるということは聞いたことがあった。そのお姉さんの身に何かがあったのだろうか? 彼方は力なく立ち上がり、襖を開いた。うつむき歩いているためか、目の前にいたアリカにも反応することなく歩き出した。
尋常な様子ではない、アリカはその背を追いかけた。
そうして歩いているうちに、城の中庭に到達した。暗殺の手が回ってくる可能性はほとんどないので、外出が許されている数少ない場所だ。季節の美しい花が咲き乱れており、アリカもここが好きだった。彼方はそこにあった大きめの石に座り込んだ。
「……ねえ、彼方。さっき大きな声を出してたけど、何かあったの?」
アリカはその隣に座った。一瞬、彼方はビクリと肩を震わせたが、すぐに元に戻った。
「姉さんが……この街に、来てないみたいなんだ。グラフェンに、いたのに」
はっとして、アリカは彼方の方を見た。グラフェンからここに来れていないということは、つまりそういうことだ。彼方だって分かっているだろう。
受け止められないだけで。
「ウソ、だよね? 姉さんが死ぬなんて、そんなはずはないよね。きっと、点呼から漏れてるだけなんだ。昔から、そそっかしいところが、あったから……!」
自分を誤魔化すのも、そろそろ限界に近いようだった。言葉の端々に嗚咽が混ざっていた。アリカはその肩を、静かに抱いた。小さな肩が小刻みに震えるのが見えた。
(たくさん、辛いことが起こる。分かっていたつもりでした、お父様。
でも、これはちょっと……やり過ぎってやつじゃあないんですか? お父様……)
やがて、彼方は我慢しきれなくなったのか大声で泣き始めた。それを聞くのはアリカ一人だけ。少年に科せられた過酷な運命は、どこまで彼を苛むのだろうか?
そんなことを考えたが、もちろんアリカに答えなどあるわけはなかった。
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ウルフェンシュタイン観光一日目は災難があったが、しかし悪いことばかりではなかった。路地前で出会った少年のことを思い出し、楠はクスリと笑った。
「あんなヒーローみたいなやつがいるとはな……思ってもみなかったよ」
初めて会った時から妙な男だった。見ず知らずの女がナンパされているのを見かねて声をかけて来るわ、小さな怪我を見て血相を変えるわ、あまつさえお茶代をおごられるわ。美人局めいた詐欺だったらどうしたんだろう、と心配になってしまう。
だが、彼は《エクスグラスパー》だ。自分と同じように。
そして『真天十字会』に所属していない《エクスグラスパー》であるということは、彼は自分の敵になる存在だ。いままで自分が前線に出たことは数えるほどしかないが、戦局が悪化すればいずれ彼とも戦うことになるだろう。
その時どんな顔をするだろうか。そう思うと心が痛くなった。
「観光を楽しんでいるようだね、『女王』。何よりだ、何より」
「ここでその名前を使うんじゃねえよ。痛々しいだろう、そういうのはさ」
突然告げられた自分の階級に、楠はさっきまでの気持ちが冷めて行くのを感じた。
ホテルのラウンジに人影は少ないが、もし聞かれたらどうするつもりなのだろうか。路地裏と違って人通りは多い、始末するにしても面倒なことになるだろう。もっとも、この男はそんなことを気にしてはいないのだろうが。背後の男性の姿を振り仰いだ。
『真天十字会』の敷地においても、この男のファッションセンスは奇天烈なものだった。それがいまはフォーマルなスーツと上質なコートに身を包んでおり、彼の人となりを知らないものが見れば一端の紳士に見えることだろう。
双眸の狂気は隠せないが。
「河岸を変えようじゃないか。こういうところで話すようなことでもないだろう」
「安心したまえ、この宿は我々のシンパが経営している。人払いは済んでいるよ」
まさかウルフェンシュタインの中まで『真天十字会』の権威が及んでいるとは知らなかったので、楠は素直に驚いた。まだ顔が割れていないとはいえ、市内まで簡単に侵入することが出来たのはそれが原因か。その政治力で一切合切解決してほしかった。
「あんたの方の首尾はどうなんだい、エジソン」
楠は目の前の紳士の名を呼んだ。発明王の名を持つ男はにこりと微笑んだ。
「バッチリだ。『不和の種』は現地で生産出来るからね。
しかも、器具が必要ないというのはいい。
誰一人として、私のことを咎めることなんて出来ないよ」
そう、それが『発明王』とも呼ばれるこの男、アルバート=エジソンの能力だ。
かつては発明王とは縁もゆかりもない三文物理学者だったということだが、この世界に来てこの能力に覚醒。『真天十字会』の発展に大きく寄与することとなった。
彼は幼いころにエジソンの伝記を読み、彼のように世界の役に立つ発明を死体と考えたそうだ。だが、時代が時代だ。彼の知能と能力は、その時代に傑出することが出来なかった。苦心を続けていたアルバートは裏稼業に手を染め、そして気付いた。
こっちをメインにした方がよっぽど儲かると。
大学教授の肩書と信用は、彼が裏稼業をするのに適していた。初めは化学物質を使用した簡単な麻薬のようなものを、その規模はどんどん拡大し、儲かる方向に進んでいった。特に途上国に銃を売るのは儲かった。
そんな彼が建造した秘密武器工場が、皮肉にも彼が作った武器によって襲撃を受けたのはいまから――あくまで自己申告だが――一年ほど前のことだった。燃える工場、人々の死。そのときアルバートは思った、死にたくないと。
次の瞬間には、彼は《エル=ファドレ》に転移していた。
工場を覆っていた炎は消え失せ、機械の損傷も直っていた。
それを発見したのは、ガイウスだった。彼は護衛の騎士たちを『不慮の事故』によって始末しながら、アルバートを勧誘した。この世界でも自分の作ったものを活かすことが出来る、いやそれどころか、学者として培ってきた知識の数々も実践することが出来る。アルバートは一も二もなくその申し出を受け、そして組織の幹部として君臨した。
「今回作った改良型の具合はいかがでしょうか? 市街地で暴発したようですが」
「分かってんなら、言わなくてもいいだろ。予想外に育ってたみたいだな」
アルバートがこちらの世界に来て作ったもので、一番革新的なものが何か?
そうと問われれば、彼は迷うことなく『不和の種』だと答えるだろう。
人の小指ほどしかない小さな暗黒の結晶は、人々から漏れ出す生命エネルギーを吸収し育っていく。放出されたエネルギーによって成長した結晶は、やがて一つの形をとる。《ナイトメアの軍勢》へと。
「ドラゴンタイプが生まれた。こっちに来てから一日でだ。少し早すぎるかもだがな」
「そうだね。トリガーとなるエネルギー量には少し改良を加えなければならないかもしれない。だが、問題はそれ以外にもあるんだよ。倒されちゃったんだろ、ドラゴン?」
アルバートは憎々しげな視線を楠に向けた。
お門違いだ、そう思いながら彼女は答えた。
「偶然居合わせた《エクスグラスパー》に倒された。グラフェンに投入した連中だって倒されたんだ、そうなるってことは分かっていたんだろう?」
「ああ分かっていた、分かっていたさ。《エクスグラスパー》の連中が持っている力って言うのは、分かっているつもりだったさ。だから改良した、改良したんだ。
だけど倒されてしまった。何が悪かった? どこに原因がある?
キミに分かるか、ええ?」
不快な音がするほど強く歯を噛み締め、アルバートは悔しげに虚空を睨んだ。アルバートは科学者ではない。彼が欲しているのはあくまで結果であり、過程や方法などどうでもいい。彼が高邁な科学者の精神性というものを学んでいれば、あるいは違ったのかもしれないが、残念なことに彼は幼少の頃から彼らが生み出した結果だけに執心していた。
だからこそ、アルバートは結果が出ないことを嫌う。自分が導き出した解が、絶対的な答えでないことを嫌う。彼が元の世界で大成出来なかったのはこのせいかもしれない。
「フーッ、取り乱してしまったね。すまない。キミに言っても仕方がないことなのに」
「別にいいさ、アルバート。第一段階は終わったんだ、そうだろう。駆け足だがな」
彼らがこのウルフェンシュタインでやるべきことは、『共和国』の撹乱だ。
内部に《ナイトメアの軍勢》を出現させ、『共和国』を混乱させる。誰がそれを持ち込んだのか、疑心暗鬼になってくれればもっといい。どうせその方法など分からなのだから。彼らはシドウたちがグランベルクの地下で『不和の種』を発見していた事実を知らなかった。
「ああ分かっている、分かっているさ。だがね、思うんだよ楠くん。私はね、『真天十字会』だとかそういうものは必要なくて、私の『不和の種』がすべてを解決しているとそう思っている。そう信じているんだよ、分かってくれるよね。楠くん」
「もし本気でそう思っているなら、私じゃなくてガイウスに言うんだな」
ガイウスの名を告げると、アルバートは黙った。この男は心底からガイウスに忠誠を誓っており、そして恐れている。ガイウスの能力を知っていれば、無理もないことだが。特殊な技能しか取り柄のないアルバートはガイウスに対抗することが出来ない。
「私はもう部屋に戻るぞ。あんたも、せいぜいいい夢を見ることだな」
「科学者は夢を見ない。何故ならば、起きながらにして我々は夢を見ているからだ」
永遠に夢の底で眠りこけてろ。楠はそう思った。
ベッドに身を投げ、今日起きたことを回想する。
最初に出てくるのは、やはりあの少年のことだった。