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最弱英雄の転生戦記  作者: 小夏雅彦
最弱英雄、降臨す
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閑話休題:月なき世界の銀嶺

 この世界に来てよかったと思ったことは、とりあえず風呂があったことだ、とトリシャ=ベルナデットは思った。豊かな銀髪は、メンテナンスなしには成り立たないものだ。伸ばしっ放しにしていれば痛むし、こんな稼業だ。大量に汗もかくし、触れたくないものにも触れてしまう。

 と、なるとどうなるか。つまるところ、臭うのだ。


「エリン、私は風呂に入るが、お前はどうする? 一緒に入るか?」


 トリシャは黒のコートを脱ぎ、部屋にあった掛け金に掛けた。シャツの上にあったホルスターも外す。部屋は鍵がかけられるが、風呂場はそうはいかない。もっとも、このような単純な構造の鍵ならば、熟練者ならすぐに解除できるだろうが、それでも気休めにはなる。少し気を良くしていたのだろう、トリシャはエリンに語りかけた。


 すると、エリンは驚き、辺りをきょろきょろと見渡した。

 他の誰かを探すように。


「その、それは……ボクと一緒にお風呂に入ろう、ということですか……?」

「他に誰がいるんだ? それとも、シドウか誰かと一緒に入りたかったか?」


 トリシャは悪戯に笑った。エリンは顔を真っ赤にし、首をぶんぶんと振った。世間知らずのお嬢ちゃんかと思ったが、可愛いところがあるじゃないか、とトリシャは思った。


「一昼夜、森を走って来たんだろう? どろどろになっているはずだ。

 風呂に入って汚れを落としたほうがいい。そうでなくても疲れが取れるぞ」


 そう言ってトリシャはエリンに手を伸ばした。どこか中世的な雰囲気を持つ世界だが、風呂があるということはそれなりに衛生観念は広がっているのだろう。中世ヨーロッパでは風呂は穢れの象徴とされ、古代ローマで流行っていた公衆浴場文化は急速に衰退していくことになる。ローマ時代に築かれた上下水道を整備できなくなったのも原因だろうが。

 おかげさまで、中世ヨーロッパでは体臭を香水で誤魔化す文化が発達した。その挙句が疫病の蔓延では、まさにブラックジョークといった感じだろう。


「えっと、それでは、お邪魔させていただいてよろしいですか……?」


 エリンは顔を赤くして、答えた。

 トリシャはその仕草を見て、思わず笑ってしまった。


 宿の裏に備えられた露天風呂。トリシャとエリンの二人は、誰もいない風呂場に立った。夜風が二人の体を撫ぜた。

 いつも火星で吹く風は乾燥していた。まとわりつく、しかし心地よい風を感じるのは初めてだったように、トリシャは思った。

 二人は湯船に浸かった。ほの温かい湯が二人の体を温めた。


「ふぅ……思ったよりいいところだな。結構広いし。村人も入りに来るのか?」


 トリシャは湯船の縁に体を預けた。石造りの湯船で、どこか内装も日本的だ。


「しかし、湯船にタオルを入れていいのか? 私の世界では嫌がられるが……」

「えっ、っと……こっちではそんなに気にしないと、思います」


 ふぅん、とトリシャは隣に座ったエリンを見ながら言った。そのバストは豊満であった。空を見上げて、星を見る。火星ではこんなことをしたことはなかった。


「気持ちのいい湯だな、エリン。

 あまり入ったことはなかったが、露天というのもいい」

「ところで、トリシャさん。それは外さないんですか?」


 エリンは湯の温かさに頬を紅潮させながら、トリシャの顔を見た。

 風呂に入る手前、彼女は素っ裸になっているが、トレードマークの丸いサングラスだけは外していない。


「ああ、これはただのサングラスじゃない。

 言うなれば、私にとっての生命線だからな」

「生命線? そのサングラスって、そんなに凄いものなんですか?」

「もちろんだ。洞窟のような低光量空間でも視界を確保することが出来るし、赤外線映像を投射することも出来る。しかも自動で光量を補正するから、スタングレネードのような兵器にも対応可能だ。視力も補正出来るし、視界内に入った物を瞬時に判別することも出来る。見た目よりもずっとハイテクなんだ。かなり金を使ったから当然だな」


 特に聞かれていない機能を、トリシャは早口でまくしたてた。その姿はどこか誇らしげなものであり、湯船の中で彼女の豊満な胸が揺れたような気がエリンにはした。


「へ、へえ……そうなんですか。もしかして、クロードさんのサングラスも?」

「あいつのはただのサングラスだ。あいつのはただのカッコつけだからな」


 ふん、とトリシャは吐き捨てるように言った。テンションが一気に降下する。


「ああいう、ええかっこしいな男に騙されてはいけないぞ。エリン。奴が言っている言葉の半分は適当で、もう半分はよく考えないで放った言葉なんだ」

「は、はあ……そ、そうなんですか?」

「それで成果を上げてしまうのがあの男の嫌なところだ。私が入念に準備し、数か月間かけて立案した計画を、あいつの思い付きで完全にパーにされてしまったことも一度や二度ではない。あいつは人間の形をした悪魔か何かだ、気を許すんじゃないぞ」


 トリシャは苛立たし気に、クロードについてやけに詳しく話してくれた。


「あの、トリシャさんとクロードさんって、どういうご関係なんですか?」

「さっきも言った通り、私にとっては商売敵であり、ライバルであり、仇敵だ」

「それにしては、トリシャさん、クロードさんについて詳しいような気が……」


 トリシャは熱で紅潮した顔で、エリンを睨み付ける。エリンは怯んだ。


「……ふん。大っ嫌いな奴でも、何度も何度も会ってれば詳しくもなるさ」


 トリシャは息を吐き、頭に乗せたタオルで滴る汗を拭いた。


「私とクロードは、火星というところで賞金稼(バウンティーハンター)ぎをしていた。火星は、治安の悪いところでな。犯罪者やマフィア、テロリストと言った連中が跋扈していたんだ。だからこそ、私みたいなフリーの賞金稼ぎにも稼ぐ目があったんだが……」


 火星での仕事は一筋縄ではいかない。何せ、火星は世界でも屈指の技術先進地だったのだから。軍から流出した怪しげな試作型戦闘機やら、人の理性を光の彼方まで投げ捨てるコンバットドラッグやら、人類の限界を越える人工義体やら、見たことも聞いたこともない技術で武装した連中を多く相手にしてきた。死の危険を感じたこともある。


「あいつはそう言う危険な仕事に、なぜか引き込まれる性質でな。しかも間の悪いことに、私もそういう依頼に引き込まれる性質だった。そうなれば、ブッキングさ」

「そういう時って、普通はどうやって解決するんですか?」

「どっちか生きて依頼を達成した方が勝者さ。大概殺し合いになる」


 エリンは驚いたが、トリシャにとってはそれが当たり前のことだった。法的手続きだの、倫理だの、そんな面倒なことがなくていい分トリシャ好みの世界だった。


「ま……あんな奴だからな。結局いつも、美味しいところはかっさらわれて行ったよ。力づくで排除しようにも、こっちが力で劣っているんだからどうしようもない」

「ライバルさん……でも、そんなに嫌いじゃない、んですよね?」

「どうだろうな? もう腐れ縁さ。半ば、諦めているのかもしれないがな……」


 トリシャは自嘲気味に笑い、隣にいたエリンの方を向いた。


「散々私のことを語ったんだ。お前は私に、お前のことを教えてくれないのか?」

「えっ、そ……それは……」

「冗談だよ、本気にするな。言いたくないなら、言わなくたっていいさ」


 トリシャは笑いながら、エリンの柔らかな髪を撫でた。毛並みのいい犬か猫を撫でているような感覚に、いつまでもトリシャはそれを続けそうになってしまった。

 そこで、トリシャは見た。エリンの首筋に刻まれた、痛々しい刻印を。赤黒く膨れ上がったそれは、家畜に施される焼き印のようにも見えた。


「エリン、これは……いったい……」

「……グラーディが、ボクの主人が、ぼくに刻んだものです。二度と取れない、烙印」


 人間にこのような残酷な仕打ちを行うとは。

 グラーディとは、エリンの主とは、いったいどんな人間なのだろうか? なぜそんなにも――人間を憎悪出来るのだろうか?

 気が付くと、トリシャはエリンの体を抱いていた。細く、頼りない体。まだ二次性徴を迎えていないのか、体はメリハリに乏しい。小さな頭が、胸に抱かれた。


「あっ……あの、トリシャさん? ど、どうしたんですか……?」

「んっ……ああ、悪い。いきなり、こんなことをして……すまない、エリン」


 自分でも何をしているのだろうな、と思い、トリシャはエリンを放した。


「……私はそろそろ上がることにするよ。エリンも、長湯はやめておけよ」


 そう言って、トリシャは立ち上がり、風呂から出て行った。

 エリンはその後ろ姿を、ずっと見つめていた。


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