人生ゲームセット、からの延長戦
風を切る感覚が心地よい。
高度十メートル、一秒強のスカイダイビング。
視界一杯に薄汚れたアスファルトの大地が広がる。
ツーアウト、ツーナッシング。逆転不可能。
これにて人生はゲームセット。
……一秒前に戻れたらな、と思うが栓無きこと。
人の命を助けられたなら、価値ある最期じゃないだろうか。
■◆■◆■◆■◆■◆■◆■
気が付くと、何かに俺は座っていた。
ひんやりとした空気に触れ、俺は目を覚ました。
目を覚ますと、広がっていたのは満天の星空だった。
「……はぁ?」
生まれてこの方見たことがない、というほど素晴らしい星空だった。
数え切れないほどの星々が輝く、空。
だが問題はそんなことではない。
いや、そんなことか。見えていることが問題だ。
「俺、確か……あの時、死んだはずじゃあ……」
両手を見て見ると、特に透けてはいなかった。幽霊の体は透ける、というのがデマでなければ生きている、ということになるのかもしれない。頭から地面に激突し、首がヘシ折れる感覚を、しっかりと記憶している。出来ることなら二度と味わいたくはない。
「目覚めたか。よく眠っていたぞ、お前」
不意に、声をかけられた。
前を見て見ると、いつの間にかそこには女の子がいた。ショートボブの髪に大きなフレームの眼鏡をかけ、体格に合っていない白衣を着ている。もっと大きければ、どこかの施設の研究者さん、というような風貌だった。
「紫藤善一。十六歳。百六十七センチ、五十五キロ。
五教科の成績は平均的」
「え、あ……おま、いや、キミは、いったい……」
「だが、身体能力はそれなりに高いようだな。
体育大会なんかじゃ引っ張りだこ、か。うんうん、いい。
極めていい。それがどこまで通用するかは、知らないがな」
少女は俺、紫藤善一の言葉を全く無視して手にしたファイルを眺めていた。
そこに俺のプロフィールが、すべて、乗っているとでも言うように。
「安心しろ、お前は死なない。私が生かしててやるのだからな」
少女はニヤリ、と笑った。まるで悪魔か何かが微笑んでいるのを見るようだった。
「どういう、ことだよ。
俺は、本当に死んじまったのか……?」
「だから死なないって言っているだろう。
理解が悪いなぁ。まあいいんだけど、さ」
少女がそう言ったのとほとんど同時に、俺の意識はまた闇の中に落ちて行きそうになった。あの時と違うのは、それが苦痛や不快感とは無縁だったということくらいだ。
「お前には、まだ役に立ってもらわなければ困るからな。
まあ、頑張れよ」
瞼が落ちているのか、もしくはその場所が暗くなっているのか、分からなかった。
「ま■私の力■■世■■則に■■する■とは■来■か■なぁ」
少女が何かを言ったが、しかしノイズが走り聞き取れない。
俺の意識は再び闇に閉ざされた。
◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆
優しい鳥の鳴き声で、俺は目を覚ました。今度は星空は広がっていなかった。快晴。
「……はぁ?」
だが、それでも俺の心にはやはり、驚きが最初に去来した。俺は太い木の幹にもたれかかっていた。立ち上がろうとしたが、鋭い痛みが全身を貫いた。
「っかしいなあ、俺、たしかにあの時……屋上から落ちて……」
死んだはずなのに。その先の言葉は飲み込んだ。
口にしたら現実になってしまいそうだ。
せっかく生きてもう一度空気を吸う事が出来るのに、それは勘弁だ。
生きている。生きているんだ。さっきのことは夢。夢にござる。
「それにしても、ここはいったいどこなんだ……?」
目を覚まして生きていたのは、まあいい。
世の中には不思議なことがあるのだろう。
だが、いまのいままで文明の作り出したコンクリートジャングルにいたはずなのに、突然森の中に現れたとはいったいどういうことなのだろうか。誰かが運んだのか?
俺の通う優嶺高校は市の中央辺りに建てられた高校だった。授業中、窓の外をのぞくと、視界の遥か彼方に森が見えた。要するに、近くに森林は存在しないはずだ。
だが、と俺は改めて辺りを見回してみる。自分がもたれかかっている木といい、地面をほとんど覆い尽くす背の低い芝のような草といい、相当な年月を感じさせるものだ。
少なくとも、一昼夜の内に作れるようなものではないだろう。そもそも、朝学校へ登校してきた時も、景色はそれほど変わっていなかったはずだ。
「……まあ、いいや。
こんなところで考えてても、なんも解決しねえだろうからな」
ようやく体の痛みも引いて来た。
俺は立ち上がり、ひとつ伸びをした。相変わらず全身が軋むように痛いが、大丈夫。立って歩けないほどではない。軽くステップを踏んでみる。
足回りにも特に異常はないようだった。愛用のスニーカーもそのままだ。
「……あ、そうだ。ここって電波通じんのかな?」
安心してくると少しは冷静にものを考えられるようになる。連絡が出来るのならば、先にしておきたかった。そう思い、俺はポケットから携帯を取り出した。
もっとも、それが俺の役に立つことは終ぞなかったのだが。
「うわぁ、マジかよ。
うんともすんとも言いやがらねえぞこいつ……」
取り出した携帯は、ディスプレイに何の色も映さなかった。電池が切れているのか、それとも何かの衝撃で壊れてしまったのか。恐らくは前者だろうが。
「参ったなあ、せめてここがどこにあるのかくらい把握したかったんだけど……」
ポリポリと頭を掻き、俺は森の中を歩いて行った。ここがどこだかは知らないが、とりあえず日本だろう。歩いていれば、そのうち街に辿り着くはずだ。
もっとも、そんな希望的観測はすぐに打ち砕かれることになるのだが。
「なっ……な、なんなんだよ、これは……」
流れる水の音に誘われて歩き続けた俺の視界が、突然開けた。目の前には川があった。清流で、魚も泳いでいる。そして、その先には滝があった。
だが滝壺はなかった。大地から流れ落ちた水は、何処かへと場所へと落ちて行った。
いや、それだけではない。俺の視界一杯に、抜けるような青空が映し出されていた。
よほど高い場所にいる? そうかもしれない。俺はいま、空にいるのだろう。その証拠に、俺の視界には空飛ぶ大地がいくつも映し出されていたのだから。
「なっ、あっ、あっ……!」
驚きのあまり、俺の口からは間抜けな空気の抜ける音だけが何度もした。縁の深いすり鉢状の大地がいくつも空に浮かんでいる。中には岩くらいの大きさのものもあった。雲の隙間から、渡り鳥のようなものが飛んでいるのが見えた。
「こ、ここは……ここは、いったいどこなんだ……!?」
俺の疑問に答えてくれるものは、一人としていなかった。
ともかくとてつもないことだが、この瞬間から俺の旅が始まってしまったのだ。
大いなる空。果てしなき世界。《エル=ファドレ》と呼ばれる世界の命運をかけた、俺の戦いがこの時始まってしまったのだ。