第七話 橘の女神 その三
「あなたも女神さまなのですか?」
不思議そうな顔で千夏が訊ねてくる。
美耶としては苦笑するしかなかった。
「違います。けどあたし、美帆の妹なんです。あたしがおまじないをしても勿論何の効果も無いと思います。けど、このまま千夏さんと別れたら、何もして上げられなかった事を後悔すると思うんです。だからあたしに、赤ちゃんへのおまじないをさせて貰えませんか?」
千夏は初めびっくりした顔をしていたが、それでも美耶の心が伝わった様子だった。
眼を細め、よろしくお願いしますと言って、自分の子を美耶に託して来る。
美耶は、まだ首の座らない赤子を両腕でそっと支えた。
赤ん坊は、甘いミルクの匂いがする。
「三ヶ月位ですか?」
「六ヶ月です。未熟児で産まれて来た物ですから・・・」
それなら愛情も一入だろう。
「名前は勇太って言います」
「男の子なんだ」
その男の子は、そのまま家に連れて帰りたいと思える位、可愛らしい赤ん坊だった。
◇ ◇ ◇
「ちょっと美耶!」
美帆が美耶の肘を引っ張って来る。
「あなたにおまじないとか出来るの?」
「出来るわよその位。だって、家のお母さんとか、良く遣ってるじゃない」
美耶が言い返す。
美帆は、ああそうかと言う顔をしていた。
美耶の母は赤ん坊の事が大好きで、街でベビーカーを見つけると、例えそれが見知らぬ他人の赤子であっても、抱かせてくれませんかとお願いをするのだ。
不思議と断られる事は無い。
母は見知らぬ赤子を抱いて一頻りあやすと、必ず元気に育ちますようにと言って、おまじないをした。
それは多分、特別の事では無いのだ。
一度、恥ずかしいから止めて欲しいと母に言った事がある。
けれど、母からは逆に赤ちゃんは沢山の人から祝福されるべきなのだと窘められていた。
「勇太君」
美耶が呼ぶと、赤ん坊が花のように笑う。
今なら母の気持ちが分かる気がした。
美帆は考え過ぎなのだ。
赤ん坊は沢山の人から祝福を受けるべきであって、そこに気兼ねなどは必要無いのだ。
「この子が幸せに成ります様に」
自然と、心からの祝福の言葉がこぼれた。
思わず我を忘れていた。
福々とした顔を眺めていると、この子を幸せにして遣りたいと言う赤子への愛情が、どんどんと心の中に湧き出て来るようだった。
きっと幸せになる。
美耶にはそれが出来る筈だった。
何故なら、彼女の中には“力”があるのだから。
辺りには馥郁とした花の香りが漂っていて、いつの間にか、美耶の心の中のスイッチが入っていた。
美耶には勇太のこれからの人生が、幸福ばかりでは無い事が分かっていた。
だから干渉してあげれば良いのだ。そう、ほんの少しだけ。
何故か花の香りが強くなっている様だった。
美耶が心の力を使おうとした正にその瞬間、けれど、美帆が叫んでいた。
『すとーっぷ!』
はっと我に返る。
心が真っ白になって、美耶は今、自分が何をしようとしていたのか分からなくなっていた。
ぎゅっと勇太を抱きしめて美帆を見ると、彼女は何故か驚いた様子で、目を丸くして美耶を見ていた。
「一体どうしたのよ?」
美耶が不満をぶつけると、美帆は言った。
「その遣り方は違うのよ」
皆の視線が美帆に集まっていた。
美帆は溜息を吐いて肩を落とすと、美耶に向かって言っていた。
「いいわ。勇太を渡しなさい。おまじないは、あたしが遣るから」
「マルティエ」
美帆が猫を呼び出す。
「力を使うから人除けをしてくれる?」
「街中で結界を使うと、却って人目に付く恐れがありますが」
「構わないわ。十分間だけ、この公園から人を排除して」
「ハブユアコマンド」
◇ ◇ ◇
美帆は、千夏に赤子を抱かせてベンチに座らせると、自分はその前に跪いた。
「千夏は勇太にどんな人に育って欲しい?」
美帆の質問に、千夏は少しも迷う事は無かった。
「優しい子です」
美帆が首を傾げる。
「でも今の時代、優しい子は辛いかも知れないわ。いじめだって受けるかも知れないし」
美帆の言葉は勇太の将来を暗示していた。
けれど、子供の頃、酷いいじめを受けていた母は迷わなかった。
「構いません。それでも私は誰かがいじめられていたら、それを迷わず助けて上げる、女神様のような優しい子に育って欲しいです」
千夏が言って、美帆は微笑んだ。
「そっか、でも千夏がそう思っているなら、勇太には、いつもそう話しかけて上げなければいけないわ」
「でも、赤ちゃんには分からないんじゃないの?」
涼子が口を挟んできて、美帆は首を振った。
「言葉は分からなくても、その分ダイレクトに気持ちは伝わるわ。だから赤ちゃんには、いつも話し掛けて上げる事が大切なの」
「ふうん」
「勇太には、これから自意識が形成されて行くわ。彼の心に一番最初のベクトルを与えるのは、母親である千夏の大切な役目なの」
「ベクトル?」
美耶に向かって美帆が頷く。
「ベクトルとは方向性の事よ。人の心は、感情のベクトルが積算された物なの。心の性質によっては、同じ経験をしても感じ方が異なってくる。だから、一番最初の心のベクトルこそが大切なの」
美帆の言葉は美耶には意味不明だったが、千夏は分かる気がすると言っていた。
「辛い経験をしても、それを糧に出来る人もいます。それには前向きな心が必要と言う事ではないでしょうか?」
正にその通りと美帆は嬉しそうに笑った。
「一番最初の心が前向きなら、この子の心は強く育ち易い。何事も一番最初が肝心なのよ」
「でも、私にそれが出来るでしょうか?」
千夏は不安そうだった。
「あたしが手伝うわ。けれど、勇太の一番最初の心を作るのは、母親である千夏でなくてはいけないのよ。それこそが親子の絆なの」
それだけ言うと、美帆は千夏の前で立ち上がった。
辛い経験も、心の成長のために必要な場合もある。物事の幸、不幸を決めるのは、その人の心であって、決して他人ではないのだ。
だから、他人の運命に干渉する事は、その人にとって害悪でしかないのだ。
美帆は言外にその事を言っていた。だから、美耶の遣り方は間違っているのだと。
『千夏と勇太の心が、より一層、深い絆で結ばれますように。勇太が千夏の想いを受け、優しい子供に育ちますように』
それが、橘媛のおまじないだった。
人を本当に幸せにする、幸福の女神のおまじないだ。
いつの間にか白い花びらが舞っていて、辺りは優しい香りに包まれていた。
それは、いつか美帆が教えてくれた、橘の花の香りだった。
美耶は涙が流れるのを止められ無いでいた。
目の前の赤ん坊が幸せになるのが分かったからだ。辛い事があっても、彼は決して負けないと分かっていた。
何と言う事だろう。
自分の姉は、本物の女神様だったのだ。




