第三十三話 夏の記憶 その四
「此処はあたしの心象の世界」
美弓は美耶の手を取ったまま言った。
「戦争が過去の記憶となって、人々の心が潤いを取り戻した千九百七十年代。あたしが一番好きだった頃の世界だよ」
「死後の世界って事だよね」
けれども美弓は首を振った。
「確かに生者の世界ではないけど、死者の為の世界って訳でもない。ここは、この世界の意志によって美耶のために創られた世界さ」
「あたしの為に? 世界の意志? 美弓ちゃんじゃ無くって?」
美弓が窓を振り返ると、部屋から見える表の景色が薄暗くなってゆく。
程無くして木々の間から覗く空が夜空に変わった。
「ちょと来てごらん。これが本当のこの世界の姿さ」
美弓に手を引かれて縁側に場所を移す。
そこからだと満天の星空を望むことが出来た。
美耶にとって、夜空は近しい景色だった。
父に手を引かれて歩いた夜道は街灯が少なく、星の光に溢れていた。
デネブ、アルタイル、ベガ。
美耶は、父が話してくれる星と星座の話が大好きだったのだ。
あれ?
きょろきょろと星空を見渡す。
何故か見慣れた星座が一つも見つから無い。
それを不思議に思っていると美弓は言った。
「光って見えているのは、星じゃなくて人の心の輝きなんだ」
「人の心?」
「ここは、全ての人の記憶と感情が集まる世界」
訳が分からずぽかんとする美耶に、美弓は少し笑って言った。
「美帆姉に教わらなかったかい? 心の中の八つの領域の一つ。阿頼耶識の事を」
◇ ◇ ◇
「阿頼耶識? 八つの領域の一つと言うことは、ここもあたしの心の中って事? でも、だったら、何故美弓ちゃんが此処にいるの?」
矢継ぎ早に質問する美耶を、美弓が押し留める。
「それに答える前に美耶に考えてみて欲しいんだ。人の心って、一体何処に在ると思う?」
けれどそれは、美耶にとって当たり前すぎる問題だった。
「心って、頭の中。脳の中に在るんじゃないの?」
人は頭の中で物事を考える。
頭の中には脳髄が在る訳だから、心も脳の中にある。美耶はその事を当然と考えていた。
けれど美弓は言った。
「だったら聞くけど、美耶が見て来た自分の心。あの可愛らしいハートの形は、美耶の脳の中に在ったのかい?」
「ええっ?」
その質問に絶句する。
あの時の自分は、一体どこに居たのだろう?
少なくとも頭の中で無い事だけは確かだった。
一心に考え込む美耶を美弓は笑った。
「心って言うのは、脳と言う電卓で導き出した計算結果とは違うのさ。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの感覚と、それを統合する意識。それに、自己保存の無意識である末那識と、人の集合無意識である阿頼耶識。これら人間の八つの“識”に依って生じる現象なのさ」
「現象?」
「そう。現象だから、物理的な何かが在る訳じゃない。けれど、心は確かに存在する。何処に? 我々が暮らす三次元プラス時間、以外の場所にさ」
「それがここ?」
美弓は頷いた。
「人が精神活動を行う場所を、現実と分けて考えると話は分かり易い。心が在る場所が現実とは違うから、人はこんなにも自由に物が考えられる。現実とは異なる場所だからこそ、人の集合無意識なる物が存在し得る」
「集合無意識って、要は心の奥底で誰か別の人と繋がっている事?」
「と言うよりも、人は心の奥底で、全ての人類と繋がっているんだ」
その言葉の意味を噛みしめて唖然とする。
自然と美耶の唇がアルファベットのOの字に開いた。
全ての人類ですって!?
美弓が縁側の窓を開くと、そこから見える全ての景色が満天の星空になる。
それはまるで、宇宙船の窓から天の川を見ているみたいだった。
「ひょっとして、此処から見える全ての景色が、人の心なの?」
美耶の問いに美弓が首を振る。
「この世界その物が、人の心に依って出来ているんだ。人は皆、全ての人々と繋がっている。だから人は他人の事が共感できるし、だから人は死んでも生まれ変わる。それが阿頼耶識の意味で、美耶が求めた答でもある」
「あたしが求めた答?」
「何故人類が多様化を求めるのか。その答さ」
◇ ◇ ◇
次から次ぎへと分からない事だらけで、頭の中がパンクしそうだった。
けれど、その答という言葉に、心の奥底で反応する物があった。
美弓は夜空を仰いで言った。
「この阿頼耶識には、人類創世以降の全ての人の記憶と感情が蓄えられてる。だから阿頼耶識の事は蔵識とも呼ぶんだ。要は、極端な多様化により滅んだ種の記憶だって此処には存在する。彼らの存在は決して無駄にはならない。何故失敗したのかを教えてくれる教師に、あたし達の礎になってくれているんだ」
その時美耶は、自分の心の奥底に、何かゾロリと動き出す物を感じていた。
どうやら美弓は、先程からその者に向かって話し掛けているらしかった。
「その事は、人類が決して精神生命体に劣らぬ存在である事を示している。異界の神よ。だから人類を前近代まで押し戻すなど、不可能な企みだと知りなさい」
『だが、記憶が存在するだけでは、教師足り得ないだろう』
「まさか!? でも、何故こんな所に!」
人の集合無意識の世界である阿頼耶識に、精神生命体のBeが現れていた。
彼は何故か、自ら美耶の心を殺した後も、美耶の心から離れる事をしなかったのだ。




