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第三十二話 夏の記憶 その三

「カウント!」

それだけ言うのが精一杯だった。

トラップの中に確かな美耶の存在を感じていて、それを分離する事で精一杯だったのだ。

美帆は、今は原型さえ留めぬ美耶の形をしていた物に半ば飲み込まれていた。

頭の中は美耶の救いを求める声が鳴り響き、五感は半ば失われ、正気を保つのさえ困難な状況だった。

多分、この状況自体がBeの罠なのだろう。

それでも美帆の心は揺らがなかった。

美耶を助ける為なら、どんな困難にも真正面から立ち向かう。


「5!」

まるで十三面体のダイスが、十六分割のルービックキューブになったパズルを解くみたいな作業をしているというのに、無情にも機械知性体は、美帆を保護し得る残り秒数を5秒前から始めていた。

「4!」

先程から何度も後もう一歩と言う所まで行くのだが、その最後の一手をどう解いたらいいのかが分からなかった。残り4秒で、これまでの結果を復習って傾向と対策を割り出してみる。

「3!」

残り3秒で、この作業には元々解答が用意されていない事に気が付いた。

当たり前だ。これは罠なのだから。

「2!」

だが、それならそれで遣り様はある。答えが無いと言う解答を外挿すれば良いのだ。

Beのやり口さえ把握できれば対抗のし方は有る筈。

「1!」

残り一秒でそれまでの結果をご破算にして、一から作業を遣り直す。

「0!」

これまでとは違う、今度こそと思える手応えがあった。

後、もう少し・・・。

「マイナス1」

美耶の心を捕まえたと思った瞬間、無限大の痛みが走って、それを取り落とした。

機械知性体に悪態を吐く。彼は主人の性格を知っているくせに、余分の秒数を見込んで無かったのだ。

「マイナス2」

そこからは単に心の強さの問題だった。

心の中になだれ込んでくる無数のウィルスに、千年掛けて培った心の信念で対抗する。

「マイナス3」

ウィルスに浸食されて、これまでの記憶も計算結果もぼろぼろになっていたが、それでも一度捕まえた美耶の心の感触は、まだ手に残っていた。それを数式に変換して手を伸ばす。

これで駄目なら・・・。

「マイナス・・・」

「パージ!」

手にした美耶の心と共に後方に飛ぶ。

自分の身体も、浸食された感覚ごと美耶の罠の中に放棄し、心だけ飛んで新たな身体を再構築する。

「お待ち下さい。現在、残存ウィルスの洗浄を実行中」

けれど、マルティエの声は美帆には届いてはいなかった。

自分の抱いている妹の心の姿に呆然として、それどころでは無かったのだ。


確かにそれは、美耶の心の核だった。

けれど、全ての記憶、全ての個性を剥ぎ取られて、これ以上は無いという段階まで分解されていた。

美耶は、人間の一番深い根源、真我アートマンと呼ばれる状態にまで還元されていたのだ。

ここ迄されたら、元は人の心であったと言うだけで、それはただの物と変わらない。

膝が砕け、尻から座り込む。

最早、復活など到底不可能だった。

「ひどい・・・」

美耶の心の核を抱き締める。

美耶が一体何をしたと言うのだろう。

何もここ迄する事は無いのに・・・。

瞳に涙が溢れ、堰を切りそうになる。


まだだ。


でも、それでも美帆は諦めなかった。

自分が諦めれば美耶はそこで死んでしまう。

けれど、自分が諦めさえしなければ、まだ方法は有るかも知れないのだ。

震える膝を叱咤する。

「あたしには、未だ出来る事が有る」

そう言って、美帆は震えながら立ち上がった。

腹に力を込めて声にする。


「決して考えを止めてはいけない。女性であるあたしは、腕力の無い分を知恵で賄わなくてはならない。考えを止める事は、勝利を放棄した事に等しいわ」

それは、敬愛する人の教えだった。

「状況は刻々と変化して行く。有利の元となる条件が不利に転ずる事が有るし、また、その逆だってある。常に新たな情報で考慮して、見極めを行うこと」

その教えは、いつだって美帆を救ってくれた。

「天は自らを助ける者を助く。自分の出来る全ての努力を行ったかを、常に自分に問い質しなさい」

そう。自分の遣るべき事は、まだ幾らでも残っているのだ。


   ◇   ◇   ◇


「お嬢様、ダイバースーツの再起動を完了しました」

機械知性体が、再構築された美帆の身体の修復完了を報告する。

「損なわれた感覚器も再構成致しましたが、お加減の方は如何でしょうか?」

「問題ないわ」

元々が、美耶の精神内で生じている出来事なのだ。

アバターを使っているのは感覚的な理解を助けるためで、視覚、聴覚さえ有れば特に困る事も無い。

味覚、嗅覚など、情報が有りすぎても却って混乱するので、初めから遮断してあったのだ。

必要のない情報を再び遮断しようとして、美帆はその匂いに気が付いていた。


橘の花の香り。


先程回収した、元々は美帆が美耶に授けた橘の花弁が香っていた。

美帆の力の結晶とは言え、元々橘の花の属性を与えられているのだから香る事自体は問題ないのだが、その香りにはどこか違和感があった。

「どこか不具合でもお有りでしょうか?」

「そんなんじゃ無くって・・・」

普段なら気にも留めない程の些細な違和感なのだが、今は何故か見逃してはいけない気がした。

「これは、香りの記憶だわ・・・」

橘の花弁に、橘の香りの記憶が書き込まれていたのだ。

データ情報であるアバター状態の美帆は、それを自動的に翻訳して、橘の香りとして感じていた。

その香りの記憶は、元からの花弁の香りとの間で微妙な違和感を生じさせていたのだ。

「一体誰の・・・」

そんなのは考える必要もなかった。

この花弁を最後に持っていたのは美耶に他ならない。

「マルティエ、アナライズ!」

まさか。まさか、まさか・・・。

機会知性体は黒猫の姿で、美帆の花弁の香りを嗅いでいた。

「確かに美耶様の記憶のようです。花の香りと、星空の記憶。ですが、それ以上の再生は不可能です」

それを聞いて美帆が肩を落とす。

この花弁に、美耶のダイイングメッセージが書き込まれていると早合点したのだ。

けれど黒猫は続けて言った。

「デネブ、アルタイル、ベガ、いわゆる夏の大三角形と言う奴ですね」

『そんな事まで分かるの!』

それを聞いた美帆が大声を上げる。

興奮して、危うく猫を握り潰す所だった。

「はい。美耶様にとって、この星空の記憶は思い出深い物だったのでしょう。他はともかく、この鮮明さなら、この空を見上げた時期や場所も特定する事が出来ます」

黒猫が自信たっぷりに言う。

「十五年前、上越市、清里高原・・・」

美帆がそれを言って、猫が何故それが分かるのかといった表情で頷いていた。


まさか。まさか、まさか・・・。

美帆は両手で口元を押さえていた。

今度こそ本当に涙がこぼれそうだった。

自分の心のキー情報を、花弁に託して姉に届けるとか、まさかそんな事があり得るだろうか?

美耶はまだ十六歳の女の子なのだ。

それが、全能の超神であるオーバーマインドの手を掻い潜るなど、自分にだって出来るかどうか分からなかった。

それなのに・・・。


「マルティエ。その記憶が、美耶の心のキー情報である可能性が高いわ。美耶の身体から、それと同じ情報を抽出してくれる?」

けれど、一瞬間をおいて黒猫は答えた。

「残念ですが、情報の抽出は出来ませんでした。該当の情報が格納されていると考えられる脳細胞が、その部分だけ物理的に損傷しています。傷の具合から見て此処数時間以内に処置された物と考えられ、おそらくオーバーマインドの妨害工作と推測されます」


それを聞いて美帆は目を丸くして驚いていたが、やがて、笑い出していた。

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