第三十〇話 夏の記憶 その一
油蝉の声がしていた。
雲一つ無い空は抜けるように高く、強い陽射しで炙られた道路はアスファルトが溶け掛って、陽炎が揺らいで見えていた。
あれっ、ここって何処だろう?
古い並木道には、どこか見覚えがある気もするのだが、辺りを見渡しても道行く人は居らず、誰かに訊く事もままならなかった。
何故自分がここに居るのか、記憶の前後が定かで無い。
と言うよりも、自分が誰なのかさえ思い出させないのだ。
辺りには、ただ蝉の声だけが聞こえていた。
汗ばむ額を拭う。
どうやら手帳とか学生証とかの、自分の手掛かりとなる物は持ち合わせていないようだった。
自分の名前が思い出せないとか結構危機的な状況であるにも関わらず、焦りの気持ちが沸いて来ない。
頭の芯がぼっとして、巧く考える事が出来ないのだ。
街路樹の深い緑の下、強い陽射しでモノトーンとなった世界で途方に暮れていると、頬を撫でる柔らかな風が潮の香りをはらんでいる事に気が付いていた。
その香りが心に触れ、自然と足が動き出す。
◇ ◇ ◇
古い雑多な家々の隙間を、縫う様にして歩いてゆく。
木造と言うか、壁が木のままの造りの家が多い。
道が轍でデコボコしていて、殆どの道が舗装されていない。
自分が知っている町とは様子が違っていて、何だか別の世界に紛れ込んでしまったみたいだった。
そうやって気の向くまま歩いていると、いきなりコンクリート製の壁が目に飛び込んで来る。
予感があった。
この場所を知っている気がして、壁に沿って歩いて行くと、果たして巨大な鉄製の扉が開けている部分を見つけていた。
壁の向こうは砂浜だった。
そして、その向こうには遠く海が広がっていた。
「うわぁ」
この景色には見覚えがある。
自分は何度もこの場所に来た。
そう、この砂浜を犬を連れて散歩したのだ。
「!」
そうやって思い出を手繰っていると、何処から現れたのか、いきなり犬に吠え掛けられた。
小さな子犬が尾を振り、懐かしい人に出会ったようにじゃれ付いて来る。
「チロ?」
素足に触る柔らかな感触が記憶を刺激し、その名前を口にさせていた。
でも、チロはずっと昔に死んでしまった筈。
足にじゃれ付く毛玉を抱き上げようとすると、子犬はそれを嫌がるように逃げ去ってしまった。
「チロ?」
チロが少し離れてこちらを見ている。その目が付いて来いと言っていた。
◇ ◇ ◇
犬に先導されて街中を歩く。
町並みは相変わらず雑然としていて、人の気配が全く無かった。
まるで、ゴーストタウンを歩いているみたいで、チロがいなければ立ちすくんでしまったかも知れない。
「チロ?」
そして、子犬が一軒の店先で立ち止まる。
手を伸ばすと、今度こそチロは自分の方から腕の中に飛び込んで来た。
どうやらこの場所が目的地らしい。
子犬を抱いて、駄菓子屋風の店先に佇む。
静寂の世界の中でアイスキャンディを納めた業務用冷凍BOXだけが、モーターの低い唸り声を生じさせていた。
それは全てが昔風で、コンビニ世代の自分には縁の無い世界だった。
木造の壁には、錆びて色褪せた看板が貼られている。
「これって・・・」
一見ポスターにも見えるそれは、実は鉄板に写真を印刷した物で、ホーロー看板と言うのだと、昔、祖母に聞いた事がある。
看板に描かれている眼鏡と帽子の男性は、元気ハツラツでお馴染みの茶色の小瓶を掲げていた。
「志村けん?」
「大村崑よ!」
絶妙のタイミングで突っ込まれる。
慌てて振り返ると、そこには二十歳位の若い女性が立っていた。
「今の子はコンちゃんも知らないのかしら・・・」
自分はこの女性を知っている。
「お婆ちゃん?」
『誰がお婆ちゃんよ!』
自然と口に出た言葉に女性は目をつり上げた。
それはそうだろう。
若い女性がお婆ちゃん呼ばわりされたら、誰でも怒るに決まっている。
それでも自分には、目の前の女性が祖母としか思えないのだ。
今にもゲンコツが降って来そうな雰囲気に、犬を抱えてしゃがみ込む。
でも、いつ迄たってもゲンコツが降って来る事は無かった。
「もう、まったく、あんたって子は」
恐る恐る顔を上げると、女性は呆れた様子だったが、それでも顔は笑っていた。
女性は言った。
「頑張ったわね、美耶」
そしてそれが、忘れていた自分の名前だったのだ。
◇ ◇ ◇
建物のガラス戸を開ける。
商品の並ぶ手狭な店の中を抜け勝手口を過ぎると、裏庭に面した畳敷きの部屋に通された。
「楽にしていて」
女性は部屋の真中にちゃぶ台を置くと、美耶を座らせ麦茶の入ったグラスを差し出した。
「美耶はスイカ食べるよね?」
そして返事を確かめる事もなく、そのまま台所へ引き上げて行く。
散歩で疲れたのか、チロはお気に入りのバスケットの中に収まると、そのまま寝入ってしまっていた。
部屋の中は涼しかった。
壁に貼られたカレンダーやポスターやらを眺めていると、女性が大皿にスイカを盛って戻って来た。
美耶にスイカを差し出すと、自らも塩をふってスイカを食べだした。
女性が塩の小瓶を差し出して、美耶が首を振る。
スイカは好きだったが、塩を掛けた味は嫌いだった。
そんな事より知りたいことが沢山あって、どれから訊ねたら良いのか分からない位だったのだ。
「美弓、お婆ちゃんだよね?」
美耶がその事を切り出すと、途端に女性は不機嫌になった。
「あたしは美耶のお婆ちゃんじゃないわ」
それなら一体・・・。
固唾をのむ美耶に女性は言った。
「お姉ちゃんよ」




