第二十六話 間断の闇 その七
一瞬意識がぶれる。
意外な程の衝撃と抵抗があって、その理由はやがて明らかになった。
壊されつつある美耶の心が、Beの力から身を守ろうと必死で抵抗していたのだ。
けれど、その均衡を美耶自身が打ち壊していた。
後ろを振り返ると、美耶が突入した跡に亀裂が入り、心が音を立てて崩壊して行く。
自分が遣ってしまった取り返しが付かない行為に、その場に崩れ落ちそうになる。
けれど、後悔している余裕は美耶には無かった。
震える手で、命綱を掴むように美帆の花弁を握りしめる。
そして心の中心に視線を据え、ひたすら前へと、心の奥底へと分け入って行った。
◇ ◇ ◇
右も左も分からない。けれど、進むべき方向ははっきりしていた。
自分の心の形を創った過去の記憶を知りたい。
それは多分、美耶が生まれて間もない頃の記憶で、心の中心部に有る筈だった。
自分の記憶を掻き分け、ひたすら過去に向かって分け入って行く。
懐かしい記憶が沢山あった。
仲の良い友人たちとの別れ。美耶が友人を作ることに引っ込み思案になってしまった原因。
そして、小田原の美弓お婆ちゃん。
知りたがり屋の美耶の質問に、いつも真面目に答えてくれた優しい祖母。
お婆ちゃんが亡くなった時は、どんなに悲しんだか知れなかった。
そうした過去の記憶をかき分けて、今は前に進む。
背中に心の崩壊の音を感じながら。
「あった!」
ようやく見つけていた。美耶の心の中心。
それは、小さくて可愛らしいハートマークだった。
より一層美しく輝く心の結晶を両の手の平に戴くと、美耶の眼から涙がこぼれ落ちる。
◇ ◇ ◇
その記憶は、確かに美耶の記憶だった。
けれど、その感情は、その想いは、美耶本人の物では無かった。
光の結晶から、父や母の、そして姉や兄たちの想いが溢れ出す。
この世界に本物の愛という物が存在するのなら、それは正しく“愛”の結晶だった。
父がくれた約束、母がくれた優しさ、姉がくれた希望。
そして、姉や兄たちの心からの声援が、美耶の始まりの心を創ったのだ。
信じられない程沢山の愛の感情が、幼い美耶に注がれていた。
その愛に応えたい。
小さな美耶の中に芽生えた小さなその感情が、美耶の心の形を創り上げていた。
そうやって美耶の心の形は創造された。
それが、美耶の心の正体だったのだ。
「あっ、あ・・・」
次から次へと涙がこぼれ落ちる。
それは感謝と感激と、絶望の涙だった。
美耶は、自分が考え違いをしていた事を思い知らされていた。
犠牲になるのは、所詮は自分の命なのだから。
そう考えて、どこかで自分を納得させようとしていた。
けれど、美耶のその命は、自分だけの物では無かった。決して粗末にして良い物では無かったのだ。
自分の命は、両親から預かった想いであり、期待や希望その物だった。
その想いは預かったままで良い物ではなく、必ず誰かに引き渡さなければならない性質のものだった。
その想いは世の中に、友人や知人や肉親達に、そして、いずれは生まれ来る美耶の子供達に、引き継がれなくてはならなかったのだ。
面と向かって交わした約束ではない。
けれどそれは、命を繋ぐ者としての、魂の誓約だった。
それなのに、それなのに自分は、まだ何一つしていない事に気が付いたのだ。
「いやだ・・・」
背中に崩壊の音が近付いて来る。
なのに美耶は、この期に及んで本当の自分の気持ちに気が付いていた。
「あたし、死にたくない!」
後悔と絶望で心が真っ黒になる。
「嫌だ、嫌だ。このまま死ぬのは絶対にいや!」
美帆の花弁を握りしめる。
けれど美帆の力の結晶は、ここに来る迄の間に殆ど全ての力を使い切ってしまっていた。
「死にたくない。死にたくない、死にたくない!」
心の崩壊が直ぐそこまで近付いている。
歯の根が合わない。
瞳孔は開き切り、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。
何とか死なずに済む方法は無いだろうか?
Beに助命を請うか? でも、それでは何の意味も無い。
「今からでも、死んだ気になって頑張れば・・・」
でも、死は美耶の直ぐ足元まで迫っていて、自分は今にも死んでしまう所なのだ。
あたし、死んじゃうの?
「えっ・・・、死ぬ?」
その時、美耶の中に引っ掛かっていた最後の疑問が降りてきた。
そういえば、自分は一度死んだ筈ではなかったか?
自分の心はBeに殺されて、そして蘇った筈なのだ。
『あっ!』
それはまるで稲妻に打たれた様な衝撃だった。
全ての答えは美耶の中にあった。
自分はそれを思い出すだけで良かったのだ。
美帆は言っていた。
意識がスマホの電源のように深く切断されても、人の心にはそれを復活させる仕組みが有るのだと。
意識が死んだように深く間断されても、心の永続性を保とうとする機能である末那識が、それを繋いでくれるのだと。
「でも、どうやって・・・」
その答えも、美耶の手の平にあった。
心の始まりの記憶。
美耶の心は、始まりの記憶よって生まれた、この小さなハートマークを核にして出来あがっていた。
美耶の心はバラバラになってしまったが、記憶自体は今も美耶の脳髄の中にあって、消えてしまった訳ではないのだ。
それは正に天啓だった。
心が壊れる様子をつぶさに眺めていた美耶は、心がどうやって創られるのかを学んでいた。
心の永続性を保とうとする末那識が、美耶の脳髄から記憶をすくい上げ、この小さなハートマークに注ぎ込むのだ。
記憶はハートマークに触れることによって心の欠片となり、この小さなハートを包み込んで行く。
多分、記憶の順番なんて関係無い。
ハートの形に触れた記憶達は、順番なんて関係無く、必ずハートの形を維持しようと働くのだから。
全ての記憶を注ぎ込めば、それは必ず元の形の美耶の心となって出来上がる。
ハートの形こそが美耶の心の方向性であり、美耶自身であって、だから・・・、
『だから、あたしは復活できる!』
◇ ◇ ◇
“成る程、そう言う理屈だったか”
いきなり耳元で声が聞こえて、美耶は全身の産毛が逆立つ想いを味わっていた。
その声の主の正体は、
『Be!』
精神生命体であり、精神寄生体である彼は、今も美耶に取り付き息を潜めていたのだ。
「何故あなたがここに!」
“君自身は復活する方法を知らなかったが、いずれ見つける事を予測していた。私はそれを阻止する為に来たのだ”
美耶の手足が形を失って行く。
もはや美耶の心は全て崩れ去り、存在の担保を失った美耶自身も、姿を維持する事が出来なくなって来ていた。
今直ぐにもこの記憶を、小さなハートを末那識に繋がなくてはならないのに。
なのに、薄青く光る光の珠が、Beがようやく姿を現していた。
“その記憶を渡して貰おう”
光の珠から、目に見えない力が触手のように延びてきて美耶に触れようとする。
『あたしに触るな!』
消え掛けた手で美帆の花弁を握りしめる。
美耶はBeのその遣り方に本気で怒っていた。
その怒りが、青い光の珠をひるませる。
“まぁ良い。君に触れずとも、脳髄に記録された記憶を消せば良いだけの話だ”
けれど、今の美耶にはBeが言っている事を理解する余裕さえ無かった。
消えてしまった美耶の手から、美帆の花弁がこぼれ落ちる。
小さなハートが、光と、その形を失って行く。
“今度こそ間断の淵に沈め。魔神の娘”
パパ、ママ・・・、美帆、ごめん・・・。
そして、全ての手立てを失った美耶は、暗い後悔とともに間断の闇へと沈んで行った。




