第二十五話 間断の闇 その六
美耶は橘の花から力を借りて、心の中の虚空を飛んでいた。
飛ぶと言っても、勿論本当に飛んでいる訳では無い。
精神の領域内を移動するだけなら今の美耶にも出来る訳で、実際には視点の切り替えに近かった。
精神のチャンネルを切り替えるようにして、幾度かジャンプした結果、美耶は今、眼下に自分の心を見下ろす位置に現れていた。
大きい。
実際にどれだけの大きさなのかは分からなかったが、近づいてみてそれが実感される。
先程から膨大な欠片を散蒔いて随分な量の心を失っている筈なのに、そう小さくなった様にも思えない。
美耶の十六年間の記憶と感情は、それほど迄も膨大な物だったのだ。
◇ ◇ ◇
美耶の心の形が何故ハートの形をしているのか、近づいてみて、割とあっさりと分かった。
例えば人間の脳髄が、大脳、間脳、中脳、小脳と言った具合に様々な器官に分類され、それぞれが特定の機能を受け持っているように、心にも部位があって、それぞれの役割を担っていたのだ。
心の形は知性の表れだった。
言語知性、身体知性、音楽知性、論理知性。
心が司る知性は大まかに八つに分かれていて、美耶の心は論理知性が他の知性に比べて弱かった。
論理が弱いと言っても別に頭が悪い訳では無く、物事を論理的に捉えようとする指向性が弱かったのだ。
その結果、心の論理を司る部分が引っ込んでしまっていた。
その代わりに突出していたのが感情知性だった。
心の中の情愛を司る感情知性が発達している為に、美耶は相手の立場に立って物事を考えようとする性向が強く、またその事は、感情的に成り易く執着心が強い性格を美耶にもたらせていた。
美耶が人間関係に踏み込まず、仲の良い友達を余り作らないのは、この性向の裏返しでも有ったのだ。
本来、八つの知性のバランスが取れれば綺麗な円形に成る心が、論理の分野が引っ込み、その反対側の感情分野が突出することで、可愛らしいハートの形と成っていたのだ。
ふーん。
何しろ自分の心の事である。
自分の論理知性からそうした情報を得た美耶は、もう一度自分の心を眺め直した。
自分の心は歪だったのだ。
今の心が破壊されつつある現状は、正に自分の心の性向が招いた結果と言っても良かった。
けれど美耶は、自分の心を見つめながら微笑みさえ浮かべていた。
自分の心は歪んでいる。
けれど美耶は、その事が少しも嫌では無かった。
自分らしい、可愛らしい形の心で、この心の形がもたらせた結果なら、潔く受け入れようとさえ思えていた。
心の形はその人物の性質を表している。
この心は美耶の物であると同時に、この形こそ鈴木美耶その物だったのだ。
ごく当たり前の事に、すとんと納得が行った。
何も恥じる事は無いし、何者にも恥じ入る必要は無いのだと気が付いていた。
◇ ◇ ◇
今も美耶の心は壊れ続けていた。
表面から記憶と感情の欠片が剥がれ落ちて、少しづつ小さくなっている。
心は、一瞬、一瞬の記憶と、その時に感じた感情を糧に育って行く。
今、美耶の心では、Beの力によって逆回しの現象が生じているのだ。
「でも、何故だろう」
一つの疑問が解けると、また次の疑問が生じてくる。
玉葱の皮が剥けるように、何枚も、何枚もの心の欠片が剥がれているというのに、心の形が変わった様子が無いのだ。
美耶は昔、ハートマークの外側を十二色の鉛筆でなぞった事がある。
幼い美耶にとって、大きなハートマークを綺麗な形に描く事は難しく、小さなハートマークの外側を何度もなぞる事で、大きなハートマークを描こうとしたのだ。
黄色、橙色、赤色、紫色、青色。綺麗なグラデーションでハートマークを飾ろうとしたのだが、結局、何度遣ってもうまく行く事はなかった。
外側に向かうに連れハートの形が崩れ、丸くなってしまうのである。
祖母に訊ねた所、図形の外側をなぞって行くと、それがどんな形であっても、面積に対する凹凸の割合が小さくなって、最後には丸くなってしまうのだと教えてくれた。
心の欠片がどんなに薄くとも、重なって大きくなる物ならば同じ理屈になる筈なのだ。
「なるほど・・・」
これも、美耶の心の論理知性が答えをくれた。
普段抑圧されているくせに、美耶の論理知性は存外に物知りなのだ。
心は、それ自体が感情を生み出す装置と言えた。
子供が笑って遊んでいるのを見て、微笑ましいと感じる人がいれば、煩いと怒る人もいる。
失った子供を思いだして、悲しみを感じる人だって居るのかも知れない。
それ自体はニュートラルな出来事に、感情の方向付けをするのが心の形の役割なのだ。
心に堆積する記憶は、心の形によって感情的に歪められた記憶で有るゆえに、均一に堆積する事は無かった。
感情付けされた記憶は、心の形によって歪められている故に、むしろ心の形を維持しようと働くのだ。
心が層状に剥がれても形が変わらないのはそれが原因だった。
心の形は、その人の性格傾向を反映する。
形は単なる形では無く、その人の心がどんな方向を向いているのかを表す、心のベクトルとも呼べたのだ。
◇ ◇ ◇
ならば、自分の心のこの形は一体いつ、どうやって生じたのだろうか?
美耶の更なる疑問は当然だった。
結局、最終的にはその疑問にたどり着く。
そして答えは目の前にあった。
自分の心の中に入って、確かめれば良いのだ。
“止めなさいって。何で美耶ちゃんは、そう無茶ばっかりしようとするのよ?”
涼子の声が聞こえた気がした。
この場で待っていても、心が分解する事で、いずれは明らかになる事だった。
けれど、先程から論理的に考える事がいよいよ難しくなって来ていた。
心が壊れきって、考える事が出来なくなってからでは遅いのだ。
それは、今知らなければならない事だった。
「美帆、力を貸して」
橘の花弁を握りしめる。
自分が飛び込むことで、目の前の心は本当に壊れてしまうかも知れない。
けれどその情報は、美耶にとって本当に知らなければならない答えだった。それが例え、自分の死期を早める結果となってしまってもだ。
美耶は息を止めると、頭から自分の心の中に飛び込んでいた。




