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第二十三話 間断の闇 その四

辺りに花の香が薫る。

美耶の能力が働くとき、本人は具体的な何かを願ったりはしない。

特別なメソッドが有る訳では無いのだ。

何かを願って必ず叶えられる訳では無いが、誰かの為を想って悪い結果を招く事は無かった。

だから、娘を抱いて微笑む千夏の笑顔を守りたいと、ただそれだけを願っていた。


ざざざざざざっ!

一陣の風が辺りを吹き抜け、後ろから美耶の髪をなびかせてゆく。

何処からスーパーのレジ袋が飛ばされて来て、急ブレーキを踏む赤いスポーツカーの前輪に吸い込まれて行った。

一瞬だけ前輪の摩擦抵抗を消失させた車は、ABSシステムが制動の限界を超えてスピンを起こし始める。

赤いスポーツカーは、まるでそこだけを避けるようにして母娘の周囲をぐるりと回ると、側面からガードレールに激突していた。

『千夏さん!』

涼子が車道に飛び出す。

へたり込む千夏を引きずる様にして、母娘を歩道側に導いてゆく。

ベビーカーからは何も知らない赤ん坊の笑い声が響いていた。

美耶がスポーツカーに目を遣ると、男がエアバックの膨らむ隙間から逃れようと足掻いている。

どうやら運転手にも大きな怪我は無さそうだった。

助かった。


“何故だ。何故、能力ちからを使わない!”


美耶が今も震える膝を両手で支えていると、Beが訴えてくる。

「使わないって・・・」

“今、君は願っただけで何もしてはいない。未来予測も、運転者の行動予測も、現状の状況認識でさえあやふやなままだ。それなのに、何故あの親子は助かったのだ?”

まるで、母娘が助かったのは不本意みたいな言い方だった。どうやら彼は、美耶が細部に関わっていない事に不満の様子だった。

“運転者の精神に干渉する事も無ければ、PKサイコキネシスが使われた形跡も無い。それなのに何故こんな偶然が起こる?”

「何故って・・・」


“まだだ、もう一度だ。今度こそ君の力を私に示せ!”

『止めて!』

美耶の身体の内側で、何かがねじ曲がるような感覚が生じた。

Beが何かをしようとしているのを感じたが、それを止める手立ては美耶には無かった。


バクン!

ガードレールに激突した車の前輪が外れ、道路を転がり始める。

弾みながら転がるタイヤは弧を描いて遠ざかり、そして円を描いて美耶達に近づいて来た。

美耶が見守る中、タイヤは狙ったように涼子にぶつかって来る。

『あっ!』

転がるタイヤなど当たっても痛くは無いが、Beが狙ったのは涼子でなくベビーカーだった。

タイヤに弾かれたベビーカーが再び交差点に吸い込まれて行く。

慌てて追いかける涼子がベビーカーに追いついた時、交差点にバスが入って来た。


   ◇   ◇   ◇


左折するバスの運転手が涼子を見つけブレーキを踏むのと、ガキンと金属のぶつかる音がして、車体の下からオイルが流れ出すのは同時だった。

ブレーキオイルを失ったバスが、再び涼子に向かって加速を始める。

自分を盾にベビーカーを守ろうとする涼子と、必死の形相でバスの制御を取り戻そうとする運転手を眺めながら、美耶は呆然としていた。


Beがしきりに美耶の心を伺っているのを感じる。

“表層より、むしろ深層意識領域のシナプスが活性化している。こんなニューラルネットワークの在り方は生物学的には有り得ない”

ここに至ってようやく美耶は、Beという存在を、精神生命体の本質を理解していた。

身体を持たない精神だけの存在。

知識の希求者と言えば聞こえが良いが、要は自分が死なない故に他人の死を恐れず、痛みを知らない故に他人の痛みが分からない。

大切な人を失う心の痛みも、恐れる事の本質をも知らない。

“まさか現界ではなく、深層意識下の混沌、集合意識に働き掛けているとでも言うのか?”

それは、ただただ知識欲だけの、グロテスクな化け物だった。

こんな物、初めから分かり合える筈など無かったのだ。


『美帆! お願い、助けて!』


同じ知的生命体として、分かり合う事も出来るのではないか。美耶の中のそんな淡い期待が、最悪の事態を招いてしまっていた。

Beを退け、この場を何とか出来る者が居るとすれば、それは穂積美帆しかいなかった。


「任せて」


何処からともなく若い男が現れて、涼子とベビーカーを救い出す。

「大丈夫。赤ん坊も涼子ちゃんも無事だ」

大柄の男がバスの下に巨大なかんぬきを差し入れ、梃子の原理を使ってバスを歩道側に寄せて行く。

「姉ちゃん、こっちも何とかなりそうだ」

「美百合! 交通整理!」

「はいはーい! 今、遣ってまーす!」

若い女性達が赤い発煙筒をばらまいて、交差点に入ろうとする車を止めて行く。

あっという間に状況が収束していた。

皆見覚えのある顔ばかりで、良く言葉を交わすご近所さん達、でもその実体は美帆の姉弟達で、美耶にとっての兄妹達でもあった。

「美耶、大丈夫? 怪我は無い?」

美耶の隣で兄妹達を差配するのは、勿論魔神の長子である穂積美帆だった。

あ・・・。

どっと安心感が押し寄せる。

でも、まだだ。ここで崩れる訳には行かない。

美帆にはBeを滅ぼして貰わなければならないのだから。

「美帆・・・」


“君の力は危険だ”


いきなりBeが話掛けて来て、美耶は背筋を凍らせていた。


   ◇   ◇   ◇


“君の力が私の推測通りの物ならば、それは銀河系のパワーバランスさえ壊しかねない”

えっ?


「怖かった。怖かった・・・」

気が付くと、美耶が美帆に縋り付いて泣いていた。

それも、本人の意思に反して。

えっ、何で?

Beの危険を美帆に伝えなければいけないのに、いつの間にか美耶の心が、Beの造ったイミテーションの心に置き換えられてしまっていた。

そこに居たのは、最早美耶では無かった。

Beに身体を乗っ取られ、美耶の物まねをするただの人形だったのだ。


“このまま放置する訳には行かない。残念だが君にはここで消えて貰う”

Beがそう宣言すると、いきなり四肢の感覚が消失する。

それは、手足を切り取られた様な喪失感だった。


全ては美耶に力を使わせる為の計略だった。

身体の主導権を取り戻したと思わせて、実際はBeの手の平の上で踊らされていたのだ。


“待って、危険って一体どう言うこと?”

このまま消される訳には行かなかった。

時間を稼ぐ為にも必死でBeに問い掛ける。

“一連の流れの中で、君と関わりの無い第三者の人間が、君の利益の為に行動しているのだ。それも、自分ではそうと気付かずにだ”

“それがどうしたって言うの?”

“君の能力は当初、他人の行動を先読みする力と考えていた。けれどそれは、副次的な産物でしか無かったのだ。実際は人間の集合的無意識を介して、他人の意志に介入する能力である可能性が高い”

“他人の意志に介入する?”

呆然とするしかなかった。

Beの言っている意味が、全く分からなかったからだ。

“そうとも。そう考えれば全ての疑問に説明が付く。そしてそれは、個人が持つべきで無い危険な力。まさに魔神、いや悪魔の力と言えるだろう”

“違うわ!”

美耶は思わず反論していた。

“だって、美帆は言ったもの。この力は祝福だって、人々を幸せにする為の力だって!”

“それは見解の相違でしかない。自分の目的のために他者を道具として使えるなら、どんな世界も思いのまま創り出す事が出来るだろう。だが、それが本当に幸せな世界と言えるだろうか?”


聴覚が奪われる。

目の前の美帆が何を言っているか分からなくなってしまった。

それでも美帆は頻りに美耶を慰めている。

それは、本当の美耶では無いというのに。

“君の力は、君の身に余る物だ。私が解析して銀河の安寧の為に役立てるとしよう”


“待って!”

そして、視覚が奪われる。

全ての感覚を剥奪された美耶は、絶望のまま暗黒の中に突き落とされていた。


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