序
それは、美耶が高校に入って始めての六月の事だった。
その年は天候が安定せず寒暖を繰り返していたが、それでも制服が変わる頃になると、一度期に夏を迎えた感じがする。
日毎に新緑が深まる中、朝の時間帯でも直接日差しを浴びると汗ばむ位で、半袖の制服が心地よく感じられる季節になっていた。
美耶は毎朝、学校までの道程を友人達と歩く。
街道沿いにはバスも走っていて、使え無い距離でも無いのだが、雨が強く降らない限りは美耶は歩く事を選んだ。
中学から高校へと変わって、一緒に学校へ通う友人の顔ぶれも変わっていた。
新たな友達と歩くと、見慣れた筈の街も違った景色を見せてくれる様で、美耶は友人達と歩くこの街の風景が好きだったのだ。
そしてその朝も、美耶は昨日までとは違う変化を街の中に感じ取っていた。
◇ ◇ ◇
「あれっ、この香りって何だろう?」
路を歩いていて、得も言われぬ爽やかな香りを感じ、思わず足を止める。
「柑橘系、だよね?」
隣を歩いていた涼子が、香りの出所を確かめるように辺りを見渡して言う。
美帆が携帯に目を遣り、通学時間に余裕が有る事を確認してから美耶の手を引いた。
「いらっしゃい」
通学路を外れ、生け垣を縫うように進むと、甘い香りが強くなって来るのが分かる。茂みを抜けると古い木造の建物があって、そこは神社の境内になっていた。
辺りを見渡すと、目の前に若い葉を付けた桜の木があり、その向こう側に白い花を付けた木が植えられている。
近付いて、その花の香を胸一杯に吸い込む。
美耶にとって、それは懐かしい感じがする香りだった。
「右近の橘、左近の桜と言って、神社の境内には神殿に向かって右手に橘を、左手には桜を植える風習があるのよ。桜が終わって、今はそろそろ橘の花の季節だものね」
美帆がそう説明してくれる。
彼女は学校の勉強だけでなく、そうした事にとても詳しいのだ。
「へーっ、じゃあこれって、橘の花なんだ」
涼子が、すんすんと鼻を鳴らす。
「橘の実は非時香の木の実と言って、日本書紀では不老不死の霊薬とされているのよ」
「不老不死って死なないって事? それって、この木にも成るの?」
驚く涼子に美帆は首を振った。
「実際は香りが似ているだけみたい。本物の非時香は、常世の国と言う異世界に有るらしいの」
「まぁ、そんな所だよね。不老不死とか、そんな簡単に手に入る筈無いもの」
涼子が諦め顔をする。
けれど美帆は、美耶に向き直って訊ねていた。
「本物の非時香の木の実が有ったとしたら、美耶は食べてみたいと思う?」
それは真剣な眼差しで、美耶は時たま美帆がこんな表情をする事に気付いていた。
つい最近知り合ったばかりなのだが、彼女はたまに、全ての事を知った女神様みたいな貌に成るのだ。この質問も多分、言葉通りの意味では無いのだろう。
「それが、不思議な木の実を食べてみたいか、って意味で有ればイエス。不老不死を手に入れたいかと言う質問で有れば、ノウかな?」
「えっ、どうしてよ?」
涼子が訊いてくる。
「あたし、永遠に生きたいとか思わないし。だってそれって、親しい人達と一緒の時間を持て無いって事でしょ?」
その答えに涼子が不満げな声を漏らし、美帆は薄く笑っていた。
「さぁ、道草は終わりにして、そろそろ学校へ行きましょう」
そう言って、今度は鳥居の方向に歩き出す。
その美帆の後ろ姿に、美耶は自分の答えが合格出来たのだろうかと、そんな風に考えていた。




