ご機嫌な吹音
吹音が朝食を半分ほど食べ終わったとき、先ほどの看護婦さんが再び戻ってきた。
手には小さな袋を持っていて、俺に「お薬です」と言ってすぐに返ってしまった。
病院も病院で忙しいのだろう。
少し、ドアの向こう側で沢山の人の影が行ったり着たりと急がしそうにしている。
「美味しい、吹?」
相変わらず、黙ったまま。
ご飯と焼き魚、味噌汁を効率良く口に運び、俺はそんな様子の吹音を見守る事しか出来なかった。
いつもなら、何か話すのだが……。
コンコン……
「あ、はい」
「失礼」
ドアをゆっくりと開けた人は、白い白衣を着た、いかにも偉そうな人。
俺はさっとその場を立ち、一礼をする。
「座ったままで、大丈夫です。私は山野です、今回入院中の吹音さんの担当をさせていただきます」
「よろしくお願いします」
山野と名乗った人は、まだ若いが俺よりも年上で30代前半らしく見えた。
顔立ちがはっきりとしていて、横に伸びている眼鏡。そして、ストレートに伸びた、長くもないが短くもない髪。
けど、吹音はそんな先生をあんまり見ようともしない。
「先ほどの看護士が持ってきた薬の事で話しがあって、今大丈夫ですか?」
俺は少し吹音に視線を送ったが、少し満足そうにしている吹音を見たのか俺はあっさりと席を立った。
話しとはなんなのだろうか…。
そんな疑問の中、病室に吹音を置いて俺と先生は外に出る。
「今は落ち着いていられますが…。吹音さんは表情暗い子ですか」
急な質問に、俺は少し戸惑う。
今は俺も少し暗いかなと、感じていたが、暗くはないしどちらかと言えば明るいほう。俺は「明るいほうですが」と答えた。
「昨夜の深夜に、ここに運ばれてきてですね。団体の部屋にいたのですが嫌だと言い切るので、個別にしたんですよ。けれど、表情は暗いままで」
「はい…」
「朝方になって見回りの際に吹音さんが泣いておられました。私が側に駆けつけたのですが拒否されてしまって…。何度もあなたの名を呟いていました」
朝の白い光の中で、俺は声もなく吹音を思った。
きっと、寂しかったのであろう。誰もいない部屋で…。
「それで鎮静剤で一旦は落ち着かせて寝ていただき、喋り方が幼かったので脳の異常を調べたら」
先生は俺に、昨夜の吹音の事と脳の事を話してくれた。
脳は、特に異常は見られなかったが、何かの精神的ショックで心が閉ざしていて、今の現状を認めたくないせいか幼くなっていると言った。
精神的ショックで幼くなるケースは初めてならしく、先生も少し悩んだ様子で吹音が何か言い出すのは困ったと。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「結構ですよ、それが医師の仕事ですから。……それで、さっきの薬は鎮静剤です。でも、それを投与すると呼吸混乱が起きてしまったので、今朝、酸素マスクを」
あぁ…と、俺は小さな声で呟く。
実際、吹音が自らマスクを外した時、酸素は出ていなかった。その時ばかりは俺は焦った。
けど、吹音は何でもなかったから、大丈夫なんだろうと、勝手に思い込んだ。
「なので、投与する際は微量というか、半分の半分ぐらいでお願いします…との事。あ…・・・」
先生が途中で言葉を切る。
つられて俺も反応してしまった。
先生は袋を俺に見せながら説明を直した。
「鎮静剤ではなくて、栄養のドリンク剤でした……なんでこの話ししたのでしょう」
眉を寄せながらも、先生はその袋を俺に渡してくれて「では…」と隣の病室に入っていった。
「吹音ちゃん、おまたせ」
ドアを開けて吹音のところに行くと、さっきあったお膳は片付けられていてテーブルの上は綺麗になっていた。
再度、俺が椅子に腰掛けようとすると、吹音は少し腰を浮かせて、小さくベッドの上で跳ねている。
「あれ、なんだかご機嫌だね」
こっくりと、笑顔で俺に向かって頷く。
あぁ、この笑顔。この笑顔こそが吹だよな……。
そっと、俺は吹音の頬に手を伸ばす。
一瞬、跳ねていた腰が止まって、頬が強張ってしまったが、そっと撫でてやると、少しくすぐったそうに笑った。
そして、俺の手を、一回り小さな手でぎゅっと包み込んだ。
「ねーる、いっしょに」
握手でもしているような感覚で、吹は俺の手を少しぐいっと引っ張る。
少し話し方が幼くなっている事に、俺は然程驚きもしなかったが、体以外全てが幼くなってしまったと思うと、それは少し大変な俺の日常が始まるかも知れないと心の隅で感じた。
「カーテン閉めるからね。少し待ってて」
するりと手を解き、カーテンをぐるりと一周、ベッドの周りを閉めて、ついでにテーブルも退かすと、俺は詰めてくれたベッドへと入った。
こんな所見られたら恥ずかしいと思ったのだが、ノック音で身を起こせば大丈夫だろうと思った。
――吹……。ただいま
少し窮屈さを感じるが、俺は吹音を腕の中に入れて、聞こえもしないだろうけど、嬉しがっている幼い吹音に言った。
――怖い思いをさせちゃってごめんね。でも、もう一緒だよ。退院できたらいつもの暮らしに戻って……
ふぅっと、吹音の耳に息を吹きかけると、もぞっと、吹音が身じろぎをする。
「くしゅぐったい」と、少し照れているのだろう。
俺の胸にぴったりと顔をつけている吹音が何かを呟いた。
――結婚、しようね。
頭の上に手を置いて、そっと撫でてやる。
俺は一週間分の吹音の姿を、肌を、香りを全て補った。