あたたかいね。
音も無く静かに吹音はドアを閉めると俺と一瞬目を合わせたがすぐに目を逸らした。何となく気まずい感じが出ているのだろう。吹音自身、記憶はあるはずだ。でなきゃ今頃飛びついているはず。
俺は心の中にたまっていた灰を吹き飛ばすように小さなため息を心の中でつき、目線を足元で逸らしている吹音に声をかけてやる。
「吹音。おかえりなさい」
口をキュッと閉じてこちらを向いた吹音は、それでもその瞳は色が変わることもない。
どうしてだろうか。吹音に対してはもう怒ってもないし。吹音は何を思っているのだろう。
「吹?俺のこと忘れちゃったの?それとも、吹音ちゃん??」
違う。と、言いたいばかりに首を横に振る。
「私……」
固く結ばれていた口が解け、吹音は口を開けた。乾燥している唇がその言葉を表しているように見えた。
「円形のハゲになったみたいに頭がなってた。お嫁に行けない…」
言い終えるとがっくり、膝を地面に落とした。円形脱毛症の頭…きっとそれは、手術の後のことだろう。多分記憶が曖昧だから、ショックがあるのだろう。
俺は静かに近づいて、絵に書いたように沈んでいる吹音を軽々と持ち上げる。
「あれ、また軽くなってる。はげちゃってないよ、平気」
「降ろしてよ、ここ病院…」
抱っこをされて、少し照れているのだろう。本人は嫌がっているようだが、俺は話してあげるつもりはなかった。大人の吹音と再会できたのは本当に2ヶ月ぶりだし、こうして二人きりになれたのだから、くっついていたい。
吹音を落とさないようにベッドの上に腰を置いて。
温かな朝食が湯気を立てながら良い香りをするすぐそばで。
俺は幼い面影を何一つ残さない吹音の唇を自分の唇でそっと乗せる。
乾いていた唇が潤うように舌を器用に使って唇を舐めて、少し息が荒くなっている吹音を感じながら
そっと短い髪を撫でる。
「……ここ病院。バカじゃん」
唇を離すと普通に悪口を言われてしまう。
体は変わっていないのに、心と頭が変わってしまった吹音。俺は少し寂しい感じがしたが、それにさよならをするように、もう一度吹音に優しくキスをする。
「だからっ!」
「いいじゃん」
さっきまで「自分は哀れな子なんですよ。」という瞳を持っていたが、今ではいつかに見た瞳になっている。俺があまりにも吹音を見つめるものだから、吹音はふてくされた顔になって顔をぷいっと横にずらす。
それを見ると流石にこの状態では俺もきついので、優しくベッドの上に吹音の体を置いてあげて、椅子に腰を落とした。
美味しそうな朝食を目にした吹音は目をキラキラさせて、俺に許しを問うような顔をこちらに向けた。「食べてもいいよね、だって2つあるからさ。いいよね、いいんだよねぇ?!」とか、俺が吹音の気持ちだったらそういうだろう。
「一緒に食べようか。吹音」
頭をポンを乗せるとそこはまさしくも円形脱毛症のような手術後がある場所だった。
そこに触れてしまった瞬間、キラキラと輝かせていた吹音の目は瞬に輝きを失った。そして顔の表情を残念がったものにして、湯気を上げるお味噌汁と手に取る。
お味噌汁を啜る音が何とも“朝”という感じがして。
「風情がある音だね」
せめてもの罪滅ぼしとして、機嫌が直りそうなことを口にしてみる。前までの“いつも”なら笑ってくれて肯定してくれたのだが……。
「そんなん、音を立てて飲んだ方が美味しくなるし。CMのマネだよ」
少し辛口なコメントが返ってくるようになってしまった。
俺は驚いて少ししょんぼりした顔になって、吹音と同じようにお味噌汁を啜る。
「嘘だよ。少し辛口コメントでした。ごめんね?謝ってるからさ?ね?」
普段意地悪をしない吹音が何か勝ち誇ったような表情でこちらを向いてくる。
その表情はやはり、俺の日常に欠かせないものでいつまでも傍にいて欲しいと願う、俺のお嫁さんになる人だった。




