紙の正体
俺は揺られる吊り革を持ち、右腕にある腕時計を見た。9時前……。会社についてからすぐに帰れると思っていたのだが、召集の後のミーティングがあったりして3時間は会社にいた。
病院の面会時間は9時まで。吹音には「また戻る」と、伝えてしまったが、今からでは間に合わない。
はぁっと、電車の揺れに身を任せながら目をギュとぶって明日のプレゼンと吹音の事、そして家の事を思う。色々な感情が入り混じって、早く家に帰りたい気分だった。
いつもなら、家に帰れば夕食を作って待てくれている吹音がいて、今日の出来事を話し合う。時々夕食が出来てなかったりすると先に風呂に行くが、今はそんな生活は夢にも思えてくる。
最近、俺は疲れている事が吹音がいない現実で分かった。いつも疲れを癒してくれてるのは吹音であって、それ以外何もない。しかし、その吹音がいないとなると、俺は誰にこの疲れを癒してもらおうと、どうしたら感情を晴らせばいいのだろうか。
浮かない気分で電車を降りて、改札口を抜けたとき胸ポケットに入れてある携帯電話がブルブルと動いた。メールであれば1回の動きで終るが、今は何度も何度も動く。
自販機の前で立ち止まって、俺はポケットに手を伸ばした。
『もしもし、こちら丘の東病院ですが……』
吹音が入院している病院名が耳で聞こえると、俺の心臓が激しくものを打った。
吹音に何かあったに違いない……。俺は急いで病院へと向かう。
『先ほどもお電話をいたしましたが、夕食の下膳をする際に病室に伺った所、吹音さんが室にいなくて…もしかしたらそちらにいるのかと……』
「え……こちらは今、会社の帰りです。下膳の時刻はいつ頃ですか?」
『8時45分です、個別の部屋の方は遅くなってしまうので』
俺は病院に続く階段を登りながら電話をする。吹音は無断で病院を抜け出したのではないかと、脳裏で悟る。
「病院の外を探してみるので……」
『分かりました、私たちも探してみます』
荒々しく携帯を閉じて、病院の正面玄関をスルーする。きっと吹音は昼間の紙を捜しに行ってるに違いない…と、俺は考える。
悲しい顔をした吹音の横顔が暗闇の中で蘇る。よっぽど重要な紙だったのと、結構枚数があったことを思うとあれは……。
病院の裏は闇を照らす光がないためか、上を向けば満点な星空が見える。その中でごそごそと俺は動き回って、吹音を探した。
「吹、吹ー?」
もしからした寝てる人がいるかもしれないと思い、あまり大きな声では名を呼べない。でも、もし吹音の身に何かあったとしたら。
不安に駆られて俺は闇の中を歩く。汗が体全体から噴出し、近くのベンチに手に持っているハンドバックを下ろし、その隣に腰を置く。
駅を出てから休憩していなかったから、あれこれ30分は経ってしまった。もしかしたら病室にいるのかもと思ったが、吹音の病室の明かりは消えている。
俺は小さく、無数に光る星に話しかけるように吹音の事を想った。
「はぁ……吹音。どこにいるんだ…」
こんな蒸し暑い所にいたら、きっと倒れているかもしれない。1ヶ月も快適な部屋にいたから、体の温度調節が上手くいかなくて……。
紙を見つけたものの、暗くて自分の居場所が分からない始末+吹音は怖がりだから動けないのかも……。
どちらにせよ、俺は愛しい彼女が暗闇でうずくまっていて、助け手を求めてる吹音を想像した。
「吹音ー!」
寝てる人すみませんと、心で謝罪しながら、大きな声で名を呼んでみた。
せめて返事だけでも…と、思っていると後ろでがさりと草木が揺れる音。
「呼んだ?」
「吹音っ!?」
ざっと立ち上がって、後ろを振り向くと暗くても分かる、見慣れすぎて飽きてしまうのではないかと言う、俺よりも頭ひとつ分小さなシルエットが。
俺は吹音に飛びつく勢いで抱きしめた。
「どこいたんだよ…皆心配してたんだぞ。お前の好きな先生だって看護婦さんだって」
「え? 汗びっしょだね?」
聞こえてないふりなのか、どうなのか分からないが吹音は俺の胸の中で何か言う。
「今朝先生と話してたじゃん…俺が来る前」
ともすれば、「あぁ」とそんな声が聞こえる。とりあえず、立っているのも疲れた俺は吹音と一緒にベンチに腰掛ける。
で、今朝の話を聞くことに。
「先生がね、今朝この紙くれたの。さっき看護婦さんが取りに行ってくれたけど足りなくて。探してたの」
吹音はそう言って俺に手に持っている一枚の紙を渡すが、光がないので全く何が書いてあるのか分からない。
でも、一応「ありがとう」と伝えて紙を受け取る。
「じゃあ、俺に飽きたわけじゃないの? 吹音、最近冷たいから…」
「違うよぉ…多分」
吹音の口元が尖がっている。その口が無性に、暗くても可愛く見えた。俺は吹音を横に倒してあげて、その口を塞いだ。
吹音の喉からくぐもった声が聞こえて、俺の理性が一瞬飛びそうになったが後ろから声をかけられてそれは止められた。
「…あ、すみません。私ったら・・・」
申し訳なさそうに言うその声は山野先生。どうやら懐中電灯を持っていたらしくて、キスした所を見られてしまった。
俺は顔を赤くする前に、眼下にいる吹音の目から涙が出ている事に気がついた。
「吹…?」
「なんでもない……の。明日からいっぱいできるかなって」
一瞬、何を言ってるんだ?と俺は思った。けれども、先生が近づいて俺が持っている紙を照らしてくれると、吹音が言った意味が分かった。
吹音の退院許可が下りたのだ。
「退院届け……吹音はこれをを?」
「はい、あなたに見せたいと、今朝嬉しがっていましたよ」
落ち着いた先生の声。俺は体勢を戻した吹音の頬をふにっと軽くつまんだ。
「くしゅぐったいー」
吹音の顔がニコニコしているのだろう。
3人に和やかな空気が流れた。




