【短編小説】わたし、きれい?Bcc
キッチンを覗き込んだ廣右近は「おい、溜井なにしてんだよ、隠れるところなんてないだろ」と笑いながら声をかけている。
その後ろ、部屋の隅に立っている女が声を出さずに笑う。
黒い髪の隙間から見える赤い唇はひび割れていて、変色した歯はガタガタだった。
冗談だろ、そうに決まっている。
変な女に会ったなんて言ってドッキリでも仕込んでるんだろう。その女はメイクを施した廣右近の女か何かで、俺をビビらせて楽しんでいるに違いない。
そう思うと、暗いキッチンに向かってまだ喋り続けている廣右近に対して嫌悪感にも似た恐怖がじわりと浸みでてくる。
「おい、やめろよ」
俺はなるべく低い声で廣右近に声をかける。
だが廣右近はまだ「溜井、どこだよ、もう出てこいって」「つまんないぞ、スベってるから」などと言っている。
「廣右近、もうやめろよ。スベってるのはお前だって、溜井なんて来てないだろ」
俺が言うと廣右近は急に声を止めてこちらをゆっくりと振り向いた。
自分で「止めろ」と言ったにも関わらず、急に止められるとそれはそれで空恐ろしい。
心臓がガクガクと跳ね回る音が部屋に響いているんじゃないかと思えた。
真顔でこちらを見ていた廣右近は、白い歯を見せて笑い始めた。
だがその声が聞こえない。
全身をぞわぞわとした感触が包む。
廣右近も部屋の隅の女も同じように声を出さずに笑っている。
「やめろよ」
全力で怒鳴ったつもりが、掠れたような小さい声しか出ない。
全身に力を入れても極度の緊張で全く動けない。
二人の音のない笑いを見ていると、机の上に置いた携帯が鳴った。
その瞬間、弾ける様に身体が動いた。
「はい、もしもし」
「おい、真堂お前いまどこで何をしてる」
知らない男の声だった。
表示を確認すると非通知と出ている。
「は?お前誰だよ」
「いいから、いまどこにいる」
「よくねぇ」
お前は誰だ?なんで俺に電話をしている?
すると相手は苛立った声で言う。
「溜井だよ、いま部屋か?あぁ、お前いまあの部屋にいるだろう」
「溜井?」
溜井って誰だ?廣右近が言ってた奴か?俺はそんな名前のやつを知らない。
「そうだよ、おい、窓の近くに来られるか?一回窓の外を見ろ」
俺は言われた通りに背中に面した窓を振り向く。遮光カーテンもレースカーテンも無い窓は、雨や埃で酷く汚れていた。
窓の外には普段通りの景色が広がっている。特に何も無い。
電話を片手にこちらを見ている男を想像したが、誰もこちらを見ていなかった。
「なんだよ、外を見ろって」
こいつまで俺をおちょくってるのか?
言葉に怒気を滲ませながら言ってみても、溜井と言う男は至って冷静だった。
「それで、お前はいまどこでなにをしてるんだ」
溜井と名乗る男が尋く。
「なにって」
窓から視線を外して振り向くと、そこには何もない真っ暗な部屋が広がっていた。
「あれ?」
間抜けた自分の声が聞こえる。
そこにはなんの家具もない、廣右近も女もいない、ただの暗い部屋があった。
「そこはもうお前の部屋じゃないんだ」
溜井と名乗る男が言う。
ここはもう俺の部屋じゃない?
そんな馬鹿な。だが、確かに部屋には何も無い。
「何だ、これ。お前なにかしたのか」
溜井と名乗る男に尋く。
だが溜井と名乗る男は何も言わない。
俺は誰だ?本当に真堂と言う名前か?
立ち上がって部屋を出る。
夜空に赤い月が浮かんでいる。
俺は再び携帯を耳に当てて
「これは何だ」
と溜井と名乗る男に訊いた。
携帯はプープーと言う音で答えた。
俺は月を見上げた。
月の縫い目が裂けて目玉が覗き込んだ。
「そっか」




