明日、旅立つ君へ
これは一人の少女の物語です。少々きつめの表現もありますので苦手な方は読むのをお控えください。
「…………。」
少女はベットの中で寝返りを打つ。しかし窓のカーテンの隙間から射し込む、強い太陽の日差しが顔に当たり、仕方なく目を開けた後、ベットの縁を気にしながら、遠慮がちに伸びをした。
少女は上半身を起こすと、キョロキョロと、よく見知った、けれど何処か違和感のあるような無いような、そんな自身の部屋を見渡した。
『うん、異常は無い』と判断した少女は、ゆっくりとベットから立ち上がる。
ほんの少し開いた窓から、強い太陽の光と共に潮風が入ってくる。少女は窓を開け放ち、思いっきり外の空気を吸い込んだ。
ひとしきり深呼吸をすると、少女はじっと窓の外を眺める。一面に広がる青い海と、一面に広がる青い空。清々しい程の青一色。
「〜〜〜……………。」
少女は声にならない声を上げながら、今度はベットの縁を気にすること無く、大きく伸びをした。
(何だか、こんなに大きく伸びをしたのは、かなり久しぶりのような気がする。)
そんな事を考えていると……
『ぐきゅるるる……』
お腹の音が鳴った。少女は恐る恐る自身のお腹を擦る。
部屋に置いてあったイチゴジャムとマーガリンの菓子パンをもしゃもしゃと食べていると、
『ピンポーン……』
インターホンが鳴り、一瞬少女はビクリと肩を震わせる。食べかけのパンを机の上に置き、恐る恐る玄関へ行くと、ドアスコープから外を窺う。
ドアの前に立っていたのは、少女と同じ位の年頃の少年だった。
(……アラタだ。)
少年アラタの姿を見て、イツキはホッと息を吐く。どうにもインターホンの音と、ドアを開ける時の緊張感に慣れない。
「よう、イツキ。」
アラタはさも友達にそうするように、少女に向かって軽く右手を上げた。アラタはその両手に釣り竿二本と、釣り道具、そして水の入ったバケツを手にしている。
『イツキ』と呼ばれた少女は、アラタにペコリと深くお辞儀をした。
「今日も屋上に行くぜ!」
少女、改めイツキは、二度ペコペコと頷いた。どうやら肯定の意味らしい。
二人は住民が使う階段とは違う、建物の外側に備え付けてある金属の非常階段を、カン、カン、カンと小気味良く音を無らしながら上った。
屋上へと上ってきたイツキは建物の周囲をキョロキョロと見回す。
辺り一面、360°、どの方向を見ても海、海、海。イツキ達の住むマンションの周囲は、海に囲まれていた。イツキ達の住むマンションは五階建てで、建物自体は二階の半分程くらいまでが海に沈んでいる。
そして地平線の彼方まで、島一つ見当たらない。その先に何があるのかもわからない。
イツキはここから見渡す風景がとても気に入っていた。
見慣れた風景なのに、何だか不思議だと感じる。
「ほら、そんな所で呆けてないでお前もやれ。働かざる者食うべからずって言うだろ?」
そう言ってアラタは、釣り竿を一本イツキに渡した。
イツキはいつも通りに、アラタに貰ったエサを釣り針に付けて海に放り投げ入れる。
暫く待つと、釣り竿の先が大きく上下に揺れた。イツキは慌ててリールを巻く。
「慌てるなよ。釣り竿の先の動きと振動から魚の動きを読め。」
アラタのアドバイスにイツキは素直に頷いた。
イツキは慎重にリールを巻き上げ、何とか10cm程の魚を釣り上げることができた。
しかし……
「…………………。」
イツキは喜ばない。魚をじっと見つめたまま固まってしまった。
「あははは。イツキは相変わらずその魚の見た目が怖いんだな。」
アラタがイツキをからかう。イツキはその魚の目が人間のそれと酷似しているようで、何だか魚に見つめられているような気がして落ち着かないのだ。
いや、この魚だけでは無い。ここで釣れる魚の全てがこの目をしている。
いや……果たして魚だけだっただろうか?
以前はこんな風では無かった気がする。でも、それがいつの事だったのかは思い出せなかった。
「ほら、バケツの中に入れちゃえば大丈夫だろ?」
アラタが水の入ったバケツを差し出す。イツキはゆっくりと魚をバケツに入れた。バケツの中で魚は元気に泳ぎ出す。視線が外れた事でホッとしたイツキは釣りを続けようとしたその時……。
「……………。」
再度視線を感じて、思わずバケツのある方向を見てしまった。そして、バケツの中から、魚がこちらを見ていた………気がして、思わずイツキは目を背け、釣りに集中することにする。
イツキは人の目が苦手だ。仲良くなればそんなには気にならないが、それでもじっと見つめられると落ち着かない。
そして、イツキは話すことができない。声を出す事ができないのだ。
生まれつき……だったと思う。思うというのは、イツキがここに来る以前の記憶が無いから。
ただ、気が付いたらここにいた。いつも通り(だと思う)自分の部屋のベットで眠っていて、朝起きて、そうしたらアラタが来た。そしてここでの生き方を教えてくれた。
そもそもそれ以前の記憶が無いから、この世界にも直ぐに馴染めた。
そういうものなのたと思えば、すんなりと受け入れられた。
ただ……、時折感じる違和感を除いて……。
「ほら、イツキ、引いてるぞ。」
イツキはハッとして、また慌ててリールを巻く。そんな事を十数回繰り返すと、次第に辺りが赤らんできた。
「だいぶ暗くなっちまったな。ここらで切り上げるか。夜に外にいると危ないからな。急いで片付けよう。」
アラタの言葉にイツキは頷く。
アラタとイツキは手際良く釣り道具を片付け、手分けして荷物を持ち、階段を下りる。
イツキはふと夕日の沈む方向に目を向けた。
その時、背後にゾクリと寒気が走る。
太陽のある方角とは反対の、夜の闇が広がりつつある方角から無数の自分に向けられた悪意に満ちた視線を感じたからだ。
イツキは怖くなり、できるだけそちらの方向を見ないようにしながら、アラタの後ろにピタリと付いて歩く。
イツキとアラタの部屋は隣同士だ。二人の部屋の前まで来てアラタは立ち止まる。
「わかってると思うけど、夜は絶対に外に出るなよ。危ないからな。わかってるとは思うけど、一応…な。」
アラタはイツキに気を使ったのか、『わかってると思うけど』と二回言った。つまり、それほど大事な事だから念を押したのだ。
それはイツキも十分理解していた。というか、先程の事で話に聞くよりも、より一層実感した。
昨日まではアラタがまだ明るい時間までで終わらせてくれていたから気付かなかったが、こんなにも怖いものだと思わなかった。
太陽が沈みかけている今でさえこんなにも恐ろしいのだから、怖がりなイツキが夜に外なんて出られるわけがない。
昨夜不用心にも窓を開けて寝ていたのだと思い出すだけでも身震いする。夜に窓から外を見るのも、今となっては恐ろしい。
今日帰ったら窓にカーテン以外にも目隠しをしないといけない、とイツキはより危機感を持った。
「それと、明日はたぶん雨が降るから休みだ。雨に濡れると厄介だから。お前も外には出るなよ。」
それを聞いて、イツキはもっと気が滅入るのだった。
「あ、それともう一つ、これもわかってるとは思うけど、俺以外の誰かが来ても絶対にドアを開けるなよ。面倒な事に巻き込まれるから。」
それを聞いてイツキは余計にゲンナリした。
部屋に帰ってからイツキは段ボールを探したが見つからなかったので、仕方なくノートを切り取り、テープを貼ってつなぎ合わせ、大きな紙にして窓に貼った。少なくともこれで外が見えないし、外からも見えない筈だ(窓の開閉はできる)。
それから今日一日であった事を日記に書いてベットに入る。
温かい布団にくるまると、疲れていたのかイツキは直ぐに眠りに就いた。
『ザザッ……ウゥーーー……ピーポーピー……』
『…ザッ……速報が入りました。○○市△△区のアパートで……』
その夜、イツキは夢を見た。それはとてもとても奇妙な夢だった。しかし朝起きると夢の内容がどんなものだったのか、すっかり忘れてしまったのだった。
翌日、イツキが外に出ると空も海も真っ赤に染まっていた。雨のせいだな、と直感的に思った。
昨日アラタが言った通りに、雨が降った。空には真っ赤な厚い雲が一面に広がり、そこから透明な水と真っ赤な絵の具が混ざったような赤い雨が降り注ぐ。
これに濡れるとベタベタになるし、服に色もつくので面倒な事極まりない。
そしてその赤い雨に染まったように、海も真っ赤に染まっている。まるで呪いのような禍々しさだ。
(アラタが、雨の日は良くないものが釣れちゃうからダメなんだって言ってたな。)
その、良くないものが何なのかはイツキも知らない。けれどアラタが言うのだからそうなのだろうと納得していた。
そもそも、この雨の中で釣りをしたいとも思えなかった。
(……………。)
特にやることも無かったイツキは、部屋の本棚に埃を被っていた絵本を取り出す。
(これ……好きだったな……。)
と考えて、ふと我に返る。
(好きだった?それ……いつの事?私は一体……何を?)
『ピンポーン……』
インターホンが鳴った。イツキはゆっくり静かにドアに近付き、いつもの様にドアスコープからそっと外の様子を覗く。
「………………!!」
ドアの前に立っていたのは人の形をした黒い影だった。イツキは恐怖で声にならない悲鳴を上げる。
(そういえばアラタが、アラタ以外の誰かが来ても絶対にドアを開けるなって言ってたな。)
イツキは昨日のアラタの言葉を思い出す。
『ピンポーン……』
再度インターホンが押される。イツキはゆっくり足音を立てないよう後ろに下がり、ベットの上で布団の中に隠れて震えた。
『ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……』
『ドンドンドンドンドンドンドンドン……』
ドアを開ける気配がないとわかると、影は狂ったようにインターホンを何度も何度も押し、ドアを何度も何度も強く叩いた。
(いやいやいや…、怖い怖い怖い怖い!!助けてアラタ!!)
それから数十分程インターホンは鳴らされ続けたが、影は中に誰もいないと思ったのか突然静かになった。
(帰った……のかな?)
しかし、もう一度ドアスコープを見て確認するだけの気力はイツキに残っていない。ただ布団の中で固まる事しかできなかった。
それから十分過ぎ、二十分過ぎても外から物音は聞こえなかった。もちろんインターホンも鳴らされない。
それでも、外にまだいる可能性があるなら物音を立てるわけにはいかない。イツキは仕方なく、覚悟を決めて確認することにした。
物音を立てないように、ゆっくり、ゆっくりドアに近付く。
緊張と恐怖で心臓の鼓動が速くなる。
『ごくり』
一度唾を飲んでから、慎重にドアスコープから覗いた。
決論、そこには既に誰もいなかった。
「はぁ〜………。」
イツキは安心したのか深く息を吐き、その場にへなへなと座り込んだ。
(良かった……帰ってくれた。)
『キュルルル……』
安心したらお腹が空いたのか、イツキのお腹が鳴る。イツキはメロンパンを頬張った。口の中に広がるほどよい甘いさ。その甘さにイツキの緊張も解れる。クッキー生地とふわふわのパンの食感の違いが面白い。
イツキは黒いビニール袋にゴミを入れる。ゴミが溜まって少し膨らんできたが、まだまだ入りそうだ。
ゴミ袋が溜まったらアラタが引き取ると言っていた。
(そういえば、アラタが色々してくれるけど、私、アラタの事を何にも知らないな。)
アラタはここで私の身の周りの事を色々してくれている。
例えば食料であるパンをくれ(釣った魚を交換するんだって。誰とだろう?)、色々な相談にものってくれ(イツキは話せないが、何となく雰囲気で察してくれるらしい)、そして色々教えてくれる。
(お話できたらきっと楽しいだろうな。)
そんな夢物語の様な想像をしていると、いつの間にかイツキは眠ってしまっていた。
『…ザザッ……お前が……ガッ……お前さえ……ガン…ガンッ……』
「イ……ツキ……イツキ!」
(アラ……タ……?)
イツキはアラタに起こされ、ベットの枠に寄りかかりながら、いつの間にか眠っていた事に気付く。
(あれ?なんでここにアラタがいるんだろう?)
アラタはイツキの肩に手を置きながら、ホッと肩をなで下ろし、深い溜め息をついた。
「いや、何事も無かったなら良かった。外にドアを何度も殴ったような跡があったから、悪いけど鍵を開けさせてもらった。」
ああ、とイツキは思い出した。アラタは心配して駆けつけてくれたんだなと理解したイツキは、大丈夫との意味を込めてコクコクと二回立てに首を振った。
「怖かったよな。一人にしてごめん。」
アラタはイツキを抱きしめる。
「〜〜〜〜〜…………!」
イツキは突然の事に驚き、声にならない悲鳴を上げる。そしてどうして良いのかわからず、そのまま固まって動かなくなった。
時間は経ちその日の夜、つまり今現在、アラタはイツキのベットの横に布団を敷いて眠っている。
(………それが……なんでこんな事に………?)
今夜からイツキを心配したアラタも一緒に住むことになったのだ。
(お…お……男の子と一緒に住むなんて……)
イツキは顔を真っ赤にして俯いた。
しかし、安心したのも事実だった。正直、あんな事があった後で一人になるのは不安があった。
イツキはアラタに感謝しながら、今日一日あった事を日記に書く。
今日も色々あったなと思い出しながら、自身もベットに入る。そして直ぐに眠りに落ちた。
『ザザッ……パパ……ママも……大好………』
そうして見た夢は、アラタのおかげで安心感が増した為か、とても楽しい夢だった……と思う。
翌朝、イツキが目を覚まして窓から外を覗くと、昨日の鬱々とした雰囲気とは打って変わり、とても清々しい青色が広がっていた。窓から入ってくる少し冷たい潮風も心地良い。
「う……ん…、もう朝か……?」
寝ぼけたアラタがイツキに話しかける。アラタが隣で寝ている事をすっかり忘れていたイツキは一瞬ギョッとして驚いた。
(ああ、そうだった……。)
ようやく思い出したイツキは、それでも何だか落ち着かない。ソワソワしているイツキを見てアラタは何となく察し、ポリポリと頭を掻く。少し頬が赤く染まっているようだ。
アラタが赤くなっているのに気付き、イツキの体温も急に上がった。これは……もしかして……。
『ボスンッ!』
「ん?イツキ?どうし……」
背後から物音がしてアラタが振り向くと、そこにはベットの上で意識を失っているイツキがいた。
「くそっ……何で……」
アラタは唇を噛んだ。アラタはイツキの部屋を見回し小さく舌打ちすると、アラタは意を決してイツキの身体を抱きかかえ、自身の部屋へと運んだ。
(ここは……何処だろう……?)
イツキが目覚めるとそこは真っ暗で、周囲を見回すも何も見えない。
『パパ!ママ!こっちに来て!お花がキレイよ!』
幼い少女が左手で母親の右手を、右手で父親の左手を引っ張り、花が咲き乱れる花畑へと連れて行こうとしている。
少女は満面の笑みで、そんな少女を、両親も愛しさを込め微笑んでいた。
『すご〜い!ごちそうがいっぱい!』
草むらの上にレジャーシートを敷き、その上に母親が愛情を込めて作ったお弁当を広げる。少女はそれを見て瞳を輝かせた。
大きめのタッパーに少女の好きなおかず、同じ大きさの別のタッパーには色んな具材が入った沢山のおにぎり、少し小さめのタッパーにはお菓子や果物が詰められている。
『ママ、ありがとう!どれも美味しい!ママはお料理お上手ね。ね?パパ?』
両親はお互いの顔を見ると、どちらからともなく『ふふっ』と笑った。
母親が少女を抱き寄せる。
『ありがとう。ママも貴女が喜んでくれてとっても嬉しいわ!』
そんな少女と母親を後ろから父親が抱きしめる。
『ああ、そうだな。ママの料理は世界一だ。お前達は俺の世界一の家族だよ。』
『きゃははは、パパ、ママ、苦しいよ〜!』
少女が無邪気に笑う。
『パパも、ママも、大好き!』
そんな幸せそうな家族を、イツキは少し離れた場所から複雑そうな顔で見つめていた。
『最近、帰るのが遅いんじゃないか?』
イツキの背後から父親の冷たい言葉が飛び、イツキは振り返る。
『それを言うなら貴方もでしょ?』
夫婦の冷めた会話が流れる。
『あの子の為にも、もう少し早く帰って来れないのか?』
『バンッ!』と母親が強く化粧台を叩く。そして父親を指差した。
『そう言うなら貴方こそ早く帰って来なさいよ!いつも残業残業って、家の事全部私に任せっきりにして、母親だからって私ばっかりに負担をかけて!!いい加減うんざりなのよ!!』
腕を組んで立つ父親は、表情一つ変えずに冷たく言い放つ。
『自分の事ばかりか……。母親失格だな……。』
『それを言うなら貴方だって父親失格よ!!』
そんな両親の会話を、少女はベットの中で蹲り、震えながら聞いていた。その両目には沢山の涙を溜めて……。
イツキはその光景を見て、そしてそっと目を背けた。
『これでお別れね。この子は私が連れて行くわ。養育費……忘れないでね。』
少女は母親と手を繋いで、父親を見送っている。
『ああ、わかっているよ。』
父親はしゃがみ、少女と目線を合わせた。
『逸稀……。これからはパパとは別に暮らす事になるけど、いつでも会えるからな。何かあれば直ぐに連絡しなさい。お前のスマホに連絡先を入れているから。』
イツキ、改め逸稀は一つ頷くと、父親の首に手を回して抱きついた。父親はそれに応えるようにポンポンと優しく頭を叩く。
『じゃあな。』
父親はそう言うと、逸稀の手を優しく解きタクシーへと乗り込んだ。
そしてタクシーは容赦無く出発する。
逸稀と、逸稀の肩を抱く母親を残して……。
『これからはママと二人よ。逸稀に寂しい思いはさせないからね。』
そんな母親と幼い自身の姿を見つめる逸稀。
「…………………。」
逸稀は自身の両手の拳を強く強く握った。血が滲むほどに……。
『ガンッ!!』
床に倒れ込む逸稀とその前に拳を震わせ立つ母親。逸稀は自身のお腹を抱えている。
その傍らには何かのプリント用紙がビリビリに破かれ無造作に捨てられていた。そこには児童相談所の文字。
そして、破壊され、中の部品が散乱した逸稀のスマホ。
『お前さえ!お前さえいなければ!生まれて来なければ!!私は!!』
母親は容赦無く逸稀のお腹を、何度も何度も蹴る。
『……………っ』
それを必死に耐え続ける逸稀。
『ハァッ……ハァッ……』
息を切らせる母親。動かなくなった逸稀を見てハッとする。
『お前が悪いんだからね!私を怒らすから!後、片付けておきなさいよ!!』
そう言って自身の行いを無理矢理正当化して、母親は逃げるように出かけて行った。
「ぐっ……。」
全身を駆け巡る痛み。口の中は少し金属の味がする。
この頃になると、母親は日常的に逸稀に暴力を振るっていた。逸稀の世界は血の色に塗り潰される。
母親は逸稀が部屋から出る事を一切許さず、食事もコンビニで売っている、安くて日持ちする菓子パンばかりになった。
それでも逸稀は母親を嫌い、憎む事すらできなかった。あの、幸せだった頃の思い出を、忘れる事ができなかった。
(きっとママは忙しいから。だから、忙しいママを私が怒らせなければ、あの時の優しいママに戻ってくれるはず。)
そんな願いを捨てずにはいられなかった。
そんなある日……
逸稀は何時ものように長時間母親から酷い暴力を振るわれ、もう、指先一本動かせなくなった。目は見開かれ、その口からも、耳からも血が流れ出す。
『ウ〜〜……』
『ピーポーピーポー……』
遠くからけたたましく幾つかのサイレンの音がするが、もう逸稀の耳には届かない。
『ああぁぁ〜〜っ!放せ!放せぇ〜〜っ!!』
母親の絶叫が周囲に響く。
その様子を、逸稀は高い場所から無表情で見つめていた。そして天を仰ぐ。その瞳から涙が一粒流れ落ちた。逸稀が全てを思い出した瞬間だった。
「全部……思い出したんだな……、逸稀。」
アラタの声に振り向いた逸稀は、ゆっくりと一つ、頷いた。
そこは見覚えのある、アラタと共に過ごしたアパートの屋上だった。
バラバラと、まるでガラスが割れた様に世界が崩れて行く。
「行く……つもりなのか……?」
答えは、逸稀の瞳から流れ落ちる涙。アラタは逸稀の華奢な身体を抱きしめる。
「嫌だ!行かせない!俺は……俺はっ……!!」
逸稀はアラタの腕の中で手を伸ばし、アラタの涙を拭った。
「アナタはワタシ……。」
アラタは逸稀の手を握る。
「そうだ。俺はお前だ。お前を守る為だけに生まれた、もう一人のお前。」
辛い辛い現実から、逸稀の心を守る為だけに生まれた、逸稀のもう一つの人格。
アラタはこれまで、逸稀が母親に殴られ、蹴られるその時に逸稀の人格と入れ替わり、逸稀を守ってきた。
そして、もうすぐ死ぬ逸稀を、この精神世界に連れて来て、何とかその命を繋いで来た。
逸稀を心から愛してくれた、たった一人の人。
逸稀はあの絵本を思い出した。お姫様を助ける王子様のお話。もしかしたらアラタは、逸稀自身が創り出した王子様なのかもしれない。
「決意は……変わらないんだな……?」
逸稀はただ一つ頷く。
「なら、俺も行くよ……。俺はお前の一部だし……それに……。」
少し間を置いて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
世界は完全に崩れ落ち、真っ暗闇な世界の中に、たった二人残される。
「その方が寂しくないだろう?」
逸稀はただ、頷いた。
『ピチチチチ……』
窓の外の小鳥の鳴き声で目を覚ます。
逸稀はゆっくりと上半身を起こそうとしたが、全身に激痛が走り、諦めてベットに戻った。
天井も、カーテンも、ベットも布団も、全てが白色。ベットの右側には機械があり、その管が逸稀の身体に、左手には点滴が繋がれていた。
(ここは……?)
逸稀が戸惑っていると、『シャッ』と仕切る為のカーテンが開けられる。
そこには、あの日別れた、けれど少し老けた様子の逸稀の父親の姿があった。
「逸稀!目を覚ましたのか!」
そう言って父親は逸稀を抱きしめようとするも、逸稀が怪我をしていることをハッと思い出し、思い留まる。その目には涙が溜まっていた。
看護師は慌てて医師を呼びに行ったようだ。
「お前が、目を覚ましてくれて良かった。」
と、父は安堵していた。そしてあの日あった事を話してくれる。
「以前から、お前達の暮らす部屋から大きな物音や悲鳴、怒鳴り声が聞こえてきていて、近所の人達が不審に思っていたそうだ。」
(ああ、世界で一人ぼっちだと思っていたけど、気にしてくれる人達もいたんだな)と、逸稀は心が温かくなるのを感じた。
「あの日、いつもよりも長い大きな物音の後、急に静かになったのを訝しんだ近所に住む女性が警察に連絡してくれたらしい。」
ママは?と聞こうとして、逸稀は自身の声が出ない事を思い出す。
「声が出なくなったのは、肉体的にも、精神的にも大きなショックを受けたからで、そのうちまた話せるようになるだろうと先生は仰っていた。心配しなくて良い。」
逸稀は頷いた。
「そして……」
父親は少し間を置いた後、
「ママは、警察に捕まったよ。もう二度と、逸稀には会わせない。」
強い決意を思わせる目つきで、逸稀に誓った。
「ママには、男がいたようだ。自分で働いたお金や、俺からの養育費を貢いでいたようだな。だから、お前が邪魔になったんだろう。だからと言って俺が逸稀を引き取れば養育費は貰えなくなるからな。」
父親は逸稀の頭を優しく撫でた。その温かな手は、何処かあの少年の手を思い出す。しかし……
「もう心配はいらない。これからはパパが絶対にお前を守るからな。」
逸稀の目から一粒の涙が流れる。
「さぁ、もう少し休みなさい。ずっと側にいるから……。」
次に目覚めた時、逸稀はあの世界の事や少年の存在を忘れていた。
でも、それでも良かった。
少年は逸稀と一つになり、逸稀の中でずっと生き続けるのだから。
逸稀と共に……。
虐待され、死の淵を彷徨った逸稀の魂と、逸稀を必死に守ろうとしたもう一つの人格アラタのお話でした。世界には様々な事情で辛い目に遭う子供達がいます。そんな子供達が皆幸せを掴める世界になれば良いなという願いを込めて、最後はハッピーエンドにしました。子供達だけでなく、大人にとっても辛い世の中ではありますが、頑張って生きた先にはきっと希望があると信じて今日も生きていきます。




