沈むアスタリスク
最近、向かいの家に日本人の家族が越してきた。
お母さんは、たぶん同じカナダ人。日本人のお父さんに、ハーフの男の子が一人の三人家族。
数日前、家に挨拶に来たようだけど、ちょうどスノボの練習中で、僕は会うことが出来なかった。
そして今、僕はその家の庭を、壁からこっそりと覗いている。
あの子、一人で何してるんだろ。
休日のお昼過ぎ、男の子は庭にしゃがみこんで、ずっと地面をいじくりまわしていた。
ここに来る前、自分の部屋から見ていたけれど、それも合わせるともう1時間くらいずっとあのまま。
まだうっすらと雪が残る庭先、雪だるまを作るわけでもなく、いったい何をしているのやら。
「よく飽きないな……珍しい虫でもいるんだろうか」
なぜだか妙に気になって、僕も観察の止め時を完全に見失っていた。
もう少し近くで見てみようと一歩踏み出した時、バキッと小枝の折れる音が大きく鳴る。
「あ……」
「……あ」
僕とその子はポカンと口を開けたまま、お互い顔を見合わせ固まってしまった。
その子は僕よりも背が小さい。サラサラの青みがかった銀髪に、真ん丸の茶色い瞳。それが午後の日差しに照らされ、きらきらと輝いていた。
どれくらい経った頃か、ようやく我に返った僕は、慌ててその子に自己紹介をする。
「は、初めまして。僕、向かいの家に住んでるんだ。えっと……名前は、ライアン。ライアン・アダムス、君は?」
その子は不安げに目を伏せ、しばらくちらちらと僕の方を見てから、ようやく口を開いた。
「え、あの……那緒」
「那緒っていうんだ。ねぇ、何歳? 僕は11歳なんだ」
「……8歳」
「8歳!? てっきり6歳くらいかと思った!」
小柄だったから、驚いて歳を聞いて思わず大きな声を出してしまった。
すると那緒はムッと頬を膨らませて僕を睨み付ける。
「……チビで、悪かったね」
「あ、ごめん。あはは……はは」
「別に、いい」
そうは言うものの、那緒の頬は変わらず膨れたままだ。
「あ、そうだ! 英語、話せるんだね!」
「少しだけなら……母さん、カナダ人だから」
「そうなんだ。でも、すごく上手だよ」
辿々しくはあるけれど、那緒の言葉はスッと耳に入ってくるようだった。
「あ、ありがと……えっと、ライアン」
「へへ、うん!」
それが、那緒との初めての出会いだ。
近所には他に子供が居なかった事もあって、僕たちはすぐに仲良くなった。
毎日のように遊び、僕が誘った事だけど、那緒も自然とスノボを初めた。
けれど、そのセンスの良さには、さすがに驚いたけど。将来、きっと凄いスノーボーダーになるって思った。やっと、自分と同じレベルのライバルが出来た気がして、ワクワクしたのを覚えてる。
初めてエアーを飛べるようになって、太陽みたいに眩しく笑う那緒の顔は、今も瞼に焼き付いている。それを思い出す度、僕の鼓動は全力で走った後みたいに早くなるんだ。
こんな毎日が、きっとずっと続くんだろう。
そう、確信を持っていたのに……
病室の窓ガラスに映る、情けない自分の姿。見たくもないのに、毎日毎日、必ずそれが目に入った。
その度に僕は、頭から布団を被り、無理矢理に現実を忘れるように、何度も繰り返し目を閉じる。
「今日、あいつと話をしたよ、ライアン」
毎日のように僕に会いに来るコーチ。
いつもは、布団にうずくまる僕に話もせず、ただそばにいるだけなのに。この日だけは違っていた。
「……那緒と?」
「あぁ。あいつの方は、幸い、競技に影響のでる怪我ではないらしいよ」
「そう……」
少しだけ顔を出して、コーチと話す。
コーチは相変わらずの無表情だったけれど、どこか暗い影を落としているように見えた。
「すまない……お前の事を話した」
「!? どうして! 言うなって言っただろ!?」
自分でも驚いた。こんなに感情をむき出しにしたことなんて、今まで無かったから。
けれど、どうしても許せなかった。
「どうしてっ……那緒は悪くない! ただの接触事故なんだ……余計な事を言って、那緒が罪悪感を抱くだけだ!」
「……しかし、いずれわかることだろう。それに、お前はどうか知らないが、俺は、あいつを許すことは出来ない。理由はどうあれ、天才と言われたプロボーダーの未来を奪ったのだから」
コーチの言葉に、思わず手が出そうな程に頭に血が昇る。
震える拳を片方の手で押さえ込んで、コーチを睨み付けた。
「出てってくれ……頼むから。もう、二度とここに来ないで」
それを言うのがやっとだった。
コーチは何も言わず、静かに病室を後にする。
誰もいなくなった病室で、僕は再び布団の世界に逃げ込んだ。
無理矢理に目を閉じても、事故の後、意識を失う前に見た、那緒の表情が何度も甦ってくる。
『う……うぅっ、ライアンっ……ライアン……どうしようっ……俺、俺のせいで……』
すすり泣くような声が聞こえた後、胸のあたりに何か重いものがのし掛かったような感覚があった。
たぶん、那緒が俺の上で気を失ったんだと思う。僕も、その後の事は覚えていない。
気がつくとベッドの上で、その後、医者からの説明を、コーチと共に聞いたんだ。
「ふ……う……くっ」
押さえられないくらいに涙があふれて、どうしようもなかった。
何の涙なのだろう。那緒が傷ついていること? スノボが出来なくなったこと?
それとも、もう那緒と、これまでのような関係では無くなることの涙?
心の中がガラクタやゴミでいっぱいになったみたいに、ぐちゃぐちゃで……もう、自分でもわけがわからなくなっていった。
そして、数ヵ月がたった頃。退院した僕の前に、那緒が現れた。
「ラ、ライアンっ……退院、おめでとう」
「那緒!? ……うん、わざわざ、来てくれてありがとう」
もともと細かったけど、久しぶりに会った那緒は、さらに痩せたみたいに見えた。
「違うな。おめでとうなんかじゃないや……俺のせいなのに」
ボソッと聞こえるか聞こえないかの声で、確かにそう聞こえた。
「な、那緒? そんな、暗い顔しないでよ。僕ならほら、もう大丈夫だから……」
嘘を、ついた。
わざとらしい僕の言葉を見抜いたのか、那緒は暗い表情のまま、目を合わすことなく話し始める。
「俺……もう、スノボ辞める……ライアンの人生を台無しにしたんだ。自分の事が許せないっ……俺、もう滑れないよ……」
その言葉を聞いた瞬間、プチンって頭の中で弾けたみたいな音が鳴った。
「だめだよ……」
「え?」
無意識に呟いた声に、那緒は戸惑いの表情を浮かべていた。
「那緒は、絶対に凄い選手になるんだ。那緒には……僕の代わりに、これからも滑り続けてほしい! 僕のスタイルを受け継げるのは、那緒しかいないから! それが、僕の唯一の願いなんだ」
話しながら、ゆっくりと那緒のそばに寄る。
すると那緒は、怯えたように、一瞬すっと体を引いた。
それが自分でも意外なほどにショックで、それまでの笑顔があからさまに引いていくのがわかった。
俯いていると、突然、那緒が僕の体を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だよ、ライアン……それがライアンの願いなら、俺……もう一度滑るから」
「那緒……うん、ありがとう……那緒なら、絶対に大丈夫だよ」
僕は、精一杯の笑顔を那緒に向けた。
自分の中に、こんなに澱んだ感情があったなんて……嬉しさなんてない、ただひたすらに、吐き気を催していた。
那緒が、この時どんな顔をしていたのか、考えもしない自分自身に。
――――スノーボード ハーフパイプ世界大会 アメリカ、コロラド州
あれから、もう4年か。
那緒は、あの煌太とかいう日本人と出会って、再び前に進み出そうとしている。
それなのに、僕は……
決勝の滑り、那緒は確実に自分の可能性を広げていた。
本来のスピード狂とも言える、ダイナミックさ。それに加えて、技の精度と安定性も、昔より格段に上がっている。
そんな滑りを目の前で見せられて……僕は自分信じられないくらい、その姿に嫉妬していた。
もう、滑ることは叶わないのに。
「どうした? 難しい顔をして」
「ん? ふふ、ちょっと、滑りたくなっちゃった」
僕は笑って誤魔化した。
今さら、こんな感情があったことに気づくなんて、恥ずかしくてとても他人に悟られたくはない。
大会が終わり、休憩所でコーヒーを飲んでいると、ガンと大きな物音が聞こえた。
音のした方を見ると、見覚えのある男がゴミ箱を蹴り倒していた。
(確か……ジェームス・ライト。2位の選手、だったかな)
隅の方に座っていたから、誰もいないと思ったんだろう。
彼はゴミ箱を何度も蹴り、「クソ!」と大声を出していた。
(どうするべきか……変に動いたらバレそうだし)
気配を消していると、ジェームスの呟くような声が聞こえた。
「くそっ……どうして、あんなやつが。あいつのせいで……ライアンは引退したのにっ」
その言葉にハッとした。なぜ、この男が知っているのか。
どこにも漏らしていない情報だ。
僕はジェームスを、席からじっと見つめる。
肩を震わせ、悔しさに泣く背中。
僕はふと、昔の事を思い出した。
退院してから、もしかしてって思って、一度だけボードに乗ったことがあった。
滑り出したボードに、一瞬だけ可能性を感じたけれど、すぐに足が言うことを聞かないのがわかって、完全に打ちのめされた。
もう、無理なんだ……
それを身をもって感じてしまって、僕は誰もいないところで、一人悔しさをぶつけた。
今ここにいるジェームスみたいに。
「ねぇ……大丈夫?」
後ろから声をかけると、ジェームスはビクッと体を揺らす。
「は?……ら、ライアン!? どうして……」
赤く腫れた目で、驚いてパクパクと魚みたいに口を動かす姿。なぜだかそれが、妙に可笑しかった。
「ふ……驚いた?」
笑いかけると、ジェームスは驚いたまま、困ったように目を泳がせる。
人間に怯える野良犬みたいな男。
それが、僕のジェームスに対する第一印象だった。