6 平穏とは程遠い身バレ
王宮から屋敷へ戻って数日。仮婚約の儀は、なんとか無事に終わった。いや、終わったには終わったけれど、あれを「うまくいった」と言っていいのかは、微妙なところ。
結局レイ王子の本心もなにも分からないまま。
でも、私はもう決めた。破滅フラグは全部、へし折ってやるんだから。
そんな意気込みを胸に、今日は久しぶりに屋敷の外へ出た。書類を届けるついでに、市街地の広場を通ったとき――見覚えのある濃紺の髪の毛が視界に飛び込んできた。
(……えっ、ノクス!?)
つい、足が止まる。
まさか、こんなところで再会するなんて。っていうか、どうして王都に? ゲーム内ではベルフェリア家が所有する駐屯地で魔法の練習をいつもしている設定だったはず。
私が驚いて固まっている間に、彼がこちらに気づいた。
「……リリー?」
その呼び方に、偽名を教えたことを思い出し、胸がちくりと痛んだ。
偽名で接したのに、まだ覚えててくれてたんだ。嬉しい反面、すぐに誤魔化さなきゃって焦る。
「ひ、久しぶり! ノクスだよね?」
笑って手を振ると、彼は少し戸惑った顔で、でもちゃんと頷いてくれた。
「……ああ。久しぶりッスね……」
そう言った瞬間、なんだか彼の目が泳いだ気がした。あれ、私なにか変だった?
でもそんなのおかまいなしに、私はぐいっと近づいていく。
「ほんと偶然だね! また会えるなんて思ってなかったよ。元気だった?」
少し距離を詰めただけで、彼が肩をピクリと動かした。
(あれ、近すぎたかな……?)
でも、やっぱり懐かしくて。ノクスは、私の隣の家に住んでいた子に似てる。なんだろう、見た目もそうだし、雰囲気とか、視線の向け方とかがそっくりで。
それで、つい、自然に――近づいちゃう。
「アネットお嬢様、そろそろお時間です」
(――って、うそ。なんで今、呼ぶのコフィ!!)
背後から走ってきたメイドの声が、場の空気を一気に変えた。
ノクスの顔が、さっと青ざめていくのが分かる。
「……アネット?」
うわー、言っちゃった。名前。
私は苦笑いしながら、首をすくめた。
「……ごめん。本当は“リリー”って偽名だったの。その、嫌われるのが怖くて」
自分でもよく分からない言い訳だった。でも、嘘をついてるつもりじゃなかった。ただ、あの時は“アネット・フォン・ベルフェリア”として出会って、ノクスに嫌われるのが怖かった。
ノクスは、まるで呼吸を忘れたみたいに固まってた。
「……あんたが、ベルフェリア家の、あの……王子の仮婚約者?」
目を伏せて、私は小さく頷いた。
ノクスも知ってたなんて……。レイ王子と私が仮婚約したことって、もう広まってるのかな?
ってか……ノクスってベルフェリア家の騎士見習いのはずなのに、アネットとは顔見知りじゃなかったんだね。
まぁ、あの傲慢なアネットが、騎士見習いと顔を合わせるわけないか。
「うん。……私もびっくりしてるんだよね、いまだに。私が王子の仮婚約者だなんて、信じられないっていうか……本当なら出会いたくなかったというか……」
どこまで話していいのか分からず、ごにょごにょと語尾が小さくなる。正直に言えば言うほど、ノクスの顔がどんどん真剣になっていく。
(ああ、やっぱり、偽名はまずかったかな……)
でも、その瞬間の彼の目が、あまりに複雑で。動揺、困惑、戸惑い、そして――少しだけ、悲しそうだった。
ノクスは、言葉を飲み込むように黙ったまま、じっとこちらを見ていた。
その視線の熱に、思わず私は目を瞬かせる。
「……ど、どうしたの?」
「……いや。……なんでもねぇ」
小さな声。だけどその声に、かすかに揺れがあった。
(あれ、なんか様子がおかしい?)
気になって覗き込むように顔を近づけると、ノクスの肩がわずかに跳ねた。
「顔、赤いよ? もしかして熱でもある?」
ひょいと手を伸ばして、額に手を当ててみる。ノクスの瞳が驚いたように見開かれた。
「な、何すんだよ……っ!」
あ、怒らせちゃった……顔が赤かったのも、怒っているせい? でも、怒鳴るような声じゃなかった。どこか掠れた、必死に抑え込んだような声。
「ご、ごめん! 私、つい……」
慌てて手を引っ込める。でもその時、彼の手が私の手を掴んで止めた。ぎゅっと強く握ったわけじゃない。ただ、逃がさないように、震える指先で優しく。
「……っ、あんたが……あのベルフェリア家の……アネット・フォン・ベルフェリアだったなんて……」
小さくそう呟いた彼の顔は、どこか悔しそうで、悲しげで、痛々しくて。
(えっ……なに、その顔……どうして?)
理由が分からず、ただじっと彼の顔を見つめ返す。ノクスは、俯いてぽつりと続けた。
「……“リリー”だと思っていた。俺なんかに気さくに話しかけてくれて……他人行儀じゃなくて……」
「うん、ごめんなさい……」
彼の震える声に、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように痛んだ。
「……まさか、王子の“婚約者”だったなんて」
ノクスの声が、かすかに震えた。
だけど、私はその意味を正確には受け止められず、ただ笑ってしまった。
「……うん、私も驚いてるよ。だってあの時は全然知らなかったもん。気づいたら仮婚約だなんて言われてて、“へ? 私?”って感じだったし」
あっけらかんと笑う私に、ノクスはほんの一瞬、目を見開いて、それから目を伏せた。
「……そーッスか。……あんたは、いつも……そんなふうに」
聞き取れないほどの小さな声だった。だけど、その響きには、どうしようもなく切なさがにじんでいた。
私は――その意味にも気づかないまま。
「……あんたは、もう少し、男に対して警戒心を持つべきッスよ……」
ノクスがそう言ったのは、私が彼の手をぎゅっと握り返した直後だった。え? でも手を握ってきたのはノクスのほうじゃなかったっけ……?
けど、その声には怒りよりも――焦りとか、戸惑いとか、そんな感情が滲んでいた。
「それって、私が手を握り返したから? でもあれ、ノクスが――」
「……だから、そういうとこだって言ってんだろ」
言いかけた言葉を遮るように、ノクスが少しだけ声を荒げた。なんか怒ってる? いや、怒ってるっていうより……?
彼はすぐに目をそらして、声を落とした。
「……令嬢が、男相手にそんな無防備でどうすんだよ。俺だからよかったけど、他の男だったら――」
「え……?」
「……額に触れたり、距離を詰めたり、手を握ったり……」
ああ、たしかに私、いろいろしてたかも。けど、それって普通じゃないの? 風邪ひいたかもって思ったら額に手を当てるし。
「ノクスだから、なんだけどなぁ。ノクスは大丈夫でしょ?」
思わず聞き返すと、ノクスの眉がぴくりと跳ねた。
「俺は大丈夫じゃない!」
珍しく声を上げた彼に、私は目をぱちぱちと瞬かせた。
ノクスは目をそらして、耳まで赤くして、ぎゅっと唇を結んでいた。
「……そっか、ノクスって結構繊細なんだね。ごめんね」
私がそう呟いたら、ノクスの肩がびくりと動いた。けど、私のほうはあまり深い意味ではなくて。だって、彼が頼りになるのは本当のことだったし。
「繊細っつーか……違う。あんたが無防備すぎんだよ」
「そうかなあ……」
私がふわっと笑って肩をすくめると、ノクスは私をまっすぐに見つめてきた。
「あの、さ……昔、近所に住んでた子に似てるって……ソイツ、どういう子なんだ?」
「うん、それがね……!」
私は目を輝かせて語り出した。
「年下で、すっごく頼れる子で、でもたまに拗ねちゃう子で。モテモテなのになぜか彼女いなくて……私の事からかってくるけど優しくて……しかもね、私が落ち込んでると、ずっとそばにいてくれるの! 可愛いでしょう?」
「………………」
隣を見ると、ノクスの表情が止まっていた。
「……? どうしたの?」
だけど、段々とノクスの表情が、陰っていくのが目に見えてわかる。
「ソイツにも、あんな感じで触れてたのか?」
「えっ? うーん……そうだったかも?」
「……そーかよ」
ノクスの声は、すごく低かった。
「……もう聞きたくねぇ」
「え?」
「いや、なんでもねーッス」
彼はふいっと顔を背けたまま、低い声で呟く。その耳が、うっすら赤く染まっているのに気づく。
「ノクス……もしかして、怒ってる?」
「怒ってねぇよ」
ノクスの目は少し伏せられていた。いつものきりっとした瞳とは違って、どこか不機嫌そうな――いや、寂しそうな……?
「拗ねてる?」
「拗ねてもねぇ」
「え、じゃあ、なんなの?」
「……知らねーッスよ」
なんだか分からないけど、すごく面倒くさくなってる……!
私がぽかんとしていると、ノクスはぼそりと呟いた。
「その“俺に似てる”とか言ってたやつにも、そうやって触ったり笑いかけたりしてたのかよ……」
「えっ?」
不機嫌そうに視線を逸らし、口をとがらせたその姿は、まるでむくれた猫みたいだった。
「ノクスって、もしかして……拗ねてる?」
「拗ねてねぇって言ってるじゃないッスか」
「でも顔に書いてあるよ、“拗ねてます”って」
「書いてねぇ」
そう言いながらも、ノクスは明らかに目をそらしている。口調は強いけど、表情はどこか寂しげで。なんだろう、胸の奥がちとした。
「ごめんね、別の人に重ねちゃったりして……」
私はそのままノクスを抱き寄せ、濃紺の頭を優しく撫でてみた。彼の体がぴたりと固まるのが分かる。
「ノクスはノクスだもんね? 比べるもんじゃないよね。私にとって、ノクスは――あなただけだよ」
「――っ!」
さっきまでむくれていた彼が、言葉を失ったように動かなくなった。至近距離で見るノクスの耳が、じわじわと真っ赤になっていくのが分かる。
「……あ、ごめん。嫌だった?」
私はそっと離れようとしたけど、ノクスはそのまま動かず、俯いたままだ。
「きゅ、急に、そういうの、ずりぃだろ……」
「えっ?」
「……なんでもねぇ」
聞き取れなかった言葉の意味を考えるより早く、私はくすっと笑って彼の頭をもう一度軽くぽんぽんと撫でる。
「あ、そうだ! コフィに呼ばれてたんだった。じゃあ、またね! ノクス」
そう言って微笑みながら私は背を向けた。ノクスの沈黙と、息を呑むような気配が、やけに鮮明だった。
まさか、それがノクスルートのフラグを色んな意味でへし折る瞬間になるなんて、私はまだ知らない。