5 王子様との出会い、そして仮初めの契
応接室に通された私は、誰にも気づかれないように膝の上で拳をぎゅっと握っていた。
(ついに来た……。レイ王子との仮婚約の日……!)
(まさか、本当に……仮婚約の話が現実になるなんて)
ゲームの中のアネットは、父親の政治的な策略で、学園入学の一年前に王子との仮婚約を結ぶことになる。
王家と公爵家──立場は釣り合っていても、気持ちはまるで伴っていなかった。
(確か……アネットは、自分の従者を使って嘘の噂を広めさせてたんだよね。“王子に相応しい令嬢”って……)
噂だけを聞けば、私──アネットは誰もが羨む完璧なご令嬢だ。でも、それは全部作り物の虚像。
ゲームの中のレイ王子は、それを見抜いていた。
(というか、現実に広めさせてるんだけどね……今まさに)
思わず、部屋の隅にいたコフィと目が合った。
そのコフィはびくっと肩を震わせ、怯えるように視線を逸らす。
(うわ……めっちゃ嫌われてる)
こんな世界で、私のことを信じられる人なんて、いるわけない。
だから、せめてゲーム通りに事を運んで、早くフラグをへし折らないと。
──そんな風に思っていた矢先、扉が静かに開いた。
「リュミエール第一王子、レイ・アルベルド・リュミエール陛下でございます」
レイ王子の従者の声が聞こえ、背筋が自然と伸びる。扉の向こうから現れたのは、記憶に焼き付いた通りの、銀髪の美貌の少年。
氷のような青い瞳。端正すぎる顔立ち。完璧すぎる出で立ち。
──攻略対象・その一、レイ王子。
まさにゲームで見たその姿。凛とした表情、淡く冷たい水色の瞳。
だけど私の記憶にあるレイ王子は、常に“冷笑”を浮かべていたはずだった。
今、目の前の彼が見せている表情も──あれは、そう。作られた“笑顔”だ。
(ああ……そうだよね。アネットってゲームの中では嘘の笑顔ばっかり見せていて、それを王子に見抜かれてたんだっけ……)
私は、父である公爵が話を進めるのを聞きながら、なんとか冷静を装おうとする。
「──というわけで、王子様。娘アネットとの仮婚約、よろしくお願い申し上げます」
レイ王子は、目を細めながら私の方へと歩み寄る。
「アネット・フォン・ベルフェリア嬢。お噂は、かねがね……」
その声には、皮肉とも取れる響きがあった。レイ王子はただ軽く、私の手を持ち上げて形式的に礼を取るだけ。
「王族に相応しい教養と品位、そして美徳を持つ方だと伺いました。──多くの人から、ね」
(うわ、それ完全に“嘘の噂”って見抜いてる言い方じゃん……)
ごくりと唾を飲み込み、どうにか笑顔を作る。でも、笑おうとすればするほど、表情が引きつってプルプル震えてしまう。
「……は、はい……。あの、よ、よろしくお願いします……っ」
ぎこちない敬語、震える声。堂々たる悪役令嬢らしからぬその態度に、レイ王子の眉が僅かに動いた。
「……」
その沈黙に耐えられず、私は慌てて続ける。
「ほんとにあの、あたし、未熟者で、でもっ、殿下のご迷惑にならないように、が、頑張りますので……!」
震えながら、まるで言い訳をするように必死に言葉を重ねる。
自分でも何を言っているのか分からないほど噛みまくる。声は震え、背筋には冷や汗がつっと流れていた。
王子がじっとこちらを見ている。けれど、その視線は冷ややかなものではなく……少し、困惑しているようにも見えた。
「……変な方ですね。噂とはずいぶん違う」
思わず漏れた王子の言葉に、「え?」と間抜けな声を出しそうになった。
「私の元には、“完璧なご令嬢”の話ばかりが届いていたので。あなたは、……まるで別人のようだ」
「えっ……? あっ……え、ええ、まあ……はい……」
しどろもどろになるアネットを見て、レイは思わず小さく笑った。
「……本当に、変わっている」
彼の笑みは今度こそ、嘘ではなかった。
そして私もまた、無意識にそれを悟っていた。
胸が、一瞬だけちくりと痛んだ。
けれど、王子の目に“嫌悪”がなかったことに、私はむしろ──戸惑っていた。
ほんの少しだけ、彼の口元がやわらいで見えた気がした。それはもしかしたら、最初の“ズレ”なのかもしれない。
アネットと王子の関係が、ゲーム通りには進まないという──
運命の、兆しだった。
(……あれ? 今の笑顔、ちょっと、優しかった……?)
仮婚約という形だけの出会い。
しかしそこに芽生えた、たった一つの“違和感”が、未来を大きく揺るがすことになるとは、まだ誰も知らない──。
「あなたの噂話だとたしか……魔法の才能があるとか……」
(いやいやいや、違います。違うんです、王子様……。その噂、私じゃない過去の私が流させたやつですけど、まさかこうして突っ込まれる日が来るなんて……!)
内心ぐるぐるしているのに、口はうまく動いてくれない。
ただ焦って、視線をさまよわせて──
「す、すみませんっ……! あの、その……きっと、誤解、です……っ!」
とっさにそう口にした。言葉になっているのかも怪しい。
でも、必死だった。今さら作り笑いなんてできなかったし、言い訳もうまくできなかった。
レイ王子は、そんな私をしばしじっと見ていた。
瞳の奥が、何かを探るように、揺れている。
「……誤解、ですか」
「は、はい……!」
声が裏返っていたと思う。
けれど王子は、それを笑わなかった。ただ静かに、私の言葉を受け止めるように反復する。
「なら、私は……あなたの“誤解ではない”部分を、知る必要がありますね」
「──え?」
一瞬、意味がわからなかった。
その言葉の意味が、脳内でゆっくりと翻訳されていく。
(いま……この王子様、私のこと……知りたいって言った?)
真っ直ぐに見つめられていることに、気づく。
今までの“攻略対象”としての王子ではない。この世界で生きている、ひとりの人間として、私を見ていた。
「……この婚約が、形式だけのものかどうか。判断するためにも」
最後に王子は、いつかの未来の言い訳みたいに、言葉を付け加えた。
けれどそれでも、私の心臓はどくん、と跳ねた。
「お会いできて、光栄でした。アネット嬢」
言葉の通りに、微笑んだまま立ち去っていく彼の背中を見送りながら、私は放心したように呟く。
「なに、いまの……イベント発生してないのに、なんで……?」
これは、本当にゲームなのか?
本当に私は、悪役令嬢“アネット”なのか?
この世界の王子様は、私が知ってる彼よりも──
ずっと、厄介で優しくて、予想がつかない人なのかもしれない。