43 笑顔の裏に隠された顔、絶対暴いてやるんだから。
翌朝、学園に戻った私は、どこか現実感のない空気の中を歩いていた。
夜明けとともに脱出したエーベルト侯爵の屋敷。
血に染まった床、鎖に繋がれていた自分、牢の鍵と魔力封じの罠、そして――大量の屍。
侯爵の首と腹、山のように積まれた死体の数々。
あの異様な光景を、私は決して忘れられない。
そして――クロード王子。
私の牢を開け、敵の執事として振る舞いながら私の身体に触れ、言葉巧みに心を揺さぶってきたあの男。
どこにもいなかった。
使用人としての名簿にも記録はなく、手がかりはゼロ。
仮面舞踏会で踊ったあの人。
私を牢で弄んだあの人。
カシスの香水をまとい、妖しく、冷たく微笑んだ、あの――
クロード・グレイヴァード王子。
私がその名を口に出すことはなかったけれど……
(でも……彼はなにも、残していかなかった)
使用人として潜んでいた形跡も、あの男が部屋を使っていた痕跡も、全部――消えていた。
本当に“最初からいなかった”みたいに。
だからこそ、余計に確信してしまう。
あの冷たい手。
あの目の奥にあった決意とも悲しみとも言えない色。
あの夜の口づけの温度。
(……あれは、確かに“クロード王子”のものだった)
だから怖い。
彼が“なにか”を終わらせたのだとしたら。
彼自身の存在すら跡形もなく消し去るように慣れた手つきで――すべてを始末したのだとしたら。
私は彼の背中を知ってしまった。
どこまでも冷静で、どこまでも優しく、そしてどこまでも“深く沈んでいく”ような……そんな背中。
けれど――
「おや、おはようございます。ベルフェリア嬢」
その声に、私は心臓を跳ね上がらせた。
振り向くとそこには――いつも通りにくすんだ薄薔薇色の髪をふわふわと揺らしながら、整った顔に微笑みを湛えたクロード王子がいた。
制服の襟もきちんと整えられ、いつもと同じ優雅な立ち振る舞い。
魔法学校の廊下で何気なく生徒たちの間を歩くその姿は、あまりにも「日常」の中に溶け込んでいた。
まるで、昨夜あの屋敷にいたのは別人だったかのように。
「……っ」
喉が詰まった。声が出ない。
私はすれ違いざま、息を飲んで硬直してしまった。
彼はそんな私の反応すらも意に介さず、ほんの少し口角を上げ――あの、いつもの優雅な笑みで、静かに言った。
「今日も、良い一日を」
言葉も仕草も、完璧に、なにもかも"いつものクロード王子"だった。
でも。
ほんの一瞬――すれ違いざまに私を見た彼の瞳に、あの夜と同じ色が宿っていた。
あの夜、牢獄で見た深い影の色。
私に手を伸ばし、心の奥まで探り当てた、妖しく冷たい夜の色。
(……やっぱり……あれは……)
目の奥が熱くなり、震える指先を必死で押さえる。
あの甘い香りも、声も、仕草も、間違いようがなかった。
彼は――確かにあの屋敷にいた。
でも、何もなかったかのように振る舞うのは……なぜ?
(……貴方は、いったい何を知っていて、何を隠しているの?)
すれ違った背中を見つめる私に、クロード王子はもう振り返らなかった。
そして、もうひとつ。
エーベルト侯爵が死んだ――
その噂は朝の光と共に学園中に広まった。町からの使者が届けた正式な報せだったらしく、魔法通信の掲示板にもその名が記されていた。
《エーベルト侯爵、屋敷全焼により死亡。原因不明。屋敷跡は全壊》
ただの文字列にしか見えなかったけれど、私の背筋を冷たいものが這うように滑り降りていく。
(……燃えた、のね。全部)
私が見た血と死体の山。
そしてあの夜。闇の中に立っていた――彼の姿。
クロードのことも結局わからないまま。夢だったような気さえしてくる。
「ベルフェリア様」
控えめな声に振り返ると、桜子が立っていた。
少しだけ顔色が良くなっている。いや……いつもよりほんの少しだけ表情が柔らかい。
「ロッティ……いえ、町の方から……手紙が届いたんです」
エーベルト侯爵に買収されてしまった、小さな町。
ロッティ。
白い花の木が道の両脇にずらりと並んだ、穏やかで、あたたかな町。
桜子としてゲームの中で歩いたその風景は、なぜか今も鮮明に焼きついている。
石畳をやさしく覆う花びら。
淡く香る甘い匂い。
花の間を抜けるように、子どもたちの笑い声が響いていた。
町の中央には、円形の広場があって、季節になると露店が立ち並ぶ。
祭りのときには、住民たちが手作りの飾りを持ち寄って、白い花に似たリースを門や窓辺に飾るのだと、イベントのテキストで語られていた。
それは、まるで物語の中だけに存在するような――幸せの原風景。
「……あの風景、好きだったな……」
思わず、小さく口にしていた。
桜子が不思議そうにこちらを見るが、私はすぐに笑ってごまかす。
白い花の木が並ぶ、穏やかな町――そこに、見えない鎖が張り巡らされていたなんて。
ゲームでは語られなかった真実が、私の胸に重くのしかかる。
(でも……)
だからこそ。
あの場所に、平和が戻ったということが、どれだけ尊いことか――わかる。
もう、誰にも壊させない。
白い花が、また穏やかに揺れる日常を、守らなくてはならない。
桜子は一呼吸置いてから続けた。
「エーベルト領主がいなくなったことで、管理体制が変わったそうです。町役場も再建が始まっていて、父も母もやっと、普通の暮らしができるって……」
「それは……本当に良かったわ」
私は心からそう思った。
けれど、彼女の瞳には、どこか複雑な色が浮かんでいた。
「人が亡くなったことを喜ぶわけにはいきません。けれど……わたしは少し……安心したんです」
桜子の小さな手が、ぎゅっとスカートの裾を握りしめていた。
それをそっと取って、私は両手で包み込む。
「もう大丈夫よ。桜子。もう誰にも傷つけさせないわ」
私がそう言うと、桜子は一瞬だけ目を見開いて、少し照れたように笑った。
「……ありがとうございます、ベルフェリア様。……やっぱり私は……」
その先は、言葉にならなかったみたい。
だけどその微笑みだけで、十分だった。
春の陽だまりのようなぬくもりが胸の奥にじんわりと広がっていく。
私の選んだ道は――たぶん間違ってなかった。そう思える瞬間だった。




