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42 貴方の無事を願って

 ギィ――ッ。


 リンネが開いた牢の扉が鈍く軋む音を立てる。


 その瞬間、鼻を突いたのは……鉄のいやな臭いだった。

 ツンとした錆びたような喉の奥をざらつかせる香り。


(血の匂い……?)


 咄嗟に息を止めた。

 だけど、嫌でも匂いは鼻腔に残っている。

 重く、まとわりつくように。


 私はおそるおそる足を踏み出し、牢の外――廊下へと進んだ。

 暗い。照明は灯っているのに空気の色までが濁って見えた。


 そして、すぐに――その理由がわかった。


「……ッ……!」


 私は息を呑み、足を止めた。


 廊下の壁に沿って何かが走っていた。

 床から天井に向かって走る紅……

 それは……線。


 いや、血だった。


 誰かが意図的につけたような跡ではない。

 それはもっと、強く、勢いよく――まるで、首を切られた瞬間に吹き出した血が、壁に線を描いたような……そんな残酷な軌跡だった。


 赤黒く乾きかけた血が、壁を伝い、滴となって床に落ちている。


 ……それが一か所だけじゃなかった。

 廊下の先にも、曲がり角にも……赤が、まだらに、滲んでいる。


 誰かが……いや、多くの誰かが、ここで何かに殺された――?


「アネット。一刻も早くここから出るぞ」


 背後から、低く囁くようなリンネの声。

 それでも、私は――頷くことしかできなかった。


 足が震える。けれど進むしかない。

 ここで立ち止まれば、誰かが仕掛けた“次”の罠に嵌るような、そんな嫌な予感がした。


 私は一歩ずつ進む。血の跡が薄れていくのを確認しながら、震える足を前に出す。

 けれど、心臓はずっと、耳元で喧しく鳴り響いていた。


(何が……起きたの? こんな惨状……)


 リンネは無言のまま隣を歩いていた。彼の瞳は、いつもよりも鋭く、周囲を警戒している。


 ようやく屋敷の裏手の扉が見えてきたその時だった。


「――待って」


 思わず、私は足を止めた。


「……どうした?」

「クロード王子……!」


 言葉が漏れた瞬間、自分でも驚くほどの衝動に突き動かされていた。


「彼がこの惨状の中で……無事だって、保証はない!」


 リンネは表情を動かさなかったが、わずかに瞳を細めた。


「……本気か? あれは敵だ」


「それでも……!」


 私は振り返る。

 鉄の臭いが染みついた空気に背を向けるのが怖くて、でも、どうしても目を逸らせなかった。


「確かにまだ確信はない。でも……彼が私を見逃してくれたのは確か。あの人が本当に悪人だとは私……信じたくないの」


 すぅ……と、深く息を吸う。

 鼓動が煩い。またあのグロテスクな場所に戻るなんて。もしかしたら死ぬかもしれないのに。


 でも……


「……行って確かめたい。ちゃんと……自分の目で知りたいのよ」


 リンネはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……ふ。お前本当に手間のかかる契約者だ」


 小さく肩をすくめながらも、リンネは再び歩き出す。

 私は、その背中を追いながら――


 胸の奥で熱く脈打つ“何か”を、ぎゅっと抱きしめた。


(クロード王子……どうかあなたが無事でいますように)


 廊下を進むにつれて、血の臭いはさらに濃くなっていった。

 まるで壁が呼吸しているかのように、鉄の匂いが肌にまとわりついて離れない。


 けれど――肝心の“それ”はどこにもない。


(……死体が……ない? あれだけの血の量なのに?)


 胸の奥がきゅうっと縮こまった。得体の知れない不安が、つま先から背筋を這い上がってくる。


 やがて、重厚な扉が目の前に現れた。エーベルト侯爵の私室――応接間。


 リンネが軽く手をかざすと、鍵はかかっていなかったのか、扉は静かに開いた。


 ――その瞬間、私の呼吸は止まった。


 そこには、まるで異界から切り取られたような、現実とは思えない光景が広がっていた。


 奥のソファ。

 そこに、エーベルト侯爵は座っていた。


 否――“座らされていた”のだ。既に息はなく、その自らの膝の上に首が置かれていた。


(……あれは、斬首……!?)


 口元は醜く歪んでいた。死の瞬間何を見たのか――その目は開いたまま天井を見つめている。


 その周囲。

 床、テーブルの上、壁際にまで――無数の“人”の亡骸が積み上げられていた。


 いや、亡骸というにはあまりにも惨たらしい。どの身体にも首がない。


 胴体だけがゴミのように積み重ねられている。


 人間のものとは思えない量の血が床一面に広がっていた。まるで赤黒い湖のように音もなく揺れている。


「……っ」


 息を吸い込もうとした瞬間、喉が詰まった。何かがこみ上げてきそうになるのを必死でこらえ、私は唇を噛み締めた。


 足が震える。視界が揺れる。それでも私は目を逸らせなかった。


「誰が……こんな……」


 呟いた私の隣で、リンネは冷ややかな目で一歩前に出た。


「……殺し方がその道特有のものだ」


 確かにそうだった。どの死体も首が真っ直ぐスパッと切られており、それを生業としている者がしたのだろうと、私でも分かった。


 侯爵の死体の置き方、それはまるで“見せしめ”のようなある種の“演出”にすら見える。


 残虐で冷静で異常なほどに徹底された殺意。


「これは――」


 私は喉の奥で言葉を飲み込んだ。


(クロード王子……?)


 ふと、頭の中をよぎったのはあの男――

 あの香り。あの手の冷たさと、唇の熱。


(まさか……違うよね?)


 喉元が急激に冷え、身体の内側がざわついた。


「……っ!」


 私は小さく息を吸い、震える手で扉の縁を掴む。


「確かめなきゃ……クロード王子が無事かどうか見に行かないと」


 思わず叫ぶように言っていた。

 リンネが振り返り険しい表情で私を見つめる。


「……これはどう見ても奴の仕業だ」


「……確かめたいの。あの人が……こんなことをする人間じゃないって信じたいだけ……!」


 床に広がる血だまりを飛び越えるように、私はもう一歩扉の外へ踏み出した。


 ここからが、本当の地獄の始まりかもしれない。


 だけど――もう目を逸らすわけにはいかなかった。


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