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40 紅く深い果実の正体

 意識が戻ったのは、ひどく冷たい空気だった。


 まぶたを開くと、そこには天井もろくに見えない薄暗がり。

 光源はただ一つ、天井近くにある小さな格子窓から差し込む、青白い月光だけ。


 私はうめくように息を吐いて、体を動かそうとした――が、動けなかった。


「……なに、これ……?」


 カシャン、と耳障りな金属音が、わずかに動かした手首から鳴った。


 両手を釣り上げるように、鉄の輪に繋がれた鎖が、壁へと続いている。

 それだけではない。両足にも、腰にも、幾重にも鎖が巻かれていた。まるで、魔物のように扱われる囚人のように。


 着ていたメイド服も剥ぎ取られていて、キャットスーツが月の光で照らされていた。


(夢……じゃない……)


 冷たい石床。薄く湿った空気。

 そして自分の体を苛む金属の冷たさが、現実であることを嫌でも突きつけてくる。


 私は必死に体をよじり、手首の鎖に手を伸ばした。

 だが、動けば動くほど、首元や腰の鎖が肌に食い込み、痛みが走る。


「……っ、痛っ……」


 悔しさに涙が滲みそうになる。けれど、泣いている暇はない。


 ここがどこかも分からない。助けも来ない。

 何より――このままでは、何をされるか分からない。


「リンネ……」


 何度呼んでも姿を現してくれない。

 きっとまだ魔力が遮断さているのかも。


(……誰か助けて……)


 心の中で強く念じながら、歯を食いしばって鎖を引いた。


 そのときだった。


 ギィ……


 鈍い金属の軋みとともに、牢の扉がゆっくりと開いた。


 カツン、カツン、と靴音。

 ゆっくりと近づいてくるその足音に、私は身を強張らせた。


 月光の下、姿を現したのは――エーベルト侯爵。


 その顔には、いつもの微笑が貼りついていた。

 だが、その目の奥には……明らかに異質な光が宿っている。


「お目覚めのようだね、リリー」


「……どういうつもりですか」


 私は睨みつけた。震えを隠すように、声を張った。


「こんなやり方……ただの卑劣な拷問よ!」


「拷問? ……いや、違うな。これは“罰”だ。メイドとして偽って勝手に忍び込んだのはお前だろう?」


 侯爵はゆっくりと鍵束を持ち上げ、鉄の扉の前に立った。

 鉄格子越しに見えるその笑みは、まるで子供が壊れた玩具を見下ろすような――ぞっとするほど、無感情で冷たいものだった。


「君は、見てはいけないものを見た。嗅いではいけない香りに気づいた。そして……知ってはいけないものに近づこうとした」


 カチャリ、と鍵が差し込まれ、重い扉がきしみを上げて開き始める。


「……待って」


 私は咄嗟に声を出したが、それは無意味だった。


「その代償を、今から払ってもらうよ。――君の目的が何なのか。じっくり教えて貰おうか」


 その言葉が意味するものを、私は完全には理解できていなかった。


 ただ――本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。


(ここにいたら、ダメだ。殺される……いや、それ以上に――)


 冷や汗が背を伝う。

 逃げられない。だけど、逃げなければ、戻れない。


 その時、不意に遠くの方で、何かが軋む音がした。


 ――誰か、いる?


 それとも……ただの風の音?


「……侯爵様。お疲れでしょう」


 その声は、あまりにも自然だった。

 上品で、低く、柔らかなのに――どこか聞き覚えのある響き。


 私は月明かりの中で、声の主に目を向けた。


 現れたのは、黒い執事服を完璧に着こなした男だった。

 身のこなしも所作も申し分なく、まるで生まれながらの従者のよう。

 だが――その緑色の瞳に気づいた瞬間、私は息を飲んだ。



 クロード・グレイヴァード。

 隣国であるナベリウス王国の王子にして、ル魔恋の攻略対象。

 そのままの姿で、何事もないかのように侯爵に近づいていく。


「侯爵様、明朝は例の町の長老との交渉がございます。ここは私にお任せを。どうか今夜はお休みください」


「……君がそう言うなら、任せよう」


 侯爵はあっさりと納得し、鍵束をクロードに手渡した。


 私はまだ、混乱の中にいた。


(クロード王子が……なぜここに? なぜ、侯爵と――?)


 やがて侯爵の足音が遠ざかり、鉄扉が閉じられる。

 残されたのは、私と――そして、後から現れた二人の男たち。どちらも、無表情の執事服姿。


「あの……助けて……!」


 私は藁にもすがる思いで呼びかけた。だが、彼の表情は変わらなかった。


 カチャリ、と音を立てて牢の鍵が回る。


「本当に助けて――」


「誤解しているようだね、リリー」


 その名を呼ばれた瞬間、背筋に冷たいものが走る。


 クロードが牢に入り、ゆっくりとしゃがみ込む。

 その手には、いつの間にか黒革の手袋が嵌められていた。


「尋問は私の担当だ。情けも慈悲も必要ないと侯爵には了承を得ている」


「――っ……なに、を……」


 私は必死に鎖を引き、後ずさる。だが、逃げ場などどこにもない。


「貴女がどうしてこの屋敷に忍び込んだのか。私は、それを“仕事”として知る必要があるんだ」


「やめて……!」


 懇願する声は、虚しく消える。

 ゆっくりと立ち上がったクロードの指が、私の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。


 汗を吸った鎖が、ぎち、と音を立てる。身じろぎすればするほど、金属が肌に食い込んで痛む。

 だけど――それ以上に、今、私を震わせているのは、目の前の“彼”の存在だった。


「言わないのかい? リリー嬢。君が何者か、なぜ侯爵邸に忍び込んだのか」


 彼の声は、いつだって穏やかで、柔らかくて……なのに、今はその優しさが、拷問のようだった。

 視線を上げると、すぐそこに、彼の顔。


 銀縁の眼鏡が、淡い月明かりを反射して冷たい光を返す。

 口元は微笑みを保ったまま――けれど、その瞳の奥は、凍てついていた。


 その彼が、私の髪を指先でなぞる。


「……指が通る。手入れしてるね。侍女の中では上等だよ、君は」


 皮肉か本気か、どちらとも取れない言い方。

 私は思わず目を逸らす。だけど次の瞬間、鼻腔をくすぐる香りに、心臓が跳ねた。


 ――カシス。

 あの、深い果実の香り。熟れて、甘く、どこかほの暗い――。


(この香り、私は……知ってる)


 さっきのマスクをつけた、黒い長髪の男……いや、それだけじゃない。


 記憶の底から浮かび上がってくる、あの夜。

 仮面舞踏会で、誰にも言えなかった、あの“熱”。


(この香りは、あの時……キスの相手)


 頭が混乱する。


(じゃあ、あの仮面の男は……彼だったの? クロード王子……!?)


 信じられなかった。けれど、香りはごまかせない。


 クロードは手袋を外し、私の首筋に指を這わせる。

 優しげな仕草なのに、感情は一切こもっていない。


 首筋に、熱い指先が滑った。


「黙ってるなんて……やましい事でもあるのかい?」


 彼は私の耳元に唇を寄せ、吐息で耳朶を撫でる。

 そのくせ、指先はゆっくりと鎖を弄びながら――「ああ、これは本物の魔力封じだね」と呟く。


(なんて慣れた手つき……)


 彼は、ひとり芝居のように楽しげに言葉を重ねる。


「貴女はたぶん、気づいてるよね。自分が“特別”であることに。それなのにどうしてこんな屋敷に一人で?」


 そして、ふいに顔を寄せてきた。


「桜子の町を助けるために……」

「こんなか弱い貴女が? ……まさかそんな」


 ふふっと笑いながら、私の太ももを優しく撫でる。ゾワッと鳥肌が立つのが分かる。


「……仮面舞踏会の時の貴女は大胆だったのに、今はしおらしい」


 私の顎に手を添えたまま、片方の手で首元からファスナーを慣れた手つきで下げていく。


「やめて……お願い……」


 臍までファスナーを下げられ、思わず手で隠したくなるも、鎖で繋がれているせいで何も出来ない。悔しい。


 なのに、彼はそれ以上なにも言わない。ただ、私の反応をじっと見て、確かめるように瞳を細める。


「貴女の反応、わかりやすくて……可愛いよ」


 羞恥と恐怖と、なによりその冷静さに、私は喉がひりついた。


 彼がさらに近付くと、鎖がじゃらりと揺れて私の身体に残酷な重みを残す。


「お嬢さんは、そこで指咥えて待ってるのがお似合いだ」


 そう言って、顎に添えた親指を私の口の中にねじ込んで、じらすように歯列をなぞると満足そうに妖しく笑った。


 その笑顔は――クロード様のものじゃなかった。

 けれど、彼の中に確かにある“本性”のひとつなのだと、思い知らされた。


 ……なんて手癖の悪さ。噛んであげようかしら。


 そして、妖艶な笑みを見せたかと思えばゆっくりと手を離して彼はそのまま背を向け、鍵をかけて牢を後にした。


 暗がりに残されたのは、冷たい鎖と、甘くも苦いカシスの果実の香り。

 そして、逃げられない現実だった。


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