39 封印なんて、聞いてない
廊下は、異様なほど静かだった。
誰の気配もない。
窓の外はとうに陽が沈み、重たい闇が屋敷を覆っている。なのに――蝋燭の灯もなく、まるで全てが“初めからない”ように感じられた。
「おかしい……屋敷って、もっと人の気配があるはずよね」
時折、かすかに軋む床の音さえ、自分の足音のようで怖い。
私は歩調をゆるめ、壁沿いに進む。
そんなとき、廊下の角にぽつんと置かれた――奇妙な“ランプ”が目に入った。
アンティークのオイルランプのような見た目。けれど、不自然なほど明るく、赤紫色の光を放っている。
不安定に揺れるその光は、どこか“魔力の揺らぎ”を感じさせた。
「……なんだろう、これ」
つい、無意識に指先を伸ばす。
そのとき――
「……ッ! それに触れるな……!」
空気を引き裂くように、リンネの叫びが響いた。
けれど、その声が届くより早く、私の指先はランプに触れてしまっていた。
――ビリッ。
静電気のような衝撃が走った瞬間、私の背後からリンネの気配がふっと掻き消えた。
「……リンネ!?」
振り返っても、彼の姿はどこにもない。
それどころか――
(魔力の気配が……全然、感じられない)
まるで、五感のうち一つを奪われたような感覚。
この屋敷全体が、魔力の流れを遮断する“何か”に包まれている……そう確信した。
(結界……それも、かなり強力な……)
魔法が使えない。リンネも呼べない。
それを悟った瞬間、冷や汗が背筋を伝った。
――そして。
後ろの廊下の曲がり角から、誰かがゆっくりと現れた。
(足音……!)
とっさに身を隠す前に、背後に近づく気配――そして、ぐっと手首を掴まれた。
「……見ない顔だな」
男の声は低く、感情を含んでいなかった。
顔を向けられたその瞬間、私は息を呑んだ。
長い黒髪を一本に結った、異様なほど背の高い男。
顔の半分を、黒い布のマスクで覆っている。
鋭い切れ長の瞳だけが、仄暗い廊下に浮かび上がるようだった。
(誰……? この人……でも――)
近づいた瞬間、微かに――鼻腔をかすめた。
(……この香り……!)
深く、濃密なカシスの香り。
それはあの夜、仮面舞踏会で踊った――いや、“キスを交わした”相手と同じ香りだった。
「っ……!」
その記憶がフラッシュバックし、私は思わず手首を振りほどこうとする。
けれど、男の手は冷たくて固く、びくともしない。
「逃がさない。……質問はこれからだ」
耳元で低く囁くその声に、心臓が跳ね上がる。
私のことを知っているのか――それとも偶然なのか。
(どうして……この人が、あの香りを……)
緊張と困惑、そして魔力の封じられた不安が重なって、私はその場から動けなくなった。
――けれど、それはほんの序章に過ぎなかった。
この屋敷で、私が見ようとしていた“真実”は、まだ姿すら見せていない。
「……それで、何が目的だ?」
男の手が、私の手首をがっちりと掴んだまま離さない。
(まずい……どうしよう)
魔力は封じられている。リンネも呼べない。
つまり今の私は、ただの庶民……いや、屋敷に忍び込んだ不審者以外の何者でもない。
でも……メイド服だし、誤魔化せないかな?
男の声には、怒りも警戒もない。ただ、底冷えするような無感情な圧があった。
静かに、それでいて確実に、私を“見定める目”をしている。
「……答えろ」
「わ、私は……」
頭がぐるぐるする。どう答えるのが正解なのかわからない。
けれど、黙っていても状況は悪くなるだけ。
(とにかく、正体だけは知られちゃダメ。今は――)
「リリー。……私は、リリー。この屋敷でメイドをしています」
自分でも驚くほど自然に、その名前が口から滑り出た。
咄嗟の嘘、声が震えなかったのは幸いだった。再びこの名前を使う時が来るなんて、思ってもなかったけど。
男は私の顔をじっと見つめると、片手で私の顎を掴み、自身の方へと見上げさせる。
仮面舞踏会では見えなかった、エメラルドのような目。
けれど、こちらの様子を寸分漏らさず見抜こうとしているのが伝わってくる。
「リリー、ね」
低く、どこか含みのある声で繰り返されると、背中にじんわりと汗がにじんだ。
「……屋敷のメイドか。見ない顔だが」
「き、昨日雇われたばかりで……!」
「なるほど。では、なぜ君はこの時間に、人気のない廊下でランプに触れていた?」
「えっと、それは……!」
必死に頭を働かせる。言い訳、理由、筋の通る説明――
けれど出てくるのは、焦りと心臓の音ばかり。
男の手に力がこもった気がした。
次の瞬間――しかし、男はふっと手を離した。
「……まあ、いい」
「え……?」
あまりにもあっさりとした解放に、私は戸惑ってしまう。
言葉に詰まる私に、男はもう一度だけ顔を近づける。
「……お嬢さん、ここに長くいてはいけない。忠告だ」
それだけを残して、男はすっと私から離れた。
長い黒髪が闇の中に溶けるように、音もなく。
(なんだったの……あの人)
あの香り。あの目。あの気配。
そして、あの不自然な“解放”。
あの人は何者?エーベルト侯爵とかよりも……むしろ、彼が“この屋敷の主よりも上”の存在に見えたのは――気のせい?
胸の奥に残るのは、助かったという安堵より、むしろ“見逃された”という奇妙な違和感だった。
まるで、さっきの男とのやり取りが幻だったかのように、屋敷の廊下は何事もなかったかのように静まり返った。
魔力の封じられたこの場所では、リンネを呼ぶこともできない。
けれど、それでも私は一人で歩き続ける――目的のために。
「お前がメイドの新人か。少しこちらへ来い」
声をかけてきた使用人に、私は慌てて頭を下げる。
咄嗟についた嘘だったけれど、本当にメイドの新人がいたみたいね。偶然だけど、ラッキーだわ。
聞き出した通りの言葉で、丁寧に挨拶をしてみせた。
「リリーです。本日から雇っていただきました」
「……では侯爵様に挨拶はしていないだろう。侯爵様の部屋まで案内してやろう」
思わぬ幸運に、私は一瞬ぎこちない笑顔を浮かべる。
「エーベルト侯爵に、会える……」
だが、疑われてはいない。今は、与えられた機会に乗るしかない。
◇ ◆ ◇
応接室の扉が、静かに閉じられる音がした。
まるで、その音と同時に現実から切り離されたような錯覚。
私を迎えたのは、調度品に彩られた優雅な空間と、異様なほど静かな空気だった。
広々とした部屋には、重厚なカーテンと香木を焚いた香炉の匂い。
その中に紛れて、仄かに――甘く、花蜜のような香りが漂っている。
記憶をたぐるより早く、侯爵の声が響いた。
「ようこそ、ご足労感謝するよ」
ソファに座るエーベルト侯爵は、想像以上に若く見えた。侯爵というくらいだし、老人を想像していたから。
しかしその微笑みには、張りついた仮面のような冷たさがあった。
「こちらこそ、お目通りいただき光栄です」
私は礼を取り、注意深く彼の目を見た。
その奥にある意図を探ろうとするが……濁りのない、何も映していない鏡のような眼差しに、背筋が冷える。
「……君が、新しいメイドか」
「はい。リリーと申します」
彼が軽く手を差し出すと、メイドがすぐさまテーブルに紅茶を置いた。
白磁のティーカップには、鮮やかなルビーレッドの液体が注がれている。
私の心臓が、ひとつ大きく鳴った。
(落ち着いて。怪しまれないように……)
香りは、甘く芳醇で……それでいて、どこか――甘すぎる。
華やかというより、過度な甘ったるい香り。
「……口に合うといいのだが」
侯爵の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
私は微笑みを浮かべ、震える手でカップを持ち上げる。
侯爵は糖尿病なのでは? なんてことを考えながら……
そして、ほんの少しだけ、唇をつけた。
――とろけるような甘み。
舌に広がる花と果実の香り……心地よくて、どこか懐かしくて抗いがたい誘惑。
けれどそれはすぐに違和感へと変わった。
「……っ……」
喉を通ったはずの紅茶が、まるで熱を持って広がっていく。
視界がにじむ。耳の奥が詰まったような感覚。
そして、心臓がひとつ跳ねたかと思えば、鼓動がどんどん遠ざかっていく――
「……あ、れ……?」
椅子に凭れていた背が、支えを失ったようにずり落ちる。
力が抜けていく指先。足元の感覚はもう曖昧だ。
「君が何を求めてここに来たのか、私はまだ聞いていないが……」
侯爵の声が、遠くで笑っている。
「まずは、素直に眠ってもらおうか。色々と……手間が省ける」
ああ、やっぱり……最初から、罠だった。
だけど、もう声も出せない。
せめて、誰かに知らせたかった。
リンネ……ノクス……レイ王子……
視界が暗く染まり、すべての音が波のように引いていく。
(ごめん……桜子。守ってあげるって、言ったのに――)
最後に感じたのは、カップから立ち上る甘い香り。
深い眠りへと誘う、甘いの花の香りだった。
そして、私は意識の深い底へと、音もなく沈んでいった。




