37 "未来を視る"侯爵
学園の中庭に咲く紫陽花が、朝露をまとってきらきらと輝いていた。けれど、その光の粒はどこか冷たくて、胸の奥に降るざわつきは晴れそうになかった。
「また……騎士たちの巡回、増えてる」
校舎の角を曲がった先、重たい鎧の足音が規則正しく響いていた。いつもの倍はあろうかという人数の警備が、学園の出入口を固めている。
レイ王子の命令によるもの――そう聞いていた。
ただの偶然、ただの警戒ではないことは、察しがつく。
(私のために……?)
仮面舞踏会の数日前、ゼイン様を救ったあの日。突如として放たれた矢と、結びつけられた一通の手紙。
"ヒロインの邪魔をするのはやめろ。"
手紙の文字は、硬く無機質な筆跡だった。けれどその文面だけで、アネットの背筋は未だに冷たく凍りつく。
(誰かが……私の正体を知ってる?)
自分が“この物語の外”から来た存在だということ。
プレイヤーだった記憶。すべてを知っているからこそ、攻略対象たちに殺されないために恋愛フラグを回避してきたのに。
もしかして、私以外にも……この世界に転生者が?
あの矢を放ったのは、私の存在そのものを……消そうとした誰か。
「……ノクスは、今日もいないんだ」
ぽつりと呟いた自分の声が、寮の廊下に溶けていく。
仮面舞踏会の夜を最後に、ノクスの姿を見ていない。
あの舞踏会の夜。
追い詰めるような強引さと、張り詰めた声。
彼らしくない、焦りと苛立ち――
そして、それから一度も姿を見ていない。
王子直属の護衛である彼が、何の音沙汰もなく消えるなんて。――異常だった。
怒りと、悲しみと、焦り。ノクスのあの目――まるで感情を抑えきれず、剥き出しになった心の奥が透けて見えた。
それなのに。
誰にも、何も伝えずに、彼は姿を消した。
そのとき、近くで談笑していた生徒たちの声が、ふと耳に届いた。
「ねぇ、最近話題になってるの知ってる? 街の東の方に住んでる貴族、エーベルト侯爵」
「未来がどうとかってやつ?」
「そうそう! "未来を視たことがある"とか言ってるんだって!」
「前世の記憶があるとか、変な術を使えるとか……まぁ、噂だけどさ」
(……未来を視る? 前世の記憶?)
その言葉に、思わず生徒たちの方を直視してしまう。心がざわつく。
どこかで誰かが、自分の「役割」を見抜いて狙っている。そう考えるには十分すぎる出来事だった。
知らず知らずのうちに、自分の胸元を握りしめていた。
未来。前世。
まるで、アネット自身をなぞるような言葉。
学園の空気は、静かに変わり始めている。
けれど誰も、その変化の理由を明言しようとしない。
気づいている者はいるのか。
すべての断片が、まだ繋がらずに霧の中だった。
ぎゅっと制服の袖を掴んだ。
答えのない問いと、胸のざわめきだけが、また一つ重くなっていた。
考え込みながら中庭を歩いていると、学園の図書棟前のベンチで桜子がぽつんと俯いて座っていた。
(……どうしたのかしら)
いつもは明るく控えめで、私の言葉にふわりと笑ってくれる彼女が、今日は何かに押し潰されそうなほど肩を落としていた。
「桜子、こんなところで……一人?」
声をかけると、桜子はびくりと肩を震わせ、小さく顔を上げた。
「あ……ベルフェリア様……」
「顔色が良くないわ。何か、あったの?」
少しの沈黙ののち、桜子は小さく息を吸い込んだ。
迷っているような目。けれど、心のどこかで頼りたかったのかもしれない。
「……母が、倒れたんです」
「え……?」
「町が、エーベルト侯爵に買い取られてから母の勤めていた工房も、急に労働条件が厳しくなってから連日残業続きだったそうで……」
震える声だった。
桜子の言葉に胸が、ぎゅっと痛んだ。
「父が代わりに一人で工房に出ています。本当は、もう引退してもおかしくない歳なのに……」
そう言って、桜子は微かに笑った。泣かないように笑っているのがわかってしまって、思わずそっと手を重ねた。
(エーベルト侯爵……)
つい先ほど耳にした、“未来を知っている”と噂の貴族の名。
転生の真相へ繋がる鍵だと思っていたその人物が――
まさか桜子を、彼女の家族を苦しめる存在だとは。
「ありがとう、桜子。話してくれて」
私は立ち上がった。心の中に、かすかな熱が灯る。
「貴女のためにも、私はそのエーベルト侯爵に会ってみたい。……いいえ、直接話をするのは難しいかもしれないけど……」
(このまま、黙っているわけにはいかない)
自分の転生の謎。
襲撃された理由。
そして、町の皆や桜子の家族に起きた理不尽な搾取。
全ての糸が、一人の男に繋がっているのなら――
私が、その真実をこの目で確かめる。
「……私、エーベルト侯爵の屋敷に忍び込んでみるわ」
「ベルフェリア様?! それは危険です……」
「大丈夫。貴女には、なにもさせない。……それに、これは私自身の問題でもある気がしてならないの」
自分でも、なぜそこまで強く感じるのかは分からない。
でも、あの名を聞いた時からずっと――胸がざわついて仕方がないのだ。
(きっと、そこに何かがある)
彼女の肩が小さく震えている。私は黙って彼女の手を取った。
その手のひらは、細くて、頼りなくて――なのに、どこか強く、しがみついてきた。
「……それって、そのエーベルト侯爵って?」
「学園でも……最近話題になっている方です。"未来を視る貴族”と。侯爵は十年前までは無名でした。それなのに突然すべてを手に入れたと聞きました。領地も爵位も人脈も……まるで“未来”を知っているみたいに」
未来を知っている――
その言葉に、胸の奥がじわりと冷える。
「今ではもう、誰も逆らえないんです。表では穏やかそうに微笑んでいても……裏では、領地の人々を“資金”の駒みたいに扱ってるって、よく聞きます。わたしの町も、例外じゃなくて……」
そんなキャラ……いたかしら……
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎって、私は思わず口を噤んだ。
攻略対象でもない、サブキャラでもない、ただの風景の一部のような――“知らなくていい存在”。
「桜子……その人、本当に“未来を視てる”のかしら?」
「……ベルフェリア様」
桜子がこちらを見つめる。
その瞳の奥に、何かが揺れていた。
疑念? それとも――同じものを見た者の眼差し?
「もし誰かが、本当に未来を知っていたとして。ねえ、それって、どう思う?」
私は自分の声が震えていないことを願った。
この問いは、彼女にしているようで、半分は自分自身への問いかけだったから。
「未来が分かってしまったら……人の気持ちまで予定されてるみたいで。誰かを好きになるのも笑うのも、全部“そうなる運命”だったのかもと思ってしまいます。……怖いです」
桜子の答えは、思いのほか静かだった。
でもその声は、私の胸にずしりと響いた。
「……まるで“台本”みたいね」
私は思わずそう呟いていた。
彼女が驚いたように顔を上げたけれど、私はただ微笑んでごまかす。
(あの侯爵が“未来を知る者”だとしたら……転生者か、あるいは……別の世界から干渉してきた“何か”かもしれない)
私は思考を巡らせながら、そっと立ち上がった。
「ありがとう、桜子。聞かせてくれて……」
「……ベルフェリア様?」
「やっぱり、エーベルト侯爵の屋敷を見てくることにするわ」
言葉を失っている桜子に、できるだけ軽く笑ってみせる。
だけど、私の心の中では、決意がゆっくりと燃え上がっていた。
(この世界の“台本”を、書き換えようとする者がいるなら――)
私は、抗ってみせる。
たとえそれが、“元の世界”に手を伸ばす行為だとしても。




