36 ヒロイン溺愛王子様かと思いきや、なんだか様子が変です。
どうしよう。
さすがヒロイン。可愛すぎて罪だわ──なんて冗談めかして笑ったけれど。
内心では、私は焦っていた。
こんなに可憐で素直で、内面も魅力的な女の子に、攻略対象たちが惹かれていくのは当然で。
そのうえ、あの夜──仮面舞踏会でレイ王子と踊っていたのは桜子。やっぱり彼とヒロインが結ばれる未来が正しいんだと、思わずにはいられなかった。
「ねえ桜子、レイ王子のこと、どう思ってるの?」
「……え?」
「ほら、ほら! あんな王子様みたいな人に見初められたら、普通はドキドキしちゃうでしょ? ……ね、素敵だったでしょ?」
わざと冗談めかして、おどけた調子で口にしたけれど──桜子の表情が、凍りついた。
「そんなこと……ありません」
「えっ……ち、ちがった……?」
頷かれるものと思っていた私は、その反応に言葉を失った。
桜子は、ほんの少しの沈黙のあと、困ったように笑った。
「レイ王子は……素敵な方です。でも、私は……誰かに流されて踊ったり、選ばれたりするより、ちゃんと、自分の想いを選びたいです」
「そ、そう……なのね……」
やっぱり、この子は強い。私とは違う。
自分の足で歩ける子なんだ──そう思った、瞬間だった。
──カツ、カツ、カツ。
石畳を叩く足音が、思考を断ち切った。
ふと振り返ると、廊下の奥から現れたのは……レイ王子。
けれど、彼の目には、いつもの余裕も柔和さもなかった。
美しく整った顔に貼りついた無表情、そしてどこか"死んだような"虚ろな瞳──
まるで、何もかもを信じられなくなってしまった人間のような。
「桜子嬢……こんにちは。少し、アネットをお借りしても?」
「あっ……はい……」
桜子が小さく礼をするのと同時に、私の手が、彼に掴まれていた。
「ま……っ、ちょっと……レイ王子!」
「黙って、ついてきて」
その声音には、滲む焦燥と怒りと、そして……悲しみがあった。
誰もいない回廊を通り、人気のない中庭へ。
ようやく足を止めた王子が、ゆっくりと振り返る。
「……アネット。君は、仮面舞踏会に……行ったのか?」
低く、静かな問い。
でもその瞳は、すでに確信しているような、そんな色をしていた。
私の背中を、冷たい汗が伝う。
「……いえ。私……行ってません」
それは、あまりにも下手な嘘だった。
きっと彼には見透かされている。それでも……言えなかった。
あの夜、あんなふうにキスを交わしてしまったことを。
たとえ相手が誰かも知らないとしても──あの夜の私は、どうかしてた。
「……そうか」
レイ王子は、それ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、痛むような、壊れかけた笑みを浮かべた。
「……安心したよ、アネット」
静かに、囁くような声だった。
それなのに、私の心臓は悲鳴をあげるように跳ね上がった。
「君に手を出す男が……いたら。どうしようかと、夜も眠れなかった」
ぞわり、と背筋を何かが這う。
甘く微笑むその顔の奥に、剣のような鋭さがちらついた。
レイ王子が、こんな風に言葉を選ばず話すなんて。
私の知っている彼じゃない。いつもはもっと優雅で、寛容で……。
「…………っ、で、でも……っ」
焦りから、思わず口をついて出た。
「レイ王子は……桜子と踊っていたじゃないですか」
しまった──と思った時には、もう遅かった。
レイ王子の瞳が細められ、静かに微笑む。けれどその笑顔に、もう慈愛はなかった。
「……それを知っているということは──やっぱり、いたんだね。君」
ドンッ──!
背後の壁に、乾いた音が響いた。
逃げようとした瞬間、片手が私の肩を押さえつけるように壁を打ち、そのまま囲い込まれる。
目の前には、笑っているのにどこか壊れかけたようなレイ王子の顔。
「仮面で顔を隠しても、君の動きは……僕が誰よりも知ってる。桜子と一緒に会場に入ってきた、真紅のドレス……」
「……や、だめ……こんなのおかしいです、王子」
「おかしい? ……じゃあ、君はどうして僕から逃げるの? 婚約者なのに……」
低く、乾いた声。
それは、いつか聞いた優しい音色とは似ても似つかなかった。
違う……婚約者じゃない、仮だから……私をそんな目で見ないで……
「……僕があの仮面舞踏会にいたのは」
王子の手が、私の頬をすべる。
「君を追いかけていたからだよ。逃げる君を……捕まえるために」
ぞくり、と身体の奥が冷えた。
それなのに、熱い指先が肌に触れただけで、息が震える。
「……だけど、邪魔が入ったみたいだね」
レイ王子が顔を寄せる。
私の耳元に舌打ち混じりの吐息がかかった。
「邪魔な香りだな……」
そう言った彼の唇が、私の首筋を掠める。
「ひゃ──や、だっ……」
抗おうとした瞬間、ぎゅ、と腰を引き寄せられた。
そして──
「あ……っ」
ちゅ、と、湿った音が首筋に刻まれた。
熱い痛みと痺れるような感触。
まるで、印を刻みつけるように──そこに確かに、何かが“残された”。
「これで少しは……他の男が近づかないように、なるかな」
そう囁いた王子は、まるで満足げに微笑んでいた。
けれど私には、その瞳が──
“誰にも触れさせない”と誓う、狂気にも似た執着に見えた。
「……私、は……」
言葉にならない。逃げたい。でも、身体が震えて動かない。
けれど──
そのキスマークがじわじわと熱を持ち、彼の気配が背を這うたびに、胸の奥がざわつく。
関係が壊れてしまう前に、逃げなければ。
そう思いながらも、私はまだ、レイ王子の腕の中にいた。
──この人は、本当に“レイ王子”なの?
それすらも、わからなくなるほど、彼の目は深くて、怖かった。
「身分も正体も隠さないといけないような仮面舞踏会に……どうしていたの?」
レイ王子の低く押し殺した声が、耳元で震えを呼ぶ。
背後の壁に手をついた彼の腕の中、私は逃げ場をなくしていた。
「ち、違います……あれは……っ」
否定しようとしても、言葉にならなかった。
彼の視線が鋭く、けれどどこか苦しげで、私の嘘を一瞬で見透かしてしまったから。
「……あんな露出の多い、紅のドレス……他の誰だって言い張るつもり?」
首筋に残る感触が疼く。
「僕があの仮面舞踏会にいたのは、ただ君に会いたかったからじゃない。……君を、僕から奪おうとする誰かから、守るためだった」
そう言った彼の瞳に、いつもの余裕は微塵もなかった。
笑っていたけれど、それは壊れそうな硝子みたいな笑みで。
私は、喉が焼けるような後悔を覚えながら、口を開く。
「……あの、レイ王子……」
「……なに?」
「私、狙われてるんです」
彼の眉がわずかに動いた。
「弓矢が目の前に飛んできて……仮面舞踏会の前に……」
言葉が、震える。
けれど、この人には――伝えなきゃいけない気がした。
ただ、手紙の内容は絶対に隠さないと。
そうじゃないと……もっと怪しまれてしまう。
「だから……私は、周りの人たちから距離を置いてた。誰かが巻き込まれたら、私、きっと……」
「もういい」
唐突に、レイ王子がそっと額を私の肩に預けるように近づいた。
「無理に言わなくていい。君が逃げてたのは……僕たちを守るためなんだね」
その声音は、まるで祈るようで。
「……僕は、君を信じるよ。だから――今度からは、絶対に一人で抱え込まないって、約束して」
私は、喉の奥が詰まったようになって、ただ小さく頷いた。
「はい……約束します」
その瞬間、レイ王子はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。けれどその微笑の奥には、淡い独占欲が光る。
「……その代わり、僕だけには……何があっても隠さないで。いいね、アネット?」
名指しで呼ばれたその響きに、胸が跳ねた。
私はただ、静かに、こくりと頷いた。




