35 ヒロインがこんなに可愛くて愛らしいなんて、心臓に悪いです!
朝の陽光が、薄くかかったレースのカーテン越しに差し込んでいた。
私は、ベッドの中で静かにまばたきをする。
知らない天井――じゃなくて、見慣れた自室の天井。
「あれ……?」
身体を起こすと、ふかふかのベッドの感触が背中に残った。
ちゃんと、着替えてはいないけれど、ドレスの上に毛布がかけられていて……どうやら、誰かが運んでくれたらしい。
けれど、どうして? 私は……昨夜――
(……っ!)
唇に指を触れた瞬間、全身に電流が走るような衝撃が走った。
――柔らかな感触。
――カシスの甘く深い香り。
――熱を孕んだ、夢のようなキス。
あれは、夢じゃなかった。
確かに、私は……キスをした。
しかも、あんなに――あんなに、濃密に。
「な、なにしてるの私……っ!!」
一人ベッドの上で抱き枕に顔を埋めて、身を捩る。
羞恥と後悔と恐怖で、胃がきゅうっと縮む音が聞こえたような気さえした。
もしもあの仮面の男が、ヒロインの攻略キャラだったらと思うと、怖くて怖くて……
「鳥肌が……」
腕を撫でて、ぞわりとした感触を追い払おうとする。
でも、唇に残る記憶は、どうしても消えてくれない。
思い出すたびに胸が苦しくなるほど、優しくて、寂しげなキスだった。
(……でも、あれは誰だったんだろう?)
声は、どこかで聞いたことがあるような気がして。
でも思い出せない。
仮面の下の顔も見えなかった。
手のぬくもりだけが、夢のように残っている。
「……忘れよう。忘れるしかない。これは一夜限りの夢。そういうこと」
そう自分に言い聞かせても、頬の奥がじんわり熱い。
窓の外では、朝の薔薇園が静かに風に揺れていた。
まるで、昨夜の秘密をそっと見守っているように。
◇ ◆ ◇
昼下がりの学園の中庭。噴水のそばに咲き誇る季節外れの花々の香りが、風に乗ってふわりと舞っていた。
「ベルフェリア様、あの……このクッキー、食べてみてください!」
そう言って、桜子は少し焦げた焼き菓子を差し出してくる。控えめに紅茶と一緒にいただきながら、私は心を落ち着けるように微笑んだ。
けれど──胸の奥にはまだ昨夜の、あの仮面の男との出来事が鈍く残っている。唇に触れた熱、あの言葉……思い出すだけで体温が少し上がってしまう。
そんな私の沈黙を、桜子は「どうかしましたか?」と心配そうに首をかしげた。
「いえ……むしろ、私のほうこそ聞きたいことがあって」
私はさりげない風を装って問いかけた。
「そういえば、昨日の仮面舞踏会……どうだったの? レイ王子と、その……一夜を共に過したの?」
クッキーを食べていた桜子の手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
彼女は本当に、心の底から驚いたように目を見開いた。
「わ、わたしが……レイ王子と……ですか……?」
言葉の最後は、まるで理解不能な事態に遭遇したようなかすれ声だった。
「う、うそ……違ったの? 昨夜、踊っていたでしょう? だから、てっきり……」
「えっ、そ、それは……! 周りの方々がどうしてもと……」
桜子は両手をばたつかせながら必死に否定し、顔を真っ赤にしている。
「その……レイ王子はとても優しい方だと思います。ですが、わたしにとっては、それ以上でも、それ以下でもありません……」
ああ、やってしまった。私はすぐに頬を押さえ、なんとか取り繕おうとした。
「ご、ごめんなさい! いやらしい意味じゃなくて、ただ、その……私の誤解だったわね……」
「い、いえ!ベルフェリア様がそんな勘違いをなさるなんて……ちょっとびっくりしましたけど……」
桜子はすぐに笑顔を取り戻してくれたものの、私は自分がどれほど浮ついていたのかを思い知る。
──そうだよね。
ヒロインと王子様が、勝手にいい雰囲気になって、そこから関係が進んで……なんて、原作通りにはいかないわよね。
なんせ、私が書いた夢小説が舞台なんだから。
なのに私ったら、完全に自分の知っていた“原作”に当てはめて桜子たちを見ていたのかもしれない。
……作者である私のほうが、誰よりも"この世界を信じてない"んだ。
「……じゃあ、桜子は誰が好きなの?」
ぽろりと出たその問いは、我ながら少し意地悪だったかもしれない。けれど、先ほどの動揺を引きずったまま、なんとなく意識の針がそこに向かってしまったのだ。
桜子は、一瞬だけ視線をさまよわせた。
その仕草が、なんだか懐かしい原作通りのヒロインみたいで、少しだけ微笑ましかったけれど──その後、彼女はまっすぐ私を見て、はっきりと口にする。
「……ベルフェリア様、です」
……え?
優しい微笑み。頬を染めながらの、真っ直ぐなまなざし。
空気が、一瞬止まったような気がした。
「え、あ……もう……」
私は頬に手を当てて、思わず苦笑した。
「なんて可愛いことを言うのよ……桜子ったら……」
「え……?」
桜子は小さく首をかしげる。
その微かな困惑に私は気付かず、冗談めかして話を逸らすようにお茶をひとくち飲んだ。
彼女が私を慕ってくれているのは前から感じていた。でも、それはあくまで“導き手”や“理想の先輩”としての好意だと思っていた。
だって、私はあなたの味方じゃないと処刑されてしまうんだから。
って……当初の目的はそうだったけど、でも……桜子と話していると不思議と素で楽しくいられるのよね。
ヒロインだとか、悪役令嬢だとか抜きに。
こんなふうに……まっすぐに告白されるような、そういう意味では……ないはず。
私は自分に言い聞かせるように紅茶を口に運びながら、ふと目を伏せた。
その時、桜子の小さなつぶやきが風に乗って聞こえた。




