34 仮面の男と一夜の過ち
バルコニーの縁に両手を添えて、私はただ、薔薇園を見下ろしていた。
夜の闇に包まれながら、それでもなお凛と咲き誇る薔薇たちは、私にはとても強く見えた。
(……ゼイン様に会いたい)
静かに吐いた息が、夜気に溶けて消えていく。
そのときだった。
ふと、建物の影から誰かが姿を現した。
黒と深紅の中間のような、静かな光を湛えた礼装。
整った動きと品のある立ち姿。だが、それ以上に、私の目を惹いたのは――その人が、まっすぐに私を見上げていたことだった。
目が合った。……気がした。
仮面に覆われているはずの顔なのに、その人物は微かに目を細めるような仕草をして、口を開いた。
「……浮かない顔をしているね。まるで、迷子の子猫みたいだ」
静かな声。
遠くからなのに、なぜか耳元で囁かれたように鮮明に聞こえた。
私が息を呑んだその瞬間、彼はひと足で軽やかにバルコニーの柵へと跳び乗った。
「……こんな世界から、連れ出してあげようか」
夜風が彼のマントを揺らす。
そして、手が伸ばされた――私へと。
その手には手袋がされていた。白く、優雅な形。
だけど、彼からふわりと漂ったのは、濃厚なカシスの香りだった。
深く、甘く、それでいてどこか毒のように妖しい香り。
この香りを私は、どこかで――いや、思い出しちゃダメ。
彼の顔は見えない。仮面が影を落としていて、表情はひとつもわからない。
なのに、不思議だった。
その人の瞳の奥に、私を見透かすような深さがある気がして。
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。
(……今だけでも、全部、忘れてしまいたい)
ノクスのことも。
手紙のことも。
この恋愛ゲームの世界であることすら。
――ほんの一瞬だけでも。
私は吸い寄せられるように、その手を取った。
すると彼は微かに口元を綻ばせたように見えた。
すぐに視線が絡み、また目を逸らしてしまう。
手を取った瞬間、仮面の男は私の腰を引き寄せ、躊躇なくバルコニーの柵から宙へと身を躍らせた。
「――っきゃあっ……!」
思わず悲鳴を上げる私の身体を、彼はしっかりと腕の中で支えていた。
落ちる感覚ではなかった。
まるで、風に抱かれてゆっくりと舞い降りる花びらのよう。
そして私たちは、仮面のまま、月夜の薔薇園へと舞い降りていく。
やがて着地すると、ふわりとドレスの裾が広がり、薔薇の香りが夜風と共に揺れた。
そこは、誰も立ち入らない薔薇園の奥――
舞踏会の喧騒から遠く離れた、秘密の庭だった。
「……逃げ出したかったのかい?」
仮面の男が囁くように言う。
その声はどこまでも柔らかく、けれど甘い毒のような深さがあった。
私は言葉を返せなかった。胸がまだ、落ち着かない。
彼は私の手を離さず、もう一方の手を差し出した。
「……一曲どうですか? お嬢様」
言われるままに手を取ると、仮面の男は自然に私の腰を抱き、静かに一歩踏み出した。
夜空の下、月光だけを灯りにして、二人きりの舞踏が始まる。
誰もいない庭園。
咲き乱れる深紅の薔薇。
その花の香りと、彼の香水が混ざって、まるで夢の中にいるようだった。
ステップはゆるやかで、音楽などなくても不思議と心が溶けていく。
「君は……とても孤独そうだね」
ぽつりと、仮面の奥から声が落ちる。
私はぎくりとして目を見開いた。
「どうして、そう思うの……?」
「目が泣いてる。仮面の下の君の瞳が」
彼の声は不思議だった。
何かを見透かすようで、けれど強くは踏み込んでこない。
月の光に包まれながら、彼の腕の中で踊っていると、自分が誰なのかも曖昧になっていく気がした。
この人は、誰?
知っているような気がする。けれど、知らない。
でも、それでいいと思った。
――今だけは、何も考えずにいたい。
手紙のことも、ノクスの視線も、恋も運命も、ゲームのことすら忘れて。
私はただ、彼と踊り続けた。
真紅の薔薇の中で。
月の光の下で。
夢と現の狭間で。
仮面があるから、正体は隠せる。
仮面があるから、本音もさらけ出せる。
けれど、その仮面の奥で――彼は、私の何を見ていたのだろう。
甘く、苦く、永遠のような一瞬が、静かに過ぎていく。
ああ、どうして。
どうして私は、こんなにも――現実から逃げ出したくなっているのだろう。
月明かりの降り注ぐ薔薇園。
甘く濃い花の香りに混ざって、彼――仮面の男から漂うカシスの香水が、私の理性をどこか遠くへ攫ってくれた。
「少し、疲れた顔をしているね」
低く優しい声に、思わず目を伏せた。
胸の奥にある不安や葛藤に、気づかれたような気がして。
「今だけでいい。煩わしいものは、すべて忘れて――」
そう囁くように言いながら、彼はそっと私の頬に手を伸ばす。
柔らかく包み込まれたその手が、どうしようもなく温かくて。
反射的に肩が跳ねたのに、逃げようとは思えなかった。
ほんの、少しだけでいい。
この瞬間だけ、夢を見させて。
そう思った刹那、彼の唇が、私の唇を塞いだ。
「……っ!」
息が詰まりそうなほど、熱い。
けれど、強引ではなかった。
深く、静かに、迷いもなく、私の意思を確かめるようなキスだった。
舌先が触れ合う瞬間、身体の芯がくすぐられるような甘い震えが走る。
私は咄嗟に彼の胸元を掴んでしまった。
やめなきゃ、逃げなきゃ、こんなの――だめ、なのに。
でも、唇を奪われている間、すべての現実が遠ざかっていった。
誰かに狙われている恐怖も、
ノクスと向き合えなかった弱さも、
なにより、自分がこの世界にいてはいけないんじゃないかという罪悪感も――
全部、今だけは、どうでもよくなってしまった。
仮面の奥のその人の目は見えない。
でも、彼の指先の熱と、舌の動きだけが、確かに“私”に触れていた。
もっと深く、もっと長く……そしたらどうなってしまうの?
それが怖くなって思わず彼の胸板を押すと、私の歯が彼の唇を掠める。
そして彼はゆっくりと唇を離し、私の額にそっとキスを落とす。
「これは夢だから、大丈夫さ。目が覚めたら全部忘れてる」
その声が、なぜかひどく切なくて。
私はなにも答えられないまま、ただ目を閉じて、余韻を噛み締めることしかできなかった。
でもきっと、
私は――この夜を、一生、忘れられない。
◇ ◆ ◇
遠くで響く音楽。
それはまるで、誰かの恋の始まりを祝福するかのように優しく流れていた。
だが、ノクスの耳には雑音にしか聞こえなかった。
――どうして。
どうして、あの時、あの手を引き止めなかった?
どうして、何も言えなかった?
「……全部、遅ぇんだよ、俺は……」
独りごちた声が、夜気に滲む。
彼女を追っていた。
必死で追いかけて、ようやく指先に触れたはずなのに――
「あんたは……俺のものじゃないんスか?」
あんな強引にキスして舌を絡めてみても、彼女の心には一ミリたりとも触れられない。
彼女だけを真っ直ぐ見ていても、どこか遠くを見ているような目で……
気づけば、喉の奥でそんな言葉が渦を巻いていた。
──かつて、誰にも必要とされなかった。
どれだけ剣を振るっても、誰の心にも触れられなかった。
ただ"忠実な騎士"として、道具のように扱われていた日々。
その中で、初めて自分と対等に接してくれたのはアネットだった。
偽名でも、偽りでも。あの笑顔に、何度も救われた。
だからこそ。
あの手が、自分以外の誰かに握られているという現実が――
その事実が、心の奥をずっと、ぐらぐらと軋ませていく。
『……こんな世界から、連れ出してあげようか』
さっき、あの仮面の男が、確かにそう言っていた。
アネットが何も拒まず、むしろその言葉に微笑んでいたことが、脳裏に焼き付いて離れない。
(……違うだろ。あんたを幸せにできるのは……)
そう思いたくないのに。
彼女を信じたいのに。
足元に、わずかなひびが入る音がした。
それは、ノクスの心に走った、裂け目の音だった。
「俺は、騎士だから……守るのが仕事だって……そう思ってたのに」
違ったのかもしれない。
自分は――ただ、誰かにとって“必要な存在”になりたかっただけなのかもしれない。
だが、その願いさえも、もう彼女の心から遠ざかっている気がして。
「あんたが、俺のものじゃないなら……俺は、何のためにここにいるんスか……」
大切な人だと言ってくれたのに……あれは嘘だったのか?
言葉は闇に溶け、返事など返ってこない。
ノクスの瞳は、もうあの美しい舞踏を見ていなかった。
ただ、己の内側で渦を巻く、黒く冷たい感情を、じっと見つめていた。
そして彼女たちが深いキスに溺れていくと、その奥底で、静かに芽生える――
誰にも見せたことのない"本当の顔"が、
ゆっくりと、目を覚まし始めていた。




