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33 言えない本音は体温に溶ける

 

「待てって言ってんスよ……アネット」


 その名を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。

 仮面の下の顔が蒼白になる。


「な、なんのことかしら……っ。私はただの招待客で……っ」


「とぼけんの、もうやめたらどうッスか」


 ノクスの声は低く、けれど熱を孕んでいた。

 両手首を掴む力が強くて、振りほどこうとすればするほど、逆に逃げ場が削られていく。


「やめて……ノクス、やめて……っ」


「何から逃げてるんスか。あんた……俺のことそんなに嫌になったのかよ」


 ぐいっと腕を引かれ、壁際の柱の陰に押し込まれる。

 仮面をしているはずなのに、ノクスの視線はまっすぐに私の心の奥を見透かしていた。


「どこ行ってもあんたの姿が見えなくて。声も聞けなくて。ずっと、ずっと、探してたんスよ」


「そ、それは……っ」


「俺……なにかしたッスか? 理由も言わずに距離置かれて、いきなり全部シャットアウトされて。笑ってくれない。呼んでくれない。触れさせてもくれない」


 押し殺したような声で吐き出される言葉の一つ一つが、胸に突き刺さった。


「そ、それは……私の問題で、ノクスのせいじゃ……ないの……」


「だったら、なんで逃げるんスか。こんな風に、俺を拒絶するようなこと、すんだよ……ッ!」


 吐息が近い。

 仮面同士が触れそうなほど顔を寄せられ、ドレスの腰を後ろから掴まれて、身体ごと動きを封じられる。


「待って、ノクス……んっ……!」


 弁明しようとした瞬間、ノクスの唇によって、強制的に口を塞がれる。

 ――そして、強引にねじ込まれる舌。


 ノクスは必死に舌を絡めようと、私の頭を壁に押し付ける。

 そんな激しいキスに目眩がする。


(やだ、近――っ)


「……俺、この前も言ったと思いますけど、もう限界ッスよ。これ以上、黙って距離置かれるくらいなら……いっそ、壊してやろうかって思ってます」


 息を整える間もないくらい、ゾクリと背筋を走る言葉に、心臓が跳ね上がった。


「あんたが、誰に微笑んでるかとか、誰と踊ってるかとか……気が狂いそうなくらい気になってた」


「っノクス、離して……っ、お願い……」


「ダメッス。今夜は……もう、逃がさない」


 ぐっと腰を引き寄せられ、背中と壁の間に、ノクスの体温がぴったりと重なった。

 柔らかく息が頬に触れる――唇が、仮面の縁をなぞって、私の素顔に辿り着こうとするような、そんな危うさを孕んでいて。


「なぁ……俺のこと、もう嫌いになったのかよ」


 かすれた声。

 今にも壊れそうなほど、脆くて、熱くて。


 だけどその熱は、決して怒りではなかった。

 むしろ――ひたすらに、私という存在を求めてやまない、独占欲と愛情と渇望の塊だった。


「……違う。違うけど……ノクスを、傷つけたくないの……!」


 ぽろりと漏れた私の言葉に、ノクスの動きが一瞬止まる。


 次の瞬間、彼は小さく「はは」と笑って、額を私の肩に預けた。


「――やっぱ、そういうとこ……マジで嫌いになれないッスよ、あんたのこと……」


 震える声が、まるで自分を叱るように呟いた。


 ノクスの腕の中で、私は身動きも取れずにいた。

 心臓は高鳴り、喉が張りついて、呼吸さえままならない。


 どうしても……言えなかった。



 ノクスからの必死な問いに、言葉を返せなかった。


(違うのに……ノクスが嫌いなんかじゃない。むしろ……悪役令嬢の私なんかを嫌わないでくれてる優しい子……)


 だけど、深く関われば――

 また、誰かに狙われる。ノクスが傷つけられるかも。


 あの手紙の文字が、頭の中で焼き付いたように繰り返される。



 私のせいで、ノクスが――。


「……言えないんスね」


 肩に額を預けていたノクスが、ふっと吐息を零す。

 その声はどこか諦めに似ていて、哀しげだった。


 その一瞬、ノクスの力が緩んだ。

 私を囲っていた腕が、わずかに離れた。


(今――!)


 私は迷うことなく、彼の腕を押しのけ、身を翻した。

 ノクスが驚いたように目を見開いた瞬間、私はドレスの裾を掴み、仮面が落ちないように押さえながら人波の向こうへと駆け出していた。


「アネット……!」


 ノクスの声が背中越しに追いかけてくる。

 でも、振り返れなかった。


 振り返ったら――


 あの顔を見たら――


 もう、逃げられなくなってしまうから。


 人混みに紛れるように、私は踊る貴族たちの間をすり抜け、仮面とドレスに守られるようにして遠ざかっていく。

 けれど、胸の奥が締め付けられるように苦しかった。


(……ごめんね、ノクス)


 声に出せたら、どんなに楽だっただろう。

 "私は本当はこの世界の人じゃない"と……伝えられたなら。


 でも今は、それを言う資格すら、私にはないような気がした。


 仮面の奥で、私は唇を噛み締めながら、逃げ続けた。


 ◇ ◆ ◇


 人の波をかき分けて、私はバルコニーの扉を押し開けた。


 冷たい夜風が頬を撫でる。

 仮面の下で熱くなっていた呼吸が、ようやく落ち着いていく。


 いっそ、あの熱いキスの余韻すら消してくれたら……


 喧騒から遠ざかったそこは、誰もいない静かな場所だった。


 眼下には、淡く月に照らされた薔薇園。

 赤や白の花々が夜露に濡れ、光を吸い込んで淡く揺れていた。


(……ここ)


 思い出す。あの時の静けさ。

 ゼイン様と、二人きりで、何も言葉を交わさず座っていたこの場所を。


 風に乗って、かすかに香るのは、薔薇の香り――


「……本当に、不器用な人ばかり」


 ぽつりとこぼれた言葉が、夜に溶けていく。


 ノクスの熱。ゼイン様の沈黙。レイ王子の優しさ。


 それぞれの想いが、私の中で複雑に絡まりながらも、どこか愛おしい。


 だけど、私はただ――

 誰かを傷つけずに生きたかっただけなのに。


 けれど、一人だけ未だに謎に包まれた人が……



 薔薇の香りに包まれた静けさの中、私はそっと柵に手を添える。

 夜露のついた鉄柵が、ひんやりと冷たかった。


 風が吹くたび、赤いドレスの裾がふわりと揺れる。

 まるで、もう戻れない何かを、名残惜しそうに追いかけているように。


「……もう、どうすればいいのか、わからないよ……」


 誰に届くでもない呟きが、月に吸い込まれていく。


 けれど、薔薇たちは何も答えず、ただ風に揺れていた。


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