32 嫉妬渦巻く仮面舞踏会
「仮面舞踏会……?」
桜子が持ってきたチラシには、ルミナリア学園が毎年主催する“夜会”の告知が書かれていた。
「学院の後援会が開催する、非公式イベントらしいです。仮面をつけて参加するから、身分も素性も問われずに楽しめるんだとか」
「へぇ……おもしろそう」
本当なら、桜子も私も……そんなイベントに顔を出すようなキャラじゃない。
だけど私は、今――キャラのルートから外れて、どこか宙ぶらりんな場所にいた。
ノクスはもちろん、レイ王子ともリンネとも、……ゼイン様とも。
彼らのことを想えば想うほど、距離を置かなきゃという気持ちが強くなってしまう。
(私が関われば、またあの手紙のようなものが来るかもしれない。誰かが傷つくかもしれない)
ノクスのことを拒んだあの日から、私は彼とほとんど口をきいていなかった。
彼は、レイ王子の傍に戻ったように見えて……けれど、たまに私を盗み見るような視線を感じることがあった。
そのたび、胸が痛む。でも、理由がなんであれ、逃げたのは私だ。
ゼイン様も、クロードも……私が“何か”を隠していると感じているのだろう。
(分かってたけど……私は、この世界のバランスを乱してる)
だからこそ、この仮面舞踏会は魅力的だった。
正体を隠して、誰にも縛られずにいられる一夜。
桜子とキャラのフラグやら好感度やら、めんどくさい事を考えなくていい。ただの“私”でいられる夜。
「ねえ、桜子。ドレスは持ってる?」
「えっ……?」
「仮面舞踏会。もう始まってるんでしょう? 少しだけ覗いてみたいの」
「……わかりました。わたしもベルフェリア様と共に、仮面舞踏会に参加します!」
桜子は微笑んで言ったけど、その瞳の奥には、どこか寂しげな揺らぎが見えた。
(大丈夫よ、桜子。私は誰も選ばない。誰の邪魔もしない。だから……)
ただ一晩、夢の中に逃げるだけ。
それはきっと、何も変えないはず――そう信じて。
「うわぁ……」
鏡の中に映る自分を見て、私は思わず息を呑んだ。
身に纏ったのは、深く鮮やかな真紅――
まるで薔薇が月夜に咲き誇ったような、情熱と妖艶を同時に秘めたドレスだった。
肩は大きく開き、繊細なレースがデコルテを覆っている。
艶やかな生地は光を受けて濡れたように輝き、ウエストにかけてきゅっと絞られたラインが、普段の制服では出せない曲線を引き立てていた。
スカートの裾は斜めにカットされていて、歩くたびに足元から覗く真珠色のヒールがちらちらと揺れる。
背中にはリボンをあしらった透明な黒いオーガンジーのケープ。ほんの少し悪戯心をくすぐるような、仄暗い透明感を纏っていた。
「まさか、ここまで似合うとは……っ。ベルフェリア様、まるで夜に咲く女神のようです……!」
桜子がうっとりと呟いた。
「や、やめてよ……そんな大げさな……」
頬を染めながらも、私は鏡の前でくるりと一回転してみせる。
本来の“悪役令嬢”としての装いとも、学園での仮の“アネット”としての姿とも違う――
これは、誰のものでもない私。
仮面舞踏会だけの、誰でもない“私”。
「……仮面、つけてくれる?」
私は桜子に手渡された黒いレースの仮面を顔にあてがった。
目元だけを覆うシンプルなデザイン。けれど、その下の瞳の奥には――
いつもと違う、少しだけ自由な、少しだけ脆い私がいた。
(誰にも気づかれない。そう、これは――ほんの一夜の夢)
その言葉を自分に言い聞かせながら、私は月のように白く灯された窓の向こう、舞踏会の会場へと歩き出した。
自分が“誰でもない”存在になれた気がした。
◇ ◆ ◇
きらびやかな会場の扉が、ゆっくりと開かれる。
足元から広がる紅い絨毯。幾重にも重なる音楽と、人々の笑い声。
シャンデリアが光を浴びてきらきらと揺れ、夜の幻想を飾っていた。
私はゆっくりと会場へ足を踏み入れる。
(ふぅ……落ち着いて。誰にも、私だって気づかれてない)
髪はいつもより高く結い上げ、目元には薄く化粧を施し、仮面の内側で視線も泳がせないように気をつける。
自分じゃない私として、今日はただの観客でいるつもりだった。
(ヒロインでも、悪役令嬢でもない、誰にも縛られない一夜を――)
「お一人ですか?」
「いかがです? 一曲」
声をかけてくる紳士たちの誘いに、やんわりと首を振る。
踊りたい気持ちがないわけじゃない。でも、それ以上に、何かを変えようなんて思ってはいけない。
これはただの、夢。
(誰かに期待しちゃダメ。正体がバレたら、それこそ……)
それでも――
どこかで誰かが、私を見てくれたらいいと思っている。
この世界の“私”ではなく、どこにも属さないただの“私”を。
(……バカみたい。私、こんなに誰かに認められたかったのかな)
壁際の柱にもたれ、グラスを口に運びながら、踊るペアたちを眺める。
そのとき、不意に――視線を感じた。
振り返ると、仮面をつけた誰かが、こちらをまっすぐに見ていた。
距離があるのに、なぜか目が合ったと確信できた。
銀の仮面。黒の礼装。星ような、輝く金色の瞳。
(……まさか。そんな、まさか)
心臓がどくんと跳ねた瞬間、その人物は一歩、こちらへ足を踏み出した。
私は、とっさに踵を返した。
(ダメ。今は見つかっちゃいけない)
あの視線は――私の正体を知っている。そんな確信を持ってこちらに向かってきていた。
真紅のドレスを翻しながら、人混みの中を逃げるように歩く。
顔の下半分を仮面で隠しているはずなのに、心臓の音だけは隠し切れなかった。
誰にも知られず、誰にも縛られず、ただ今夜だけの夢を見たくて。
なのに、思わず足を止めてしまった。
会場の中央。
煌々と照らされた舞踏の輪の中心で――
「レイ……王子……?」
優雅なステップを刻む彼の傍らには、白を基調にしたドレスを纏った――桜子。
レイ王子が、彼女の手を引いてくるりと回す。
ドレスの裾が花のように広がり、拍手と歓声が響く中、ふたりは完璧なペアに見えた。
(そっか……やっぱり、そういうこと、なんだ)
胸の奥が、きゅうっと音を立てて凍える。
(二人はお似合いだもの……。桜子も、レイ王子に決めたのね)
苦い笑みを浮かべたその瞬間――
「……何やってんスか」
低く、けれど耳元に直接落ちてきたような声に、私は飛び上がった。
肩を掴まれて、ぞわりと背筋が冷たくなる。
――振り返るまでもない。
この声、この気配。この重く張り詰めた空気。
「ノ……クス……ッ」
仮面越しに、私の正体を見抜くような、冷たい視線。
その瞳の奥にあるのは、問いかけでも、咎めでもない。
ただ――ずっと、私を見つけていたと言わんばかりの、確信。
(……やっぱりさっきのは、ノクスだったのね……)
無意識に一歩、後ずさった。
だけど、逃がさないとばかりに指先に力が込められる。
ざわりと、舞踏会の喧騒が遠のいた気がした。
私とノクスだけが、仮面の裏側で、違う空気を吸っていた。




