31 もう逃がさない。
夜の寮の裏庭。
月明かりに照らされたその場所に、私はそっと足を運んだ。
気持ちは落ち着かず、心の中にはあの手紙の文字がぐるぐると巡っている。
"――アネット・フォン・ベルフェリア殿。
ヒロインの邪魔をするのはやめろ。"
どうして、そんなことを知ってるの? 誰が、どうやって――?
でも、私……正規ルートを辿ったら死んじゃうの……ヒロインの恋愛の邪魔はしないから、許してよ……。
そんなとき、背後からガサリと物音がする。
「……あんた、最近俺を避けてるッスよね」
びくり、と肩が跳ねた。
振り返るといつの間にか、ノクスが立っていた。
影の中から現れたその姿は、いつもと同じ無造作な少し長めの濃紺の髪。そして整った制服に、レイ王子専属を表すネックレス。だけど――その目だけが、いつもよりずっと鋭くて。
「ちょ、ちょっとノクス、急に現れないでよ。びっくりするじゃない……!」
「はぐらかすの、やめてくださいッス。俺、気づいてるんスよ。あんた、俺から逃げてるだろ」
「逃げてなんか……っ、ないわよ」
「嘘だな、それ。三日前から言ってることッスけど、俺が話しかけようとすると、あんた絶対目を逸らす。廊下で鉢合わせた時も逃げたし、学園の食堂でも俺のとこ避けた。あと図書館でも――」
「ちょ、ちょっとストーカーみたいな言い方やめて……」
「もう三日だぞ。三日も、俺を無視して、避けて、名前も呼んでくれなくて……」
低く、掠れた声。いつもの"優しいノクス"はどこにもいなかった。
そこにいたのは、感情を押し殺しきれず、限界寸前の男の顔。
「俺、あんたのこと、ちゃんと見てきた。ちゃんと、大事にしようって思って、踏みとどまってた。レイ様のこともあるし、あんたの気持ちも、考えて……」
そこまで言って、ノクスは一度、目を閉じて深く息を吐いた。
「でももう、無理だ。あんたに避けられて、冷たくされて……壊れそうで、死ぬかと思った」
そう呟いた瞬間、私の背が壁に押しつけられた。
ノクスの声は怒っているわけじゃない。でも、異様に静かで――妙に熱がこもっていて。
それが余計に、胸をざわつかせる。
「ち、違うのよ。ただ、ちょっと私……その、考えなきゃいけないことがあって……」
「考えなきゃいけねぇこと……ッスか。それは俺には言えねぇのか?」
「……!」
ノクスが、更にぐっと距離を詰めてくる。
目を逸らしたくても、視線が絡んで離せなかった。
「俺、ずっと我慢してたんスよ。あんたがレイ王子といるときも、クロード王子や処刑人と話してるときも、あの緑の妖魔とふざけ合ってるときも。ぜーんぶ、笑って流してた」
低く、けれど抑えきれない熱がこもった声。
「最初から、距離グイグイ詰めてきて……俺の気持ちなんて分かってないみたいに、あんたは俺の心を……」
苦しそうな表情で、ノクスは私に向けて訴える。
「なのに、あんたは……今になって俺のこと、無視したり遠ざけるのか……?」
「そ、それは……」
言い訳なんてできなかった。だって、本当にそうだったのだ。
ノクスの視線が私を射抜くように見つめてくる。
「なあ、教えてくださいよ。俺、そんなに邪魔ッスか?」
その声に、思わず目を見開いた。
邪魔なんかじゃない。
むしろ、あなたが傍にいてくれたから、私は――
でも、言葉にならなかった。
あの手紙の存在が、心に大きくのしかかっていたから。
そんな私の沈黙に、ノクスはふっと乾いた笑いを漏らす。
「そっか……わかったッス。じゃあ、今度は俺が、あんたを追いかける番ってことかよ……」
その目は、いつもよりずっと大人びていて、真剣だった。
私の心臓は、何かが崩れていくように、高鳴っていた――。
「えっ、ちょ、ちょっと待って、ノクス――」
言いかけた言葉が、次の瞬間、風にかき消された。
ノクスが私の手首を掴んだ。ぐっと力強く、だけど痛くはない――でも逃げられない力加減で。
「もう……限界なんだよ……ッ」
その、いつものような余裕のなさそうな言葉に、息が止まりそうになる。
ノクスは私の手首を放さず、もう片方の手で私の頬に触れた。
熱かった。指先じゃない、感情そのものが熱いみたいで。
「あんたが誰かに取られるなんて、考えたくもない。他の誰にも触れさせたくない。キスマークとか……見せんな。誰のだろうが、嫌なんスよ」
「そ、それは――」
「……オレが、もっと濃いの……付けりゃよかった」
真っ直ぐに見つめられ、耳まで真っ赤になった。
「ダメ……それは、ダメよ……!」
そんなことしたら桜子がまた……!
「なんでダメなんスか……あんたが誰かのもんになるくらいなら、俺が全部先に奪えばいい。そう思ったって、責められる筋合いはねぇだろ」
反論しようとすると、ノクスの唇が、触れそうな距離まで迫る。
呼吸もできない。胸の鼓動の音がうるさすぎて、思考が追いつかない。
「……ッ!」
その瞬間、私は咄嗟にノクスの胸を押して、一歩下がった。
「……そんなの、今は考えられない。お願いだから、これ以上は……」
ノクスの肩が、小さく上下する。
「……そッスか。――なら、今は引いてやるよ」
そう言って、彼は静かに手を放した。
でもその目は――次に同じ手を伸ばしたら、もう絶対に引かない。そう語っていた。
「逃げてもいいッスよ。今だけは。でも、覚悟しとけよ。俺は、ぜってえ諦めねぇから」
夜風の中に、彼の言葉だけが強く、熱く残った。




